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ベトナム(1)

ベトナムの国土は南北に長く、その北部・中部・南部でそれぞれ異なった歴史と文化を有している。ベトナム史は19世紀初めにひとつの国家になるまで、この三地域ごとに基本軸をおく必要がある。

 ベトナム Vietnam は、ヴェトナムと表記することが多い。中国では“越南”と表記するが、ベトナム人はこの表記を嫌い、自らは大越や安南ということが多い。また近代のベトナムでは大南国という国号も使われている。
 インドシナ半島の東側に南北細長く連なっているのが現在のベトナムであるが、その歴史と文化には地域によって異なっているので注意を要する。おおよそ、北部ベトナム(トンキン地方)、中部ベトナム(アンナン地方)、南部ベトナム(コーチシナ地方)に分けることが出来る。ベトナムの人々は現在でも北部をバッキ(北圻)・チュンキ(中圻)・ナムキ(南圻)という古い呼び方で区分けしている。この三地域は人種的にも異なり、それぞれどくじのれきしをゆうしており、それらが一つのベトナムという国家となるのはずっと遅く、1804年の阮朝の成立によってである。
 → (2)中国王朝への従属  (3)大越国の独立 (4)内乱と阮福映の統一  (5)フランスの保護国とされる  (6)民族運動の開始  (7)日本軍の占領  (8)独立とインドシナ戦争  (9)南北ベトナムの対立・ベトナム戦争  (10)ベトナム社会主義共和国  (11)現代のベトナム

ベトナムの地域区分

北部:中国の南部に接し、紅河流域の平野部(トンキン地方という)を中心とし、トンキン湾に面した地域。中心都市はハノイ。古くから中国との関係が強く、前5世紀頃には銅鼓に代表される青銅器文化であるドンソン文化が栄えた。秦の始皇帝以来、中国の王朝の支配を受けたため、漢字文化圏に属することとなり、儒教や科挙制度なども採り入れた。10世紀の唐滅亡後、ベトナム人の独立の動きが強まり、最初の李朝以下、ベトナム人の国家大越国の王朝が交替していくが、中国の各王朝は宗主権を維持し、時に直接支配を及ぼすこともあった。
中部:西の山岳地帯と東の南シナ海にはさまれた狭い地域であるが、ユエ(順化)を中心に、ベトナム人とは異なるオーストロネシア系のチャム人が居住していた。漢の日南郡の支配を受けていたが、後漢頃から自立し始め、中国資料では林邑として登場する。彼等は自らはチャンパーと称し、港市国家として繁栄した。7世紀の唐代には環王国、9世紀以降は占城国という名で中国史上に現れる。チャンパーは15世紀には北部ベトナムのベトナム人の黎朝に圧迫され1471年に滅亡した。
南部:メコン川下流域デルタ地帯で西にカンボジアに接する。中心都市はホーチミン市(旧サイゴン)。フランス植民地時代にはコーチシナと呼ばれたが、これは漢が北部ベトナムに置いた交趾郡のコーチが転用されたものである。歴史的にはベトナム北部とは異なり、カンボジアとともに扶南という東南アジア最古の国家がこの地に生まれた。扶南は港市国家として海上交易に従事し、4世紀頃からインド化が顕著で仏教とともにヒンドゥー教の影響を受けた文化が形成された。7世紀にクメール人の国である真臘(カンボジア王国)に征服された。メコンデルタ地方のカンボジアによる支配は長く続いたが、17世紀後半からベトナム人の進出が激しくなり、フエを本拠としたベトナム人の地方政権阮氏がメコンデルタ(コーチシナ)に広南(クァンナム)国を建国した。その後、1802年にベトナム全土を統一した阮福映の阮朝に併合される。現在もカンボジア人には、メコンデルタはベトナムに奪われたという意識が強い。

