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ローマ教皇

ローマ=カトリック教会の最上位の聖職者。中世ヨーロッパで絶大な力を持ち、現在でもカトリック世界の指導者としてその発言は常に世界の注目を集めている。

 ローマ教皇(英語でPope、ラテン語ではPapa)は一般に「ローマ法王」とも言われ、キリスト教のなかの旧教であるローマ=カトリック教会の最高指導者。現在では正式には「ローマ司教・イエス=キリストの代理・使徒の頭(ペテロのこと)の後継者・全カトリック教会の首長・西ヨーロッパ総大司教・イタリア首座大司教・ローマ管区大司教かつ首都大司教・ヴァティカン市国主権者」という肩書きになっている。 → ローマ教皇権の衰退  近代以降のローマ教皇

三位一体説とローマ教会の権威

 西ローマ帝国滅亡後、アリウス派を信仰するゲルマン諸国が各地に成立し、ローマ教会は危機に陥った。さらに東ローマ帝国の皇帝教皇主義のもとにあるコンスタンティノープル教会との間の教会の首位座をめぐる争いでも劣勢に立たされた。451年にはローマ司教レオ1世カルケドン公会議において、三位一体説を政党とすることを強く主張して、それが決議されたため、ローマ教会の権威は高まった。またレオ1世は翌年、ローマに侵攻したフン人のアッティラを説得して撤退させたため、ローマを救ったとして信望を集めた。

フランク王国との提携と東方教会からの自立

6世紀の末にローマ教皇となったグレゴリウス1世は、厳しい修道院での信仰生活によって権威を高め、またゲルマン人への布教に活路を見いだそうとした。さらに726年のビザンツ皇帝レオン3世が出した聖像禁止令に始まる聖像崇拝論争でビザンツ教会との対立が激しくなると、ゲルマン人の中で唯一ローマ教会に帰依していたフランクとの結びつきを強めようとした。71年のカロリング朝ピピンの即位を承認した見返りとして、756年にピピンの寄進でラヴェンナ地方などを得てローマ教皇領を成立させ、ローマ教皇は一個の教会国家の政治権力となる基盤を築いた。800年にローマ教皇レオ3世はフランク王国のカール大帝にローマ皇帝の冠を授けたカールの戴冠によってフランク王国を保護者としてビザンツ皇帝及びコンスタンティノープル教会から完全に自立することに成功した。両者は1054年に正式に分離を宣言、キリスト教会は東西に分裂し、現在に至っている。

ローマ教皇権力の強大化

 9~10世紀前半はフランク王国の分裂やノルマン人・マジャール人の侵攻などでヨーロッパは再び分裂と停滞の時代になったが、この間教会と修道院はかえって社会不安の中で勢力を増し、聖職者の階層制組織(ヒエラルキア)を作りあげ、ローマ教皇はその頂点として西ヨーロッパのキリスト教世界の「聖界」を代表する権威をもつようになった。962年に東フランクのオットー大帝がマジャール人を撃退、ローマ教皇は彼にローマ皇帝の冠を授け(オットーの戴冠)たが、次第に皇帝・国王という「俗界」の権力に対して聖職叙任権闘争を展開するようになる。

叙任権闘争

 11世紀後半にクリュニー修道院を中心にして始まった新たな修道院運動の中から登場したグレゴリウス7世は、改革の一環として、それまで神聖ローマ皇帝など世俗権力に握られていた聖職者の叙任権を教皇が奪還すべく叙任権闘争を展開した。1077年の「カノッサの屈辱」で神聖ローマ皇帝ハインリヒ4世を破門してその世俗権力を圧倒したのがその象徴的出来事であった。このような教皇権力の強大化は、11世紀末の十字軍運動の提起を以て西ヨーロッパ世界の世俗権力をもまとめあげることとなった。1122年に成立した、神聖ローマ皇帝とローマ教皇によるヴォルムス協約によって、皇帝がドイツにおいては教皇の聖職叙任権を認めることによって叙任権闘争は一応の終結をみた。

ローマ教皇権の最盛期

 13世紀、十字軍時代後半のローマ教皇は絶大な権利と権力を持つこととなる。その頂点にあったインノケンティウス3世は、「教皇は太陽、皇帝は月」と称し、世俗の権力者(フランスのフィリップ2世やイギリスのジョン王など)を破門にするなどによって抑え込み、ヨーロッパに君臨した。また、インノケンティウス4世(在位1243~54年)は、シュタウフェン朝神聖ローマ皇帝フリードリヒ2世と対立して破門にし、おりからのバトゥの率いるモンゴル帝国軍にキリスト教軍がワールシュタットの戦いで敗れたことを受けて、初めてのモンゴルへの使者プラノ=カルピニを派遣した。

