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宋応星

明末の地方官吏として生涯を送り、1637年に産業技術書『天工開物』を著した。

 末の1587(万暦15)年、江西省奉新県に生まれ、1615年に兄の宋応昇とともに科挙の地方試験である郷試に合格し挙人となった。このとき江西省だけで受験者は1万余名にのぼったが、合格者はわずか109名にすぎず、宋応星は3番、兄は6番だった。しかしその後、兄弟は4年ごとに行われる中央での会試を5回も受験したが、兄弟はいずれも失敗した。最後の会試は1631年、宋応星は数え年45歳になっていた。会試に合格して進士になることを断念した宋応星は、職を求めて江西省袁州府に所属する分宜県教諭になった。その職に11年間留まる間、『天工開物』を書き上げ、1637年(崇禎10年)に刊行した。ついで福建省汀州の吏員を経て、最後に安徽省亳(ハク)州の知州となった。しかしそのころ李自成の乱が勃発し、1643年に官を辞した。翌年、李自成の軍が北京に入り、明は滅亡した。宋応星と同じように地方官になっていた宋応昇は明王朝の滅亡を悲しんで、二首の詩を残して服毒自殺した。宋応星も清朝に使えることなく故郷で隠遁し、生涯を全うした。<宋応星/薮内清訳『天工開物』東洋文庫 平凡社 薮内清氏の解説から構成>
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7章1節 オ.明後期の社会と文化
書籍案内

宋応星/薮内清訳
『天工開物』
東洋文庫
平凡社 1969