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順治帝/世祖

清の第3代皇帝。6歳で北京入城を果たし、始め執政ドルゴンに政治を委ねたが、14歳で親政を開始し、清朝の中国支配の基盤を作った。その子が康煕帝。

 の太宗ホンタイジの第9子。1643年わずか5歳で第3代皇帝(廟号は世祖、在位は1643~1661年)となり、叔父のドルゴンが外政の、父の従兄ギルガランが内政の、それぞれ補佐をすることとなった。ドルゴンは明との決戦をめざして出陣しようとしたとき、明では李自成の乱が起こって北京を占領、明はあっけなく滅亡してしまった。そのとき清の侵攻に備えて山海関を守っていた明の部将呉三桂は、李自成に従わず、清に降ったので、ドルゴンは呉三桂を先兵として明を攻撃させ、李自成を追い出した後、順治帝をかついで北京に無血入城した。こうして順治帝は清朝で最初に山海関を越え、北京に入った。超して順治帝は北京の主となたなったが、このときわずか6歳であったので、実権は叔父のドルゴンが摂政として握っていた。

ドルゴンの摂政

 ドルゴンは順治帝の叔父に当たり、皇父摂政王と呼ばれ、幼帝に代わって清朝の実権を握った。ドルゴンは漢人を登用し、呉三桂などの漢人将軍を派遣して各地の明の残党の掃討にあたらせ、また地方の統治を任せた(漢人を以て漢人を制する策)。その一方で、辮髪令(薙髪令)を定めて、漢人に対して恭順の意志を示すための辮髪を強要した。また、宦官の政治介入が明朝を弱体化させたことを知り、宦官を廃止するなど注目すべき施策を採り、清朝の中国支配の実質的な基盤をつくった。その評価は高く、死後に「成宗」の諡(おくりな)が具申されたが、成人した順治帝はそれを拒否した。

順治帝の親政

 順治帝が15歳になったとき、ドルゴンが死んで親政を行うこととなった。順治帝はドルゴンの専横を快く思っていなかったので、その一派を追放し、親政にあたった。ドルゴンが定めた宦官の太監制度を復活させさるなど、明の政治体制の継承に力を入れ、科挙制度による官僚登用を行った。こうして順治帝の時から清朝は漢文化と明の制度の採用に積極的になり、宮廷では満州語と漢語がともに用いられ、公文書も満州文字と漢字が併用されることとなった。皇帝自身も両語を使う、バイリンガルであることが必要となった。順治帝の次がその子の康煕帝
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7章2節 ア.清代の統治