教皇権の衰退

 しかし、広大なローマ教皇領を支配する封建領主となり、その生活は贅を尽くすようになると、たびたびその選出をめぐって政争が行われ、腐敗堕落した面も出てきた。13世紀末には十字軍運動も結局、聖地奪還が出来ないまま終結し、教皇の権威は大きく揺らいできた。

アナーニ事件から大分裂へ

 1303年のアナーニ事件では教皇ボニファティウス8世に拉致されて憤死し、さらにフランス王によって教皇がアヴィニヨンに幽閉されるという「教皇のバビロン捕囚」が起こり、教皇の権威の動揺は表面化し、さらにローマ教皇が同時に二人から三人存在するという教会大分裂(1378~1417年)という事態となった。そのような中、イギリスのウィクリフやベーメンのフスのような先駆的な宗教改革者が現れ、教皇と教会のあり方に対する批判が始まった。それに対してローマ教会は教皇の権威を守ろうとして、1414年のコンスタンツ公会議でウィクリフとフスを異端として弾圧したが、同時に教皇よりも公会議の決定が重要であるという決議をするに至った。
 ローマ教皇の権威低下はそのヨーロッパ国際政治での調停力の低下となって現れ、1339~1453年の百年戦争が起こった。その間の黒死病の流行、さらに東方で強まってきたオスマン帝国の圧力などがローマ教皇とローマ教会の権威の動揺をさらに深めることとなった。

ルネサンス・宗教改革期の教皇

 さらにルネサンスの風潮がひろがって、エラスムスのような人文学者なども教会の形骸化した信仰のあり方を批判するようになった。事実、ルネサンス期のローマ教皇には世俗の権力と密着して腐敗堕落するものが出現しており、ボルジア家出身のアレクサンドル6世(在位1492~1503年)などがその悪行で知られている。しかしその権威はまだ高く、この教皇はおりからコロンブスの新大陸発見から始まった大航海時代でのポルトガルとスペインの勢力圏を巡る調停を行い1493年に教皇子午線を定めている。次のユリウス2世(在位1503~1513年)はサン=ピエトロ聖堂の改修を開始し、ブラマンテやミケランジェロにその仕事を与えた。次のレオ10世(在位1513~1521年)はメディチ家出身で、サン=ピエトロ大聖堂の修築費用の捻出のため、ドイツに対する贖宥状の発行したことから、ルターによる宗教改革が始まった。

反宗教改革(対抗宗教改革)

 こうしてルターとカルヴァンによる宗教改革が始まり、新教勢力が大きくなると、ローマ教皇はヨーロッパでの絶対的権力を失い、中部イタリアの教皇領を支配する一君主という存在となった。そのような教皇の権威の低落を嘆き、教皇への服従というカトリック教会の信仰の根幹を再建しようとしたのが、イエズス会を中心とした反宗教改革の運動(対抗宗教改革)であった。その運動もあって力を盛り返し、ヨーロッパではスペイン・フランスや南ドイツ、ポーランドなどで影響力を強め、さらに新しい布教地としてラテンアメリカやフィリピンなどを対象に熱心なキリスト教宣教師による伝道が行われ、勢力を盛り返した。
 1534年にイエズス会を公認したローマ教皇パウルス3世は、1542年には宗教裁判所を設置して異端の取り締まりを強化し、さらに1545年から63年までトリエント公会議を召集し、カトリックの教義と教皇の権威の確立を図った。その一方、パウルス3世は晩年のミケランジェロにシスティナ礼拝堂の最後の審判を描かせている。
 16世紀後半には、ピウス5世(1570年にイギリスのエリザベス1世を破門)、グレゴリウス13世(1582年、グレゴリウス暦を制定)、シクストゥス5世(ローマ教皇庁の改革)の「改革教皇」といわれる三人の改革派教皇が現れた。

宗教戦争

 しかし、ヨーロッパの大勢は、フランス国内の新旧両派の激しい内戦であるユグノー戦争(1562~98)、旧教国スペインから新教国オランダが独立を目指して戦ったオランダ独立戦争(1568~1609)、そして17世紀前半のドイツの内戦にヨーロッパの新旧両派の国が介入した三十年戦争(1618~1648)という宗教戦争があいつぎ、1648年のウェストファリア条約で信仰の自由の最終的承認とともに主権国家体制が成立したことによって、ローマ教皇の権威は相対的に低下し、さらに最大の旧教国であったスペイン帝国の衰退によって教皇の国際政治上の力はほぼ消滅した。またフランスは旧教国であったが、伝統的にローマ教皇とは分離した国王の権威を重視するガリカニスムが定着していった。

