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宮宰/マヨル=ドムス

メロヴィング朝フランク王国で王家の執事にあたる職あったが、次第に王に代わり実権を握った。宮宰であったカロリング家のカール=マルテルの子ピピンが751年にカロリング朝を開いた。

 フランク王国の官職名で、フランス語ではマヨル=ドムス。メロヴィング朝において、王の権力の有名無実化にともなって宮廷の実権を握った最高実力者。もとは王家の「執事」のようなものであったが、次第に国家の「摂政」のような役割を担い、権力の伴う地位となった。メロヴィング朝におけるカロリング家がそれにあたり、カール=マルテルやピピンがその例である。

分国ごとの宮宰

 フランク王国は511年にクローヴィスが死ぬと、ゲルマン人の分割相続の原則に沿って、その子やその孫たちに分割されていった。その結果、6世紀後半には、アウストラシア分国(東北部、中心都市はメッス)、ネウストリア(中西部、中心都市はパリ)、ブルグンディア(東部、中心都市はオルレアン)の三分国に分かれてしまい、それぞれが王を称した。また各分国では豪族が力を振るようになった。
 7世紀後半になると、ネウストリア分国を治めていたメロヴィング家のクロタール2世は、三分国それぞれにマヨル=ドムスを置いて、それを通して統一の回復を試みた。マヨル=ドムスは「王室の執事長といったほどの意味」だが、日本語では「宮宰」と訳されている。フランク王国の内紛は三つの分国の宮宰間の対立という様相を見せていた。

宮宰職の独占

 メロヴィング家の足元のネウストリア分国では宮宰のエブロインが集中的官僚国家建設を目指したが、アウストラシア分国では豪族であったカロリング家のピピン(2世)が宮宰となり、クロタール2世を助けてエブロインを倒した。しかし、ピピンは強引にネウストリアとブルグンディアの宮宰を兼ねてしまい、こうしてカロリング家はフランク王国の三分国の宮宰の職を独占した。そして、ピピン(2世)の子のカール=マルテルが全王国の宮宰職を掌握し、最高実力者となった(714年~741年)。メロヴィング家の王は実権を失いながらも、象徴的な存在として存続している。<堀越孝一『中世ヨーロッパの歴史』初刊1977 再刊 2006 講談社学術文庫 p.65,71,80>
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ノートの参照
5章1節 ウ.フランク王国の発展とイスラームの侵入
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堀越孝一
『中世ヨーロッパの歴史』
2006 講談社学術文庫