ベトナム史の基本軸

(引用)ヴェトナムの歴史は、アジアの国際関係史である。この関係史はAとB、二つの軸を形成している。A軸は中国との対立と交渉の関係史だった。紀元前からはじまる中国の1000年の支配、それにつぐ独立の時代。しかし、独立したとはいえ、つねに中国の侵略におびえ、抵抗した100年だった。ヴェトナムの社会、経済、文化、芸術はこの中国軸との関係で発展してきた。・・・B軸はヴェトナムと東南アジアモンスーン地帯の諸民族との関係史である。とくに、チャム、ラオ(ラオスのこと)、カンボジア、タイなどとの関係である。ヴェトナムは中国の1000年の支配を脱すると、西方、南方に勢力を伸ばした。ヴェトナムの歴史では「北属南進」といわれている。北の中国の圧力を受け、朝貢を続ける一方で、南へ勢力を伸長し、チャム、カンボジアの領土を併合していった。このB軸は、ヨーロッパ勢力、インド勢力、中国勢力などとのバランスをとって海洋交易に乗りだし、国力を発展させた時代の歴史を形成していった。ヴェトナムの歴史は、A軸、つまり中国軸、これとB軸、東南アジア軸とか世界軸とでもいおうか、A軸とB軸が交差し、からまりあって成立してきている。ヴェトナムを考えるとき、つねにA・B軸をバランスをとって考える必要がある。・・・<小倉貞男『物語ヴェトナムの歴史』1997 中公新書 p.6-7>

(2) 中国王朝への従属

ベトナムの歴史① 秦以降の中国王朝による1000年に及ぶベトナム支配。いわゆる北属期。

中国の各王朝は、秦の始皇帝いらい、中国南部に隣接するベトナムに対する支配を及ぼしてきた。秦の始皇帝の進出に続き、漢の武帝は遠征軍を派遣してベトナム北部から中部にかけてに郡をおいて直接支配を行った。ベトナム人は中国の支配を受け、漢字文化圏に属して文化を形成していきながら、後漢の時代には反乱を起こすなど、抵抗をつづけ、ようやく唐が滅亡し、中国で五代十国の争乱が起こった時期に自立の動きを見せ始め、1009年の黎朝の成立によって初めて独立した。このおおよそ1000年に及ぶ中国による北部から中部にかけてのベトナム支配の時期を、ベトナム史では「北属期」と呼んでいる。

中国王朝のベトナム支配(北属期)

秦の支配 中国を統一した秦の始皇帝は、前214年に遠征軍を派遣し、現在の広東省、広西チュウアン族自治区、北部ベトナムの一帯を征服し、南海郡・桂林郡・象郡の三郡を置いた。北部ベトナムにあたるのは象郡であり、これによってベトナム北部は中国王朝の郡県制支配をうけることとなった。しかし、秦が滅亡すると、南海郡の知事であった人物が独立して南越を建てた。
漢の支配 次いで漢の武帝は、前118年にやはり遠征軍を送って南越を滅ぼし、その地に7郡をおいた。そのうちベトナムに置かれたのは、北部の交趾(こうし)と九真、中部の日南(じつなん)の三郡である。後漢はベトナム支配を継続し、多くの漢人が入植したが、それに対してベトナム人民衆を率いた土豪の娘の徴姉妹の反乱(チュンチャク・チュンニ姉妹の反乱)が起こった。後漢は将軍馬援を派遣して反乱を鎮圧し、直接支配を強化し抑圧を続けたので、その後もたびたび反中国の農民反乱が起こった。中部ベトナムの日南郡には後漢の時に大秦王安敦の使節が来訪したことが記録にあるが、大秦王とはローマ皇帝マルクス=アウレリウス=アントニヌスのことと考えられており、このような東西交流の活発化を背景に、3世紀には中部ベトナムにチャム人が自立して林邑と言われるようになり、さらにチャンパーを建国する。
唐の支配 魏晋南北朝時代の南朝政権による支配の後、隋に続いて中国の統一を回復したは昇竜(ハノイ)に安南都護府を置いて、羈縻政策による統治を行った。唐が衰退すると、中国南部にあった南詔が一時安南都護府を占領するなどの混乱が始まった。

