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オスマン=ベイ/オスマン1世

13世紀後半に小さなトルコ系遊牧部族を率いて小アジア北西部に自立し、後にオスマン帝国初代の君主とされた。

 オスマンはオスマン帝国の初代君主であるが、ほとんど伝承によって知られるのみで正確なことは判らない。イスラーム教スンナ派を信奉するトルコ人戦士集団(ガーディー)を率いてルーム=セルジューク朝の衰退による群雄割拠の中で台頭し、1266年に父の族長エルトゥルルの死によって族長となった。彼は自分の名を部族名とし、他のトルコ系部族と連合しながら周辺のキリスト教国を征服し、1299年に小アジア(アナトリア)北西部のイェニシェヒールを陥落させて、小アジア西部の小君侯国として独立した。オスマン=ベイのベイとは君侯の称号であり君侯国も意味する。後にオスマン帝国に発展してからその始祖としてオスマン1世(在位1299ごろ~1326)と言われるようになった。彼は、ビザンツ帝国領のブルサ攻撃にとりかかり、勝利したが入城直前に病没した。

第2代 オルハン=ベイ

 息子のオルハン=ベイ(オルハン1世 在位1326~62)が1326年にブルサに入って新首都と定め、それまでの遊牧部族の部隊を正規軍団に編制し、初めて貨幣を発行するなど、オスマン国家としての形態を整えた。オルハン=ベイは征服活動を再開し、キリスト教の聖地ニケーアを攻略し、コンスタンティノープルと指呼の間に軍を進めた。そのころビザンツ帝国は皇帝位を巡って二派が対立する内紛が起こっており、カンタグゼノス家のヨハネスはオルハンを味方につけようとして、1346年に娘テオドラと結婚さ、その後にビザンツ帝国皇帝ヨハネス6世となった。オルハンの率いる軍団はビザンツ帝国に招き入れられる形でヨーロッパ側のバルカン半島に入り、1354年にダーダネルス海峡の要所ガリポリ(トルコ語ではゲリボル)を獲得した。これ以後、オスマン国家の勢力圏はバルカン半島に広がっていく。
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ノートの参照
7章3節 トルコ・イラン世界の展開