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アイシン/後金

女真のヌルハチが1616年に建国した国で、漢字では「後金」をあてる。

 女真ヌルハチは、アイシンギョロ氏を称したが、アイシンとは彼らの言葉で「金」の意味、ギョロは氏族名につける接尾語である。ヌルハチは1616年にハンとなり、国号を女真語でアイシン=グルムを建国したが、それはかつての女真の国家を再興したものという意味で、漢語では「後金」と称した。また、年号をたてて天命とした。このことは、万暦帝の明から独立し、独自の国家であることを示すために満州文字を制定した。ヌルハチは1618年、明に対して宣戦して総攻撃を開始し、翌年のサルホ山の戦いで大勝利を収め、明軍を遼河の西に追いやり、遼東全域(後の満州)を平定した。後金の都は遼陽に都に移され、さらに1625年には瀋陽(満州国時代の奉天)に置かれて盛京(せいけい)と改称された。翌26年、ヌルハチは二度目の対明総攻撃を仕掛けたが、山海関の手前の寧遠城の戦いで、明軍がキリスト教宣教師の指導で作った大砲を用いて反撃し、初めてヌルハチは敗北をこうむり、山海関を越える野望を達成することはできずに、その年に死去した。

後金から清へ

 アイシン(後金)のハン位を継いだヌルハチの子のホンタイジはスレ=ハンと称した。スレ=ハンは明への侵攻の前に朝鮮と内モンゴルを平定して国力を増大させ、1636年に、国号を中国風に(正確には大清国)に改め、改めて帝位につき、年号を改元して「崇徳」とした。スレ=ハンは清の皇帝としては太宗と称することになり、ヌルハチは太祖を追号された。このことは、女真の建国した国が、中国全土を支配する意図を表明したことであり、女真の伝統的部族制国家から、漢民族伝統の皇帝専制政治に転換を図ることを示すものであった。しかし、清がその支配を山海関を越えて中国本土に及ぼすのは、1644年に明で李自成の乱が起こり、自壊するのを待たなければならなかった。
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7章1節 カ.東アジアの状況