(3) 大越国の独立

ベトナムの歴史③ 11世紀初めに自立したベトナム(大越国)の諸王朝の交代が続く。

ベトナム人の自立

 10世紀の中国の五代十国の争乱に乗じて、ベトナム人土豪が独立の動きを見せ、939年からの呉権の呉朝、965年からの丁部領の大瞿越、981年の黎桓(レホアン)の黎朝(前黎朝)という短期の王が三人現れたが、いずれも短命に終わり、安定したベトナム人政権が登場するのは、1009年の李公蘊が建国した大越国の王朝李朝(リ朝)からである。その後、北部ベトナムには陳朝、胡朝、黎朝(後黎朝)が続くが、元、明、清の中国統一王朝はいずれも北部ベトナムへの直接支配をねらい、もしくは宗主国としての権利を主張し干渉を続けた。

11世紀以降の自立したベトナム(大越国)の諸王朝

李朝 1009年に李朝(リー朝)が成立、これが1054年以降、国号を大越国と称し、ベトナム最初の長期王朝となった。都は昇竜(現在のハノイ)。1071年、李朝は科挙制度を導入した。その影響でベトナムでは識字率が高く、その影響は現在におよんでいるという。ベトナムの李朝は1225年まで続いた。
陳朝と元の来襲 13世紀に陳朝(チャン朝)に代わったが、当時の中国を支配したモンゴル人のは、フビライ=ハンのもとで盛んに遠征活動を展開し、1258年以来、ベトナム遠征軍を数度にわたり派遣してきた。陳朝は粘り強く抵抗してその侵入を撃退した。しかし最終的には服属し、安南国と言われるようになった。かえってこのことがベトナム人の民族意識を高めることとなり、南方のチャンパーに対しては攻勢に出た。また民族意識の高まりから、漢字をもとにしてベトナム語を表記するための字喃(チュノム)が考案された。
胡朝と明のベトナム支配 1400年に胡朝(ホー朝)に代わったが、1406年に明の永楽帝は陳朝の回復を名目に介入し、ベトナムへの遠征軍を派遣した。胡朝はそれによって、翌年わずか8年で滅亡して、ベトナムは明に支配されることとなった。明はベトナム北部を安南として布政使などの地方官をおいて直接支配を行ったが、ベトナム人の独立心は旺盛で、反明闘争が続いた。
黎朝 明からの独立と南進 明の支配に対して起ち上がったのが地方豪族の黎利(レ=ロイ)であった。彼は果敢にゲリラ戦を展開して明軍を後退させ、ついに1428年に独立を回復して黎朝(後黎朝)を成立させた。ただ独立後は明への朝貢をつづけて友好的なな関係を結び、科挙の整備など、明に倣った国内政治を行った。15世紀後半には国力も安定し、中部ベトナムのチャンパーをほろぼし、ベトナム人の支配が中部から南部に及ぶようになった。

(4) 内乱と阮福映の統一

ベトナムの歴史④ 16~18世紀 内乱の時代を経て、1802年、阮福暎がベトナムを統一(阮朝)。

ベトナム南北戦争

 黎朝は15世紀後半には国力も充実させ、ベトナム史でも最も輝かしい時代を迎えたが、1527年に武将の莫氏が権力を奪ったのをきっかけに、長期の内乱の時期に突入、一転してベトナム史で最も混乱した時代となった。まず、権力を奪った莫氏(マック)とその奪還をめざす黎氏が争い、一旦黎氏(レイ)の権力が復活(後期黎朝)するが、まもなく武将の鄭氏(チン)と阮氏(グェン)が対立し、17世紀には北部の鄭氏、南部の阮氏が争って長期の内乱状態に陥った。これは鄭阮二百年戦争とか、ベトナム南北戦争などともいわれる。

阮氏の南ベトナム支配

 中部のフエには阮氏が独立政権を樹立し、さらにメコン=デルタなどカンボジア王国領にも支配を及ぼし、ベトナム人を盛んに入植させ、広南国と称した。この地域では特に阮氏による収奪が激しく、農民の中に反発が強まっていた。18世紀になって中部ベトナムの西山(タイソン)にいた阮氏三兄弟(広南阮氏とは関係はない)が広南国の支配に対する反乱を起こし、これはベトナムの統一を目指す最初の動きとなった。

