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イスラームのヨーロッパ侵入

711年、イスラーム勢力がイベリア半島に侵入。732年にはフランク王国領に侵攻したが敗れる。その後、イベリア半島のイスラーム勢力は15世紀末まで続く。

 610年にアラビアでムハンマドが起こしたイスラーム教団は、またたくまに西アジアを征服、661年からはウマイヤ朝のもとで勢力を北アフリカに進出し、西方征服を続けマグリブのイスラーム化が進んだ。 → イスラームのビザンツ帝国侵攻

イベリア半島

 ついに711年には(つまりムハンマドがイスラームを始めてほぼ100年目で)ジブラルタルを超えてイベリア半島を征服し、ヨーロッパのキリスト教世界は深刻な脅威を受けることとなった。イスラーム勢力は713年に西ゴート王国を滅ぼし、さらにピレネー山脈を越えてフランク王国の領土に侵入したが、732年のトゥール・ポワティエ間の戦いで宮宰カール=マルテルの率いるフランク軍に敗れ、イベリア半島に撤退した。しかしその後もイベリア半島を占領し続け、756年からはコルドバを都に後ウマイヤ朝が支配する。後ウマイヤ朝は10世紀半ばにアブド=アッラフマーン3世がカリフを称し、全盛期となったが、内紛から1031年に滅亡、その後イスラーム勢力は多数の地方政権に分かれ、キリスト教勢力のレコンキスタ(国土回復運動)もあって次第に衰退し、11世紀のムラービト朝、12世紀のムワッヒド朝がそれぞれ一時期イベリア半島の支配を回復したが、13世紀にはグラナダのナスル朝を残すのみとなった。その後イベリア半島はスペインとポルトガルが成立するが、ナスル朝はさらに1492年まで存続する。

南イタリア、シチリア島

 イスラーム勢力の伸長は、陸地だけでなく地中海世界の海上世界にも及んだ。南イタリアやシチリア島にはビザンツ帝国の支配が残っていたが、8世紀末、アッバース朝から北アフリカのチュニジアで自立したアグラブ朝は積極的に地中海に進出、827年以降はシチリア島に侵攻するようになり、ついに878年にはシラクサを占領してほぼ全島をビザンツ帝国から奪い、次いで南イタリアの海岸部を部分的に占拠した。こうして地中海はイスラーム勢力下にはいることになる。
 シチリア島がイスラーム圏に入ったことで、この地はヨーロッパのキリスト教文明との接触の最前線となったことを意味しており、シチリア島のパレルモで開花したイスラーム文化がヨーロッパの文明に強い影響を与えることとなった。11世紀にはノルマン人の南イタリア進出によってシチリア島にはノルマン=シチリア王国が成立してイスラーム勢力は排除されることとなった。

イスラーム勢力の地中海進出の影響

 このイスラーム勢力の地中海(特に西地中海)制圧は、ローマ帝国が地中海を「われらの海」として盛んに海上貿易を展開し、高度な貨幣経済を発展させた時代を終わらせることとなった。ローマ帝国に替わり西ヨーロッパに登場したゲルマン系諸国家はカロリング朝フランク王国によって統合されていくが、その支配は大陸内にとどめられ、地中海の海上制覇には向かうことはできなかった。そのことが西ヨーロッパの農業を基本とした封建社会である中世社会の成立の背景となっていたと考えられている。
重要 「マホメットなくしてシュルルマーニュなし」 14世紀のイスラームの歴史家イブン=ハルドゥーンはそのありあまを、キリスト教徒は「もはや地中海上に板子一枚浮かべることは出来ない。」と表現した。また、イスラーム勢力の地中海への進出という情勢のもとでフランク王国が成立したことを、20世紀初めのベルギーの歴史家アンリ=ピレンヌは、「マホメット(ムハンマド)なくしてシュルルマーニュ(カール大帝)なし」と評した。
 西ヨーロッパ世界の経済圏で遠隔地貿易がふたたび盛んになるのは、11世紀以降の三圃制の発達などを背景とした十字軍運動の時期以降のこととなる。

イスラーム文明のヨーロッパへの影響

 イベリア半島では11世紀ごろからキリスト教勢力によるレコンキスタ(国土回復運動)が盛んになり、イスラーム勢力は次第に後退するが、後ウマイヤ朝の都であったコルドバや、西ゴート王国の都だったトレド、イスラーム勢力が最後まで拠点としたグラナダなどでは、後までイスラーム文明の影響が強く残存した。シチリア島や南イタリアでもイスラーム勢力は11ごろまでに排除されたが、シチリア島のパレルモはイスラーム文明の要素が長く存続し、そのもとでイスラーム文化とギリシア=ローマ文明、ゲルマン文明が融合していった。
 特に、11世紀末の十字軍道の時期以来、中世キリスト教カトリック教会の世界観に行き詰まりが感じられるようになると、ヨーロッパの修道士や神学者のなかに、新しい知見を求めてトレドやパレルモを訪れ、その地でアラビア語に翻訳されたギリシア語文献などに接することによって、ヒューマニズムの萌芽などが見られ、その動きは12世紀ルネサンスとして評価されるようになってきている。