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北平/北京

永楽帝の時、明の都となり、北平から北京に改称。かつての燕京、大都。宮廷紫禁城を擁し、清朝の都として栄えたが、1912年、辛亥革命で都は南京に移り、軍閥が割拠。1928年、国民政府が中国を統一した際に北平と改称され、1949年に中華人民共和国の首都として北京に戻る。

 戦国時代の燕の都であった燕京以来の華北の重要都市。元で都城が建設され大都と言われた。の永楽帝は1402年に即位したが、その時点では正式な国都はまだ南京であり、正式に北京に遷都されるのは1421年である。

永楽帝の北京遷都

永楽帝はかつて燕王として北平にいたので、大都以来の国際都市としての北京に愛着を持っていたらしい。靖難の役で建文帝を倒して権力を握り、南京城を焼き討ちした永楽帝は1403年に北平府という名を順天府に改め、明の第二の国都とした。建文帝の帝位を奪った永楽帝に対し、南京にはそれを正統と認めない空気が強かったこともあったので、永楽帝は北京を帝都とすることを決断、1406年に北京で宮殿改修工事に着手した。1409年からはモンゴルの動きも活発になったためもあって、永楽帝は北京に滞在し始めた。翌年からのモンゴル親征は北京を拠点に行われた。また北京につながる大運河の浚渫を行い利用可能にした。こうして条件を整え、1415年正式に北京の新都造成を始め、元の大都の規模を拡大し、それを上回る都城の建設を目指した。1420年に都城が完成して翌1421年正月に遷都が実行された。以後、北京は明末には李自成の乱が起こって北京は反乱軍に占領され、明は滅亡した。李自成の乱を平定して北京に入った清朝は、夏の機関の王宮を明と同じく紫禁城においた。その後も北京は明と清の両王朝の首都、さらに現在の中華人民共和国の首都として繁栄する。永楽帝の造営した宮城は紫禁城と言われ、現在は故宮博物館となっている。また北京の北西40kmには明の皇帝の代々の陵墓「明の十三陵」がある。

Episode センター試験で出題ミス

 1992年度のセンター試験本試験の第2問で、「永楽帝が1402年に遷都を行い・・・」という本文に関しての設問が出された。1402年は永楽帝の即位の年で、遷都は1421年とされているので、これは誤った設問であった。実施後に入試センターは受験者全員を正解とすると発表した。なぜこのような間違いが起こったかというと、ほとんどの教科書が、「・・・南京を占領して帝位を奪ったのは永楽帝(位1402~1424)である(靖難の変1399~1402)。帝は北京に都を移し、・・・」(当時の『山川詳説世界史』)と説明しており、即位と共に北京に遷都したように受け取れる書き方だったからである。実際の北京遷都はかなり時間を要していたのは上記解説の通りである。現在の教科書も「・・・南京を占領して帝位についた(永楽帝 位1402~1424)。彼は首都を北京に移して・・・」(現行『山川詳説世界史』p.167)となっているだけななので注意が必要である。

近代の北京

 清朝末期の混乱の中で、アロー戦争の際には1860年にイギリス・フランス両国軍が北京に侵攻し、円明園が焼き討ちされるという被害があった。1900年には山東省に起こった義和団の反乱が北京に及び、清朝政府は北京を脱出、アメリカ、イギリス、ロシア、フランス、日本などの諸国が出兵し反乱を鎮圧するという北清事変が起こった。その際に締結された北京議定書で北京への外国兵の駐留が認められた。
 辛亥革命/第一革命で清朝が倒れ、1912年1月に中華民国が建国されると、その首都は南京とされた。北京は首都としての機能を失ったが、なお経済、政治的に主要な都市として、いわゆる軍閥が次々と北京に入り、実力を競った。ようやく1928年、蔣介石政期の国民政府の北伐が終了、国民政府の中国統一がなされると、首都は依然として南京とされ、北京はかつての都市名北平に戻された。
 1931年の満州事変以後、日本の帝国主義的侵略が激しくなり、1935年には日本軍が熱河省から万里の長城をこえて北平に迫り、さらに日本は華北分離工作を進めてその勢力を北京方面にも及ぼした。1937年、北京郊外の盧溝橋で日本軍と中国軍が衝突した盧溝橋事件をきっかけに、両国は日中戦争に突入、日本軍は北京を占領し、傀儡の中華民国臨時政府を置いた。
 日本の敗北、撤退に代わって中国は国共内戦(第2次)の状態となったが、1949年、中国共産党の主導権が確立して中華人民共和国が樹立されると、再び北京としてその首都となった。
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ノートの参照
第7章1節 イ.明初の政治