西山党の乱と西山朝

 西山阮氏の三兄弟はベトナム人以外の民族と連携して、1771年に西山党の乱を起こし、1778年には独立政権を立て、西山朝が始まった。彼等はタイの支援を受けた広南阮氏を破り、さらにハノイの黎朝の鄭氏政権支援を口実に介入してきた清朝軍を破って(1789年)、ベトナムの統一を回復した。

阮福暎のベトナム統一、阮朝

 この西山朝はしかし、三兄弟の内紛から統一を維持できなかった。その中で、広南阮氏の生き残りだった阮福暎が、フランス人ピニョーの援助もあって武力をたくわえ、1802年に西山朝を滅ぼし、阮朝を建て、国号を越南国、都をフエ(ユエ)に置き、清朝を宗主国としてベトナム統治を認められた。ベトナムという国号はこの越南に由来する。 阮朝は清を宗主国としてその制度を採り入れ、科挙などを実施して国家体制を整えた。

(5) フランスの保護国とされる

ベトナムの歴史⑤ 19世紀中頃ナポレオン3世のフランスが侵出し、保護国化をはかる。1887年、フランス領インドシナに編入される。

 ベトナムでは阮福暎によって統一を回復し、1802年に阮朝が成立したが、清を宗主国としていた。ベトナムも19世紀のヨーロッパ列強のアジア進出という嵐から逃れることは出来なかった。その中でベトナムを含めてインドシナへの進出を積極的に行ったのがフランスだった。フランスは阮福暎の建国を助けたピニョー以来、キリスト教カトリックの布教を進めながら、ベトナムに強い足がかりを設けていった。 → ベトナム保護国化

フランスの保護国となる

 阮朝がキリスト教禁止に転じ、宣教師を処刑したことに対して、1858年、フランスのナポレオン3世インドシナ出兵を開始、激しいしフランス=ベトナム戦争となった。その結果、1862年のサイゴン条約でベトナム南部の一部(コーチシナ東部三省)がフランスの直轄領となり、67年までにその支配をベトナム南部(コーチシナ)全域に拡大した。
 フランスで第2帝政が倒れ、第三共和政が成立したが、共和政政府もベトナム侵略は継続し、南部のみならす、さらにベトナム中部から北部に支配を及ぼそうとした。1883、84年のユエ条約でベトナム中部と南部を支配する阮朝にベトナム保護国化を認めさせた。そうとしたフランスに対して、ベトナムに対する宗主権を主張する清が抗議し、両者の対立は1884年の清仏戦争となった。この戦いで清朝は敗れ、ベトナムへの宗主権を放棄した。さらに1887年、フランス領インドシナ連邦が成立し、ベトナムはそれに編入されてしまう(阮朝はフエに形式的に存続する)。

(6) 民族運動の開始

ベトナムの歴史⑥ フランス領インドシナによる植民地支配に対するベトナム民族運動が起こる。

 フランス領インドシナ連邦を構成する植民地ベトナムでも、次第にフランスからの自立を求める民族運動が起こってきた。1904年、ファン=ボイ=チャウは維新会を組織し、日露戦争に勝利した日本に学び、その支援を受けようとして、ドンズー運動(東遊運動)という日本留学運動を開始した。しかし日本は日仏協約をフランスと結んで朝鮮とベトナムのそれぞれの植民地支配を認め合っていたので、ベトナムの反仏運動を支援することは期待できず、この運動は失敗した。次に、1911年の中国の辛亥革命の影響を受け、阮朝の復活ではなく、共和政の新たな国家の独立を目指すようになり、ベトナム光復会を組織した。しかし、フランス帝国主義によってベトナムの独立運動はきびしく弾圧され、ファン=ボイ=チャウも逮捕されてしまった。はじめはファン=ボイ=チャウの協力者であったファン=チュー=チン
(潘周楨)は、その反対にハノイに東京義塾(トンキン義塾)を開設し、青年がヨーロッパの文化を学ぶ機会を作った。しかしこの学校もフランス当局の手によって閉鎖されてしまった。
 ベトナム民族運動の新たな指導者として登場したのが、フランスで苦学しながらマルクス主義を学んだ社会主義者ホー=チ=ミンであった。かれはマルクス主義の理論を学び、帝国主義と対決する民族独立運動を指導することとなり、1930年にベトナム共産党を結成(まもなくインドシナ共産党と改称)した。

