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澶淵の盟

1004年に締結された遼(契丹)と宋の間の講和の取り決め。宋の真宗を兄、遼の聖宗を弟としたが、宋は遼に銀・絹布を歳幣を納めることを約した。

 せんえんのめい。1004年に成立した、(契丹)との講和条約。燕雲十六州の割譲以来、後晋以後の漢民族の後漢・後周・宋の各王朝は、その奪回を試みたが、いずれも成功しなかった。また遼も、946年には後晋の都汴京を陥れ(そのとき国号を遼と称した)たが、漢民族の抵抗を受け7ヶ月で撤退した。この争いは宋代となっても続き、宋にとっては遼との戦争による出費が大きな負担となっていた。
 1004年に遼の聖宗(第6代皇帝)は大軍を侵攻させ、黄河の北岸に迫った。宋の真宗は自ら黄河を渡って抵抗の姿勢を示すとともに、遼との和平交渉を行い、両国の講和を成立させた。それによって宋は三州を復帰させたが、残りの州の遼の支配を正式に認め、国境線を現状維持とし、また宋は毎年、銀10万両、絹布20万匹を遼に贈与することを約束した。外交文書の上では、年少の遼の聖宗が、年長の宋の真宗を兄と呼んだが、事実上は遼にとって有利な講和条約であった。この和議によって、1122年までのおよそ120年間の平和が実現された。

銀・絹

 1004年の澶淵の盟で宋が遼(契丹)に毎年献上することを約束した物品はであった。宋は遼に対し、毎年、銀10万両(両は重さの単位で16分の1斤、古代中国では1両=約16g)、絹布20万匹(匹は布の長さの単位。1匹=4丈、約9.4m)を贈ることを約束した。また宋は大夏(西夏)との慶暦の和約(1044年)でも、銀5万両、絹13万匹、茶2万斤を毎年贈ることを約束した。
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ノートの参照
第6章2節 イ.北方の諸勢力