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東匈奴

匈奴が前60年ごろ東西に分裂して成立。漢に降り、西匈奴を討つ。後48年に南北に分裂。

 匈奴は前60年ごろ、東西に分裂し、そのうちモンゴル高原に残ったのが東匈奴と言われた。東匈奴の呼韓邪(こかんや)単于は、西匈奴との戦いを有利にしようとして、前53年、漢に投降してその保護を受けた。前51年には呼韓邪が自ら漢の宣帝を甘泉宮を訪れて拝謁し、藩臣と称した。西匈奴の郅支(しっし)単于は西方のタラス河畔に本拠を移したが周辺諸国と軋轢を起こして反発され、前36年にこの機を捉えた漢の西域都護の攻撃を受けて滅亡した。漢に服属することで勢力を維持した東匈奴は、紀元後48年には今度は南北に分裂するが、そのうち後漢に服属した南匈奴は、五胡の一つの匈奴として華北に進出し、五胡十六国時代に華北にいくつかの国を作った。また、北匈奴は91年に滅亡したが、その一部は西進してフン人となった言う説もある。

Episode 王昭君の哀話

 東匈奴の呼韓邪単于が漢に投降したとき、漢の元帝はそれを喜び、単于の求めに応じて後宮の美女を下賜することとした。そこで選ばれた王昭君という女性は、長安の都から遠く東匈奴の単于のもとに嫁ぐこととなった。匈奴の地でその生涯を終えた彼女の哀話はその後、さまざまに物語られる。例えば『西京雑記』によれば、元帝は後宮の女官の絵姿を画工に描かせたところ、彼女だけは画工に賄賂を贈らなかったため醜く描かれ、元帝が彼女を匈奴に降嫁させることに決めて引見したところ、実は絶世の美人であったという。王昭君の秘話を物語った元曲の傑作が、馬致遠の作った『漢宮秋』である。<西嶋定生『秦漢帝国』講談社学術文庫 p.340>
 なお、単于の妻を中国史料では閼氏(エンシ、またはアツシ)という。

東匈奴の分裂

 前漢と東匈奴の関係は良好であったが、前漢を倒して実権を握った王莽は匈奴を蛮族視し、完全に従属国化することを企んだ。これに反発した匈奴は西域諸国を巻き込み、王莽政権に対抗した。王莽政権が倒れ、成立したばかりの後漢政権もまだ安定していない間に匈奴は勢いを盛り返したが、またしても後継者争いがおこり、それにイナゴによる害も加わり、分裂の危機に陥った。独立を志向する蒲奴単于に対し、後漢との和親を求めるグループは呼韓邪単于の孫をかついで再び呼韓邪を名乗らせ、紀元後48年に前者が北匈奴、後者が南匈奴として分裂した。<林俊雄『遊牧国家の誕生』吉川弘文館 世界史リブレット98 p.87>
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ノートの参照
第3章1節 ア.北方民族の動向
書籍案内

西嶋定生『秦漢帝国』
講談社学術文庫

林俊雄『遊牧国家の誕生』世界史リブレット98
吉川弘文館 2009