(7) 日本軍の占領

本国フランスがドイツ軍に占領されたことをうけ、1940年9月、日本軍が北部ベトナムに進駐、さらに41年7月南部ベトナムを占領して支配を行う。、

 インドシナ半島の東側に南北に長い国土を持つベトナムは、1884年にフランスの保護国となり、カンボジア・ラオスとともにフランス領インドシナ連邦として植民地支配を受けていた。20世紀に入ってファン=ボイ=チャウらによる ベトナムの独立運動が活発となり、東遊運動が展開さ入れたが、抑え込まれていた。第二次世界大戦が勃発し、フランスがドイツに敗北したことは、ベトナムの独立の好機となったが、代わって日本軍が進駐すると、抗日ゲリラ戦を展開しなければならなくなった。

北ベトナムでの大量餓死

 日本軍支配下1944~45年、ベトナム北部で食糧不足から起こった。日本軍が進駐した北部仏印(ベトナム北部)では、日本が米作地帯をジュート畑に転換したことと、日本軍がラオスへ備蓄米を輸送したため、すさまじい食糧不足となり、1944年末から45年にかけて200万人近くが餓死したと言われている。<家永三郎『太平洋戦争』1986 岩波書店 p.221>
 200万人という数については異論もあるが、ホー=チ=ミンがベトナムの独立宣言で触れたことから、ベトナムでは定説となっており、現在でも日本人に対する微妙な感情が残っている。

(8) 独立とインドシナ戦争

日本軍撤退後、ベトナム民主共和国が独立宣言したが、フランスが再び進駐、激しいフランスからの独立戦争であるインドシナ戦争へと突入、54年に勝利するが、アメリカの介入で南北分断される。

ベトナム民主共和国の独立宣言

 1945年8月の日本軍が降伏の直後、ホー=チ=ミンの指導によるベトナム民主共和国が1945年9月に独立を宣言したが、植民地支配を復活させようとしたフランス軍がふたたび進駐してきたので、フランス軍との間に激しいインドシナ戦争を戦うこととなった。

インドシナ戦争

 1949年にフランスはバオ=ダイ帝を擁立してベトナム国を樹立、傀儡政権とした。アメリカ(トルーマン政権)は同年10月、中華人民共和国が成立するとアジアの共産主義化を恐れ(ドミノ理論)、ベトナムのフランス軍を全面支援して介入し、インドシナ戦争はベトナム人民とフランス・アメリカという大国の対決となた。
 ベトナムはホー=チ=ミンの指導するベトナム労働党(1951年にインドシナ共産党から改称)を中心とするベトナム独立同盟(ベトミン)がゲリラ戦を展開してフランス軍・アメリカ軍に抵抗、ついにディエンビエンフーの戦いでの勝利を経てフランスを追い出すことに成功したが、アメリカは南部一帯を占領した。

ジュネーヴ休戦協定

 1954年ジュネーヴ休戦協定で北緯17度を境に休戦が成立したが、55年には南部にアメリカの支援でゴ=ディン=ディエムを首班とするベトナム共和国が誕生し、南北ベトナムの分立という事態となり、南北の抗争に米ソの対立がからむこととなった。

(9)南北ベトナムの対立・ベトナム戦争

第1次インドシナ戦争終結後、南にアメリカが介入し、北との対立が深刻化し、ベトナム戦争となった。北ベトナムに支援された南ベトナム解放戦線が粘り強くアメリカ軍と戦い、アメリカ軍が北ベトナム爆撃に踏み切っても頑強に抵抗、ついに1973年にアメリカ軍はベトナムから撤退し、75年には南ベトナム政府が崩壊し、ベトナム統一が実現した。

 1954年のジュネーヴ休戦協定で北緯17度線を停戦ラインとしてインドシナ戦争が停戦となった。これによって北ベトナムはホー=チ=ミンらベトナム独立同盟の指導するベトナム民主共和国が、南ベトナムには翌年からアメリカが支援するゴ=ディン=ディエムベトナム共和国が存在し、厳しく対立することとなった。
 アメリカは、北のベトナム民主共和国による統一を、東南アジアの共産主義化につながると恐れ、56年7月までに予定された統一選挙を認めなかった。一方、1960年12月に南ベトナム民族解放戦線が「抗米救国」のための統一戦線として結成され、さらに正規軍の南ベトナム人民革命軍を組織した。

