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朝鮮通信使

朝鮮王朝から江戸幕府の将軍代替わりに際して派遣された使節。各地での交流があった。

 徳川家康は関ヶ原の戦い(1600年)に勝つとすぐ、対馬の宗氏を介して朝鮮との国交回復を図った。朝鮮王朝は国交回復の条件として、二度と朝鮮を侵さないこと、侵略の時王陵をあばいた犯人を引き渡すことなどを要求した。家康はその要求を入れ、1607年に朝鮮は「通信使」を派遣することを約束し、以後江戸末期の1811年まで12回派遣されることとなる。
 「通信」とは信(よしみ)と通じる(かわす)という意味で、通信使は正使、副使の他、儒学者、医師、画家などを含み総勢500人を超えることもあった。朝鮮通信使が江戸に向かう間、各地で日本の文人、学者たちとの交歓が見られた。一方、日本からの使節は漢城まで行くことが許されず、釜山の倭館で応接を受けた。日本に対する不信が完全にはぬぐい去られていなかったのである。<岡百合子『中・高校生のための朝鮮・韓国の歴史』平凡社ライブラリー p.164~ などによる>

朝鮮通信使のルート

 朝鮮通信使は対馬海峡を渡り瀬戸内海を通って大坂に上陸し、伏見までは淀川を航行した。その後は陸路東海道を江戸にむかった。瀬戸内海航行途中には岡山県の牛窓で長期間滞在したという。牛窓にはその頃朝鮮人から伝えられた「唐子踊り」という踊りが残っている。

参考 元禄・享保の国際人 朝鮮通信使との交渉

 鎖国時代の日本で、朝鮮通信使は貴重な外国情報を入手する機会でもあり、外国文化に接する機会でもあった。通信使の一行の中には儒学者や医者、画家が必ず加えられ、途中の宿で日本人の学者、医者、画家との交流が行われた。中には朝鮮語に巧みな日本人学者もいた。その中で最もよく知られたのが雨森芳州である。彼は元禄から享保の頃、対馬藩に仕えた儒者で、江戸や長崎で中国語を学び、さらに釜山の倭館で朝鮮語を学んだ。当時はまだ公用の文字とされていなかったハングルも学んでいる。雨森芳州は木下順庵門下で、新井白石とは同門であったが、白石の朝鮮通信使への厳しい態度や将軍の称号問題での高圧的な態度に反対し、朝鮮使節との対等な交渉を主張した。時には朝鮮使節と激しくやり合ったが、それも高い朝鮮語の能力によって可能だったし、学者としての見識や詩文では朝鮮の学者から称賛されている。鎖国時代の日本でも外国語をマスターし、堂々と渡り合った「外交官」が存在したのだ。<上垣外憲一『雨森芳州-元禄享保の国際人』1989 中公新書>

明治政府への修信使の派遣

 1876(明治9)年5月、朝鮮王朝から修信使金綺秀が日本に派遣された。その年1876年2月に日朝修好条規が締結し朝鮮の開国が行われ、まず日本との外交関係が開始されたことに応じ、日本側が要請したものであった。朝鮮側には明治維新後の日本の情報収集とその軍事技術を見聞する任務を帯びていた。将軍の代替わりごとに派遣されていた江戸時代の通信使とは違うことを明確にするため、「修信使」とされ、一行の人数も少なく、80名ほどとされた。しかし意識としては通信使と変わらず、令旗手や音楽隊などの儀仗を司る随員が30名ほどにも上った。修信使一行は5月23日から6月19日にかけて日本を見聞した。朝鮮使節が東京にまで来るのは、第11回通信使以来実におよそ100年ぶりであり、沿道には人々が集まり大変な騒ぎとなった。しかしそれは決して歓迎の意からではなく、新奇な朝鮮風俗を一目見て楽しもうという、侮蔑的な好奇心からするものだった。<趙景達『近代朝鮮と日本』2012 岩波新書 p.50-52>
 日本人の中にはすでに先に開国し、文明開化したという優越感と、一時盛んだった征韓論的な意識が生まれており、近代の日本と朝鮮関係のゆがみ、きしみが見え始めたと言える。
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上垣外憲一
『雨森芳州-元禄享保の国際人』
講談社学術文庫版