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クローヴィス

フランク人を統合して、481年にフランク王国のメロヴィング朝を創始した。初めてパリを拠点として治めた。また496年にはカトリックに改宗し、ヨーロッパ世界の出発点となった。

 現在のフランス北部に入ったゲルマン人の一派のサリ・フランク人の族長キルデリクスは、パリ西方の略奪を続け、470年からパリを包囲した。その時、パリは聖ジュヌヴィエーヴに守られ、十年あまりの攻囲に耐えた。その間、16歳のクローヴィスはベルギーとガリア北部の一部を征服し、フランク人の諸部族を統一して、481年フランク王国の初代の国王となり、メロヴィング朝を創始した。

パリを支配する

 486年、ソアソンに残っていたローマ人の拠点を攻略してガリアからローマ人を最終的に追い出し、北ガリアの地を統一した。その上で、クローヴィスはパリに対して戦いを仕掛けること無く、その支配を受け容れさせた。クローヴィスの支配を受け容れたジュネヴィエーヴは、後にパリの守護聖人とされ、キリスト教改宗後のクローヴィスもその聖堂を建てて敬ったという。またパリはそれ以来、クローヴィスのフランク王国の都として位置づけられ、またセーヌ川の船運などの交通によって栄えるようになった。

アタナシウス派への改宗

 クローヴィスはパリを拠点にフランク王国の王としてロワール川以北のガリア全域を支配した。ブルグンド王の王女でカトリック信者であったクロティルドを妃として迎えた。496年、アラマン人(スイス方面にいたゲルマン人の一派)を破ってアルプス方面に進出後、アタナシウス派に改宗し、ランスにおいてキリスト教カトリックの洗礼を受けた。クローヴィスの改宗には妃クロティルドの影響が強かった。
クローヴィスの改宗の歴史的意義 土俗的な部族信仰にとどまっていたフランク族が、他の多くのゲルマン人部族がキリスト教の異端とされていたアリウス派を信仰しているなかで、はじめて正統とされる三位一体説の信仰を受け入れたことの意義は大きかった。 → クローヴィスの改宗
 当時、キリスト教ではいずれも正統教義を掲げているローマ教会とコンスタンティノープル教会が教会の首座権をめぐって対立していた。クローヴィスがアタナシウス派に改宗して洗礼を受けたことによって、ローマ教会はフランク王国という力をその後ろ盾とするという重要な意味をもっていた。このクローヴィスの改宗によって、フランク王国とローマ教会が初めて結びつきが始まり、ローマ教会は西ヨーロッパに確固とした足場をもつローマ=カトリック教会へと成長することが可能となった。

西ゴート王国との対抗

 クローヴィスの受洗については次のような説明もある。
(引用)497年、クローヴィスは対西ゴート王国作戦を開始し、トゥールを押さえた。トゥール司教ヘルペトゥスはクローヴィスを歓迎し、クローヴィスは彼にカトリック受洗を約束した。翌年、ランスにおいて約束が実行された。クローヴィスの思惑は明らかだった。トゥール司教、ひいては南ガリアの司教たちの目論見も容易に推理できる。「カトリックの王」の名をもって西ゴートを征討する。ガリアに一元的統制を期待する。両者の思惑は一致していた。<堀越孝一『中世ヨーロッパの歴史』初刊1977 再刊 2006 講談社学術文庫 p.60>
 この説明ではクローヴィスの受洗は498年となる(同書巻末の年表も同じ)。また、西ゴート王国のアラリック2世もカトリック改宗を考えていたが、クローヴィスに先手を取られたという。結局、507年、アラリック2世はクローヴィスと戦って敗死し、西ゴート王国はピレネー山脈の南に限定され、アキテーヌなど南ガリアはフランク王国に併合された。
 508年、勝利の帰還の途上、トゥールにおいて、クローヴィスは東ローマ皇帝アナスタシウスからコンスルの称号を受けた。これは、のちのフランク王国のカールの戴冠に符合する動きであった。

クローヴィス後のメロヴィング朝

 クローヴィスは511年に死去、その後のフランク王国は、ゲルマン社会の伝統の分割相続によって分裂し、三つの分国が生まれて争うという内乱がはじまる。その中から宮宰(マヨル=ドムス)となったカロリング家が実権を握ることなる。732年にはカロリング家のカール=マルテルが、イスラームのヨーロッパ侵入トゥール・ポワティエ間の戦いで撃退し、キリスト教世界を守ったことで名声を高め、その子のピピンがメロヴィング朝の王を廃してカロリング朝を創始する。

参考 クローヴィスという名はルイ、ルードヴィヒと同源

 ヨーロッパの王名には同名の王が何人もいて、何世であるかで区別しなければならない。しかし世界史上、クローヴィスとして出てくるのはこの人以外はない。ところが実はこの名は、フランスで最もありふれた王名であるルイと、ドイツの最も頻出する王名ルードヴィヒと一緒、つまり同源の名前であった。それには次のような説明がある。
 名前クローヴィス Clovis の語源は、ゲルマン祖語 Hluda- (音が高い、よく翌耳にする、の意味。英語の loud 声が大きいの意味の語源でもある)と wiga (戦い)とからなる古高地ドイツ語 Hluodowig (高名な戦士)である。Hluodo-は雷神トールの「轟く雷鳴」の音などと関係づけられた言葉と考えられる。Hluodowig のH-の発音は[x]であり、今日にドイツ語ではCha-と綴る。この[x]は次第に単なる気息音になって消滅してしまったが、当時はまだ発音されていたので、古いドイツ語ではクロドヴィヒ(Chlodowig)と綴られ、フランス語ではClovisと綴られていた。そして最もフランス的な名前ルイ Louis と、最もドイツ的な名前 Ludwig もこの Hluodowig を源としていたのだった。
 カール大帝の第三子ルイ1世(在位814-840)はラテン語ではフルドヴィクスと呼ばれていた。その後、ルイ9世、ルイ14世~16世などフランスの王名で最もポピュラーな名前となる。ルイ1世は即位後まもなく、長子ロタール Lothar と第2子シャルル Charles と第3子ルードヴィヒ Ludwig に統治を任せ、それがフランク王国の分裂につながる。ルードヴィヒは東フランクから後のドイツをはじめ、北ヨーロッパ諸国の王名として頻出するようになる。<梅田修『世界人名ものがたりー名前でみるヨーロッパ文化』1999 講談社現代新書 p.149>
 つまり、クロヴィス=クロドヴィヒのクが消えてフランスではローヴィスからルイになり、ドイツではルードヴィヒになったと言うことであるようだ。