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元曲

元代に流行した雑劇の台本。

 元の文化の中では、宋の儒学(朱子学)のような、漢文化の発展はなかった。しかし、元曲の流行のような、新しい民衆文化が芽生えたのがこの時代である。中国文学史上の代表的な動きとして、漢代の文章(漢文学)、唐の詩(漢詩)と並んで、元の元曲が挙げられている。元曲とは、歌舞・音曲・演技が一体となった舞台芸術である雑劇(戯曲)の台本のこと。元の時代に一般大衆の中から始まり、元を代表する唯一の文芸となった。特に大都で盛んになったものを北曲、江南で盛んになったものを南曲という。その後さらに明、清時代に発展していく。作者と作品としては関漢卿の『救風塵』、馬致遠の『漢宮秋』、王実甫の『西廂記』、白仁甫の『梧桐雨』、高明の『琵琶記』などが知られている。現代の中国では清の北京に始まるとされる京劇が盛んであるが、元曲も京劇に影響を与えている。
西廂記  せいしょうき。元代の戯曲である元曲の代表的作品。王実甫の作。張君瑞と崔鶯鶯の男女二人を主人公とした恋愛物語で、心理描写に富み、また元代の社会を知る史料となっている。
琵琶記  びわき。元末の長編戯曲である元曲の作品。高明(則誠)の作。伝奇的な南曲(江南で盛んになった元曲)の代表的な作品。後漢の豪族生活を舞台にし、元代の地主(士大夫)階級を批判的に描いている。
漢宮秋 元末の馬致遠作の元曲。漢代、匈奴の王に嫁いだ王昭君を主人公とした悲劇。漢の元帝(第11代)の時、漢に降った東匈奴の単于の求めに応じて、後宮の女性を下賜することになった。選ばれた王昭君は、前33年に匈奴の呼韓邪(こかんや)単于のところに送られた。その妻となった彼女は一男を産んだが、単于の死後は匈奴の風習によって次の単于(本妻の子)の妻とされ、さらに二女を産んだ。この王昭君を主人公とする哀話のうち、最大の傑作とされているのが、元の馬致遠の戯曲『漢宮秋』である。

参考 元曲の定説とその批判

 元の支配下の中国では科挙がほとんど行われなかったため、古典や文学の素養が万能でなくなった。科挙に合格して官僚になるという道を閉ざされた漢人の士大夫たちは、その知的エネルギーを庶民向けの芝居脚本である「元曲」の創作に向けた・・・という、元曲は「モンゴルの士大夫たちに対する冷遇が交流の要因となった」というのが「通説」である。
 しかしこの通説は、野蛮な遊牧民の征服王朝である元によって中華文明が軽視され、科挙は行われず、儒教も衰え、士大夫も冷遇されたという「思い込み」からくる誤解である。元のもとでは士大夫層は科挙ではなく「推薦制」で国家官僚となっていた。元曲のこのような通説に対する批判として次のような指摘がある。
(引用)「通説」では、モンゴルの士大夫にたいする冷遇が興隆の要因となったといわれる代表例は、「元曲」である。ところが、最近の研究によれば、元曲は元代中国ではじめて出現したものではなく、元代よりもずいぶんまえから存在していた。モンゴル治下の、中国士大夫・文化人が抑圧される特殊な状況だからこそうまれたのだ、という奇妙な説明はなりたたない。むろん、士大夫・読書人たちの鬱積したエネルギーの産物であるとする解釈も無理がある。
 出現の時期だけでなく、その実態のほうも、庶民のみを対象としたいささか低級で鄙俗な面もある大衆芸能と、単純に割りきってかんがえあれるかどうか、疑問視されている。・・・
 元曲をとりまく状況を特別な先入観をもたずに素直にながめれば、それ以前からすでにあった口語体による舞台演劇が、モンゴル時代という時をえて、いっそう活発で華やかに社会の各層で歓迎され流行したということである。ただ、それだけのことである。<杉山正明『クビライの挑戦』1995 講談社学術文庫版 p.57-58>
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ノートの参照
第6章3節 イ.元の東アジア支配
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杉山正明
『クビライの挑戦』
1995 講談社学術文庫