ベトナム戦争

 北ベトナム(ベトナム民主共和国)は全面的に南ベトナム解放戦線を支援、ゴ=ディン=ディエム政権は国民の支持を失い、弱体化していった。アメリカは南ベトナムの共産化はインドシナ全域の共産化につながるというドミノ理論に立って、それを阻止するために北ベトナム攻撃の機会を探っていた。1964年、アメリカ海軍の艦船が砲撃を受けたというトンキン湾事件をでっち上げて北ベトナムを空爆、翌65年から本格的な北爆を開始し、宣戦布告のないまま、ベトナム戦争が始まった。アメリカは空爆に加えて地上軍を増員し、ベトナム全土の制圧を目指したが、ベトナム民衆は地下に潜って空爆に耐え、南ベトナムのジャングルではアメリカ兵とゲリラ戦術で果敢に戦い、戦争は長期化した。  ベトナム南部の解放戦線の戦いは、北ベトナムからラオスやカンボジアを経由したホー=チ=ミン・ルートで支援され、アメリカ軍を圧迫した。1968年、パリ和平会談が開始されたが、その一方でニクソン政権は70年代からカンボジア侵攻ラオス空爆と戦線を拡大し、犠牲を増大させた。アメリカの内外で激しい反戦運動が起こったこともあり、アメリカは戦争継続に苦慮するうち、ようやく73年にべトナム和平協定が成立し、3月にはアメリカ軍が撤退した。解放戦線は75年4月にサイゴンを陥落させ、南ベトナム政府はここに崩壊し、ベトナム戦争は北ベトナムと解放戦線の勝利に終わった。76年にはベトナム労働党はベトナム共産党という名称に戻った。

(10)ベトナム社会主義共和国

ベトナム戦争終結後、南北統一が実現し1976年にベトナム社会主義共和国が成立した。しかし、1979年には隣国のカンボジアのポル=ポト政権と対立して軍を侵攻させ、それに反発した中国との間で中越戦争が起こり、戦時体制が続いたため、国民生活・経済は大きく立ち後れた。

 1960年代中頃から激しいベトナム戦争を戦い抜き、1973年にはアメリカ軍を撤退させ、75年に統一を実現、1976年に現在のベトナム社会主義共和国が成立し、首都は北ベトナムのハノイが継承した。こうしてインドシナ戦争からベトナム戦争へと続いた苦難の歴史の中から、ようやくベトナムは真の独立と統一を達成し、翌77年に国際連合に加盟した。

カンボジアへの侵攻

 しかし、ベトナムは新たな脅威に直面した。それは1975年に隣国カンボジアに成立した親中国のポル=ポト政権との国境紛争が始まったことであった。ベトナムとカンボジアの対立の背景には、中ソ対立の深刻化があった。ベトナムはソ連との関係が良好であったが、カンボジアのポル=ポト政権は中国の支援を受けており、両者は国境問題という形で対立しが、背景には中ソの対立があった。ベトナムは1978年末から大規模なカンボジア侵攻を開始、79年にプノンペンを制圧してポル=ポト政権を追放し、ヘン=サムリン政権を樹立した。 → カンボジア内戦

中越戦争

 それに対して、態度を硬化させた中国が、1979年からベトナム北部に侵攻し、中越戦争が起こった。しかし、文化大革命の後遺症に苦しむ中国は戦争を長期化させることができず、すぐに撤退し、軍事的圧力をかけたにとどまった。ベトナムでも80年代は緊張した軍事情勢が続き、戦争の長期化のために社会主義体制は次第に行き詰まり経済状況が悪化していった。