近代以降のローマ教皇

フランス革命とローマ教皇

 1789年、フランス革命が勃発すると、革命前のアンシャン=レジームのもとで教会によって抑圧、収奪されていた民衆の反カトリック教会感情を背景に、革命政権によって教会領が没収され、カトリック世界は危機を迎えた。特にジャコバン独裁政権のもとで非キリスト教化が進められて、フランス政府とローマ教皇は断絶した。しかし、革命を収束させたナポレオンは、権力の維持・強化を図り、ローマ教会の関係修復を図り、1801年のとローマ教皇ピウス7世のの間で宗教和約(コンコルダート)を成立させた。このように旧体制と妥協を成立させたナポレオンは1804年にナポレオン1世として皇帝となった。

イタリア統一と「ローマ問題」

 ローマ教皇は中世以来のローマ教皇領を中部イタリアに領有していたが、イタリアが主権国家として統一を目指すようになると、その存在が大きな障害となってきた。イタリア統一運動(リソルジメント)は19世紀の後半、サルデーニャ王国カヴールによって進められ、1861年にイタリア王国が成立したが、ローマとその周辺の教皇領は含まれていなかった。イタリア王国はローマ教皇領の併合を進めようとしたが、世俗の国王への従属を拒否する教皇はそれに応じず、カトリックの擁護者をもって任じるナポレオン3世の派遣したフランス軍に守られていた。ところが1871年、普仏戦争のためフランス軍が撤退した隙を乗じて、イタリア王国軍がローマ教皇領を占領、ローマを併合してイタリア王国の首都としてしまった。ローマ教皇はヴァチカンに閉じ込められる形となり、両者の関係は悪化し、「ローマ問題」として続くこととなった。

ムッソリーニとのラテラノ条約

 第一次世界大戦後の1922年、ローマ進軍を行って政権を獲得したムッソリーニは、ファシスト党独裁体制を安定させようとしてカトリック教会との和解を図り、1929年ローマ教皇庁との間でラテラノ条約を締結し、ローマ教皇領に対する賠償金の支払いと、一個の主権国家としてヴァチカンが独立することを認めた。これによって「ローマ問題」は解決し、サン=ピエトロ大聖堂に隣接するヴァチカンは、世界で最も小さい主権国家ヴァチカン市国として独立した。

現代のローマ教皇

 カトリック信者は現在では約10億を数え、ローマ教皇はその最高指導者として重きをなしている。1978年にローマ教皇となったヨハネ=パウロ2世は、それまでの教皇がすべてイタリア人であったのに対して、はじめてイタリア人以外のポーランド人として教皇に選出された。ヨハネ=パウロ2世は東西冷戦期に世界平和に強いメッセージを送り続け、2005年に死去し、ベネディクト16世(ドイツ人)が継承した。ベネディクト16世は、2013年に719年ぶりに生前退位(生存しているうちに退位すること)し、新教皇フランシスコ(アルゼンチン人)が選出された。大変珍しい生前退位となった裏には、聖職者の度重なるスキャンダル(聖職者による性的虐待事件など)があったのではないかと取りざたされている。

Episode 教皇選出は根比べ?

 ローマ教皇の地位は世襲はあり得ず、聖職の最高位として信仰の厚いものから選ばれたが、11世紀以降はその諮問機関である枢機卿(Cardinal)の秘密会で選出されることが原則となった。教皇を選出する枢機卿の秘密会議をコンクラーベという(もちろん日本語ではなくラテン語で)。枢機卿(カージナル)は、教皇の最高顧問団であり、教皇庁の元老院にあたるものとされる。1179年から教皇選挙権は枢機卿だけが持つ、とされたので教皇に次いで最も重要な役職であり、彼らがかぶる赤い帽子はその権威の象徴となっている。その人数は時代によって違うが現在は164名(2003年9月現在)である。枢機卿は教皇が選任する。教皇選出の会議のコンクラーベという言葉は、「鍵で」を意味し、その選出会場が外部から一切干渉されない秘密会であるところからきている。選出は現在では参加した枢機卿の中から多数決で選ばれることになっており、当選には3分の2プラス1票が必要である。当選が決まると投票用紙をストーブで焼き、しめった藁を混ぜて煙が黒ならば未決、白ならば選出された印とされる。<小林珍雄『法王庁』岩波新書による>