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アナーニ事件

1303年、フランス王フィリップ4世がローマ教皇ボニファティウス8世に退位を迫り、教皇が憤死した事件。ローマ教皇権衰退を象徴する事件であった。

 フランスのカペー朝フィリップ4世は、フランスの国家統一を進め、イギリスとの戦争の軍費を得るためにもフランス領内の聖職者領に課税しようとした。ローマ教皇ボニファティウス8世が聖職者領(教会領)への課税を禁止すると、ローマ教皇庁への献金を停止した。フランスの国民はローマへの献金に苦しんでいたので国王を支持した。1302年、ボニファティウス8世は教皇勅書(ウナム=サンクタム)を発表、教皇の首位権を明らかにし「教皇に従わない者は救済されない」と決めつけた。フィリップ4世はボニファティウス8世に強く反発するようになった。教皇側はフランス王を破門にすることの準備をはじめていた。
 また、ローマの貴族コロンナ家は有力な枢機卿も出しており、ボニファティウス8世の傲慢さに反感を抱いていた。ボニファティウス8世は、1294年に前任のケレスティネス5世に迫って、自分の意志でなら退位できると教唆し、退位に追いみ幽閉してしまった。(以後、ローマ教皇が自分の意志で生前退位した例はとだえ、実に800年以上もの後の2013年に、ベネディクト16世が高齢を理由に退位するまで無かった。)コロンナ家はボニファティウス8世は不正な手段で教皇に選ばれたと批判していた。このように、ボニファティウス8世にはフランス王とローマ貴族コロンナ家という二人の敵があった。

教皇ボニファティウス8世の憤死

 1303年9月、フランスの強硬な反教皇派であった国王顧問兼モンペリエ大学教授のギヨーム=ド=ノガレは、部下を連れてアルプスを越え、ローマ郊外のアナーニに滞在していたローマ教皇ボニファティウス8世を急襲して捕らえ、一室に軟禁して退位を迫った。しかし、教皇はその要求をはねのけた。ノガレに同行していたコロンナ家のシアッラは教皇の顔を撲り、ノガレと二人で教皇から三重冠(教皇位のシンボル)と祭服を奪った。ボニファティウス8世をフランスに連行しようとするノガレと、この場で殺害してしまおうとするコロンナが激しく口論し、その状態が二日も続く間に、教皇は駆けつけたアナーニ市民に救出されローマに戻った。しかし、教皇は1ヶ月後に急死してしまった。教皇の死因は持病の結石だったが、最後は精神錯乱状態で、アナーニの屈辱がショックであったらしい。このことをボニファティウスが悔しさで憤激したあまりに死んだので「憤死」と言われている。
 ノガレがボニファティウス8世を襲撃したことは、フィリップ4世には知らせていなかったと言われているが、結果的にフランス王フィリップ4世がローマ教皇との抗争に勝利したこととなり、教皇権の衰退を象徴する事件となった。

Episode 教皇の憤死の呪い

(引用)しかし、おそらく80歳を超えていたであろうボニファティウス8世は、事件にひどく動揺し、10月11日に急逝した。ヨーロッパ中がその知らせに震撼した。スイスの司教シオンは、フィリップ王とその息子たちに災難が降りかかり、王位を失うだろうと予言した。その予言はやがて現実となった。1328年までにフィリップ4世とその息子(3人)は全員死に、フランスの王位はヴァロア家に移ったのである。<『ローマ教皇歴代誌』p.162>

アナーニ事件の後

 ボニファティウス8世憤死後の教皇にはドミニコ会修道士のベネディクトゥス11世が選出されたが、教皇位をめぐってローマの貴族コロンナ家とオルシーニ家の争いが続く中、翌04年、赤痢で死んでしまった。教皇選挙会議、いわゆるコンクラーベが11ヶ月も続く内に、次第にフランス王に迎合する枢機卿が増えていった。ついに1305年、ボルドーの大司教だったフランス人が選ばれクレメンス5世となった。クレメンス5世はフィリップ4世の意向を受け、1309年に教皇庁を南フランスのアヴィニヨンに移し、約70年に及ぶ「教皇のバビロン捕囚」となる。
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第6章3節 カ.教皇権の衰退