ボートピープル

 インドシナ半島での戦乱による「インドシナ難民」には、カンボジアからの「ランドピープル」(陸路脱出難民)とベトナムからの「ボートピープル」(海路脱出難民)とがあった。カンボジア難民は1979年1月から急増した、ポル=ポト政権が崩壊にともなうタイへの流出した人々であった。
 「ボートピープル」といわれたのはベトナム難民で、ベトナム戦争中から見られたが、急増したのは1978年12月のベトナム軍のカンボジア侵攻と翌年2月の中越戦争からであった。ボートピープルは、主に南ベトナムの旧サイゴンなどの比較的富裕な人々であり、戦争の再発とベトナムの社会主義化によって財産が失われることを恐れたためと考えられている。
(引用)行く先の定まらない片道キップを手に、モンスーンの洋上に命を浮かべたボートピープルは、それぞれに数奇な運命をたどった。官憲の目をのがれ、夜陰にまぎれて脱出に成功したとしても、南シナ海の波は荒く、板子一枚下はサメの群れが待つ地獄だった。<丸山庸雄『キーワードで追うカンボジア紛争』1992 梨の木舎 p.88>
 ベトナムのボートピープルの多くは、タイ領をめざしたが、途中で海賊に襲われ、財産を奪われたり、乱暴されるなど悲惨な目に遭うことが多かった。運良く上陸しても、タイは不法入国として追い払おうとする。難民は自分たちが乗ってきた船を焼き払って海に出ることができないようにすることによって、ようやく収容所に入ることができた。タイは難民受け入れを渋っていることを知られないために報道管制をしたが、次第にニュースとして報じられるようになり、国際的な問題となっていった。しかし、実際どのぐらいの人々がボートピープルとしてベトナムを離れたか、またどのぐらいの人が途中で命をなくしたかは判っていない。
 ボートピープルの中には日本を目ざした人たちもいた。1989年以降、沖縄や九州の海上で救出されるベトナム人も増加し、難民として保護されるようになった。日本は1982年に「難民の地位に関する条約」(1951年成立)に加盟している。

(11)現代のベトナム

1980年代後半、社会主義からの転換をはかり、ドイ=モイ路線をとる。

 面積は約32万平方km。人口は約8千万。首都はハノイ。民族はベトナム人(キン人、越人とも言う)が約80%で、多数の少数民族を含む。社会主義国だが伝統的に仏教徒が多く、長いフランス植民地時代からのカトリックも南部を中心に多い。

ドイモイへの転換

 ベトナム戦争後も、1979年1月のカンボジアに侵攻、同年の中国との中越戦争と戦時態勢が続き、国民生活を圧迫し続けた。また南北統一後、全土の社会主義化を進めようとしたが、生産は停滞し、経済成長が止まり、政策の転換を余儀なくされた。東ヨーロッパの社会主義国が経済の停滞に悩みながら市場経済導入に踏み切っていったのと同じように、ベトナムでも転換が模索された。
 1985年にソ連に登場したゴルバチョフ政権ペレストロイカといわれる改革を開始すると、ソ連の影響の強かったベトナムでも、1986年からは市場経済の導入に踏み切った。その新路線をベトナム語でドイ=モイ(刷新の意味)と言った。この路線に転換は、政治的な混乱もなく、比較的スムースに行われた。1989年にはカンボジアからも撤退した。その結果、ベトナムのカンボジアへの影響力も弱まり、91年にカンボジア和平協定が成立した。1995年には東南アジア諸国連合(ASEAN)に加盟、同年アメリカとも国交を正常化させ、経済は回復に向かっている。
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ノートの参照
第2章2節 イ.インド・中国文化の受容
第6章3節 イ.元の東アジア支配
第7章1節 ウ.明朝の朝貢世界
第14章3節 カ.東南アジアでの民族運動の形成と挫折
第16章1節 ウ.東アジア・東南アジアの解放と分断
第16章3節 エ.ベトナム戦争とインドシナ半島
書籍案内

小倉貞男
『物語ヴェトナムの歴史』
 中公新書












































































































































































































































































書籍案内

丸山庸雄
『キーワードで追うカンボジア紛争』
1992 梨の木舎

筆者は東京新聞・中日新聞の元バンコク支局長。カンボジア紛争を直接取材した情報源として利用できる。


書籍案内

坪井善明
『ヴェトナム
「豊かさ」への夜明け』
1994 岩波新書

ベトナムの歴史、社会、国家とベトナム戦争からドイモイへの推移をわかりやすく解説。