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ヌルハチ/太祖

女真を率いて1616年に後金を建国した人物。死後、後金は清と改称し、その太祖を追号される。

 後金(後の清)の建国者で太祖(在位1616~1626年)。女真の中の建州女真、アイシンギョロ(漢字で表記すると愛新覚羅)氏に生まれた。明の万暦帝のとき、父と祖父が明軍に殺され、25歳の時、1583年に自立して兵を挙げた。海西女真など、他の女真の諸部族を次々と制圧して、1613年までにほぼ敵対勢力を討ち、女真族を統一した。

後金の建国


太祖 ヌルハチ
 1616年正月、ヌルハチは女真諸部族の長として「ゲンギェン・ハン(聡明なるハン)」の称号を奉られ、国号を金とした。この金はかつてのとくべつして、後金(アイシン)という。この国号には、金の後をつぐ女真の国家を建てるのだという意思が表明されている。同時に年号を天命と定めて明に対抗する姿勢を示した。

明との戦い

 1618年、ヌルハチは「七大恨」という7箇条を掲げて明に宣戦布告、撫順城を攻めて占領すると、明は反撃のために10数万の大軍を派遣したが、翌年のサルフの戦いで後金軍が大勝利を収め、さらに次々と明の守備陣を破り、当時は遼東と言われていた遼河の東側全域(後の満州)を平定した。ヌルハチは遼陽に都を移し、さらに1625年には瀋陽(満州国時代の奉天)に定め、盛京(せいけい)と称した。

八旗の創設と満州文字の制定

 との戦争を展開する中で、八旗の軍制、独立王朝としての体裁を整えた。八旗は女真の狩猟の際の編成をもとにして壮丁(成年男子)を組織した軍事権行政組織であり、その後に漢人八旗も加えられ、清朝政権の軍事力の基盤となった。ヌルハチが国家機構を整備する上で文字が必要になったが、かつての女真文字はすでに使われなくなっていたため、モンゴル文字をもとにして満州文字を創った。ヌルハチ自身が作成したとも伝えられている。

明の火砲の前に進撃を阻止される

 1626年、ヌルハチは二度目の対明総攻撃を仕掛けたが、山海関の手前の寧遠城の戦いで、明軍がキリスト教宣教師の指導で作った火砲(大砲)を用いて反撃したため、八旗の騎馬隊が劣勢に陥り、初めて敗北をこうむった。ヌルハチは火砲の威力の前に手痛い敗北を喫し、同年に死去した。このとき受けた傷がもとで死んだとも言われている。

後金から清へ

 ヌルハチの子ホンタイジがハン位に就いてスレ=ハンと称し、明との決戦の前に朝鮮王朝を攻撃して支配下に収め、さらに内モンゴルを制圧して体制を固めた。その上で、1636年4月に国号を中国風に(大清)とし、皇帝(廟号は太宗)となった。ヌルハチは太祖の廟号を追号された。
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