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ビザンツ帝国

6世紀のユスティニアヌス帝時代は地中海世界支配を回復したが、以降は当方のササン朝ペルシアとの抗争、北方からのスラブ人の進出などによって領土を縮小させていった。7世紀以降はイスラーム勢力の侵入に脅かされる。それでもコンスタンティノープルは東西交易で繁栄し、帝国も存続し、いくつかの王朝が交代する。しかし、13世紀には十字軍に征服されて首都を明け渡し、その後回復したがその支配は首都周辺に限られまったく衰退した。この間、東方教会はローマカトリックと対抗するギリシア正教として分離し、アラブ世界に広がる。1453年、オスマン帝国の攻撃によって首都が陥落し、ビザンツ帝国も滅亡した。

東ローマ帝国は西ローマ帝国滅亡、正統的なローマ帝国を継承することとなったが、その支配する地域はバルカン半島小アジアのギリシア人地域であったため次第にローマ的伝統は弱まり、独自の国家形態をとるようになり、またギリシア化が進んだ。そのため、7世紀頃から「ローマ帝国」の名称にかわって「ビザンツ帝国」と言われるようになった。ビザンツとは、都のコンスタンティノープルのギリシア時代の名称であるビザンティオン(ビザンティウム)に由来し、あるいは「ビザンティン帝国」とも言われる。便宜上、東ローマ帝国をビザンツ帝国として説明することが多い。  → ビザンツ帝国の展開(中世ローマ帝国)  ビザンツ帝国の衰退  ビザンツ帝国の滅亡

ビザンツ帝国の始まり

 ビザンツ帝国の始まりは、330年のコンスタンティノープルの建設、395年のローマ帝国の東西分裂による東ローマ帝国の分離、さらに西ローマ帝国が滅亡して東ローマが唯一の「ローマ帝国」となった476年などに求めることが出来るが、定説はない。いずれにせよローマ帝国を継承した国家であり、首都コンスタンティノープルは第二のローマと言われたのであるが、その地域性から次第にギリシア的性格が強くなり、西方教会(ローマ教会)と分離した結果、7世紀頃から「ビザンツ帝国」と言われるようになった。

全盛期のユスティニアヌス時代

 東ローマ帝国は西ローマ帝国のようにゲルマン人の直接的な流入と定着は少なく、4~5世紀の民族異動期の混乱を乗り切って存続した。6世紀にはスラヴ民族の南下に悩まされながらも、ユスティニアヌス大帝の時に国力を増し、地中海西方に進出、東ゴート王国などゲルマン諸国を征服してかつてのローマ帝国の領土を一時回復した。この時期には都のコンスタンティノープルや総督府の置かれた北イタリアのラヴェンナビザンツ様式の文化が開花した。

ギリシア正教会

 ビザンツ帝国は国教としてローマ帝国からキリスト教を継承したが、ローマ教会と違ったコンスタンティノープル教会を中心にして独自の発展をとげ、ギリシア正教会といわれるようになり、皇帝と教会の関係では皇帝教皇主義をとるとった。ユスティニアヌス帝が建造したコンスタンティノープルのハギア=ソフィア聖堂はギリシア正教会の総本山とされた。

首都コンスタンティノープルの繁栄

 首都コンスタンティノープルは、帝国の都として東西交易の中心となって貨幣経済が栄え、ローマ帝国以来のソリドゥス金貨の発行はビザンツ帝国でも続けられ、この時代にはノミスマといわれるようになった。歴代皇帝はノミスマの金含有量を落とさなかったため信用が続き、首都コンスタンティノープルは経済の中心として繁栄した。

ビザンツ帝国の展開

7世紀以降のビザンツ帝国はイスラーム勢力の侵攻によって領土を縮小させた。8世紀以降、ヘラクレイオス朝以下の王朝が交代、その間テマ制という独自の軍事・行政制度を発達させて、国家を存続させた。一方で聖像禁止令を出してローマ教会と決別し、独自のギリシア正教会を成立させた。

領土の変遷

 領土的には6世紀のユスティニアヌス帝の時に一時西地中海を征服し、ローマ帝国のほぼ全版図を回復したが、その時が最大で、その後、西方はゲルマン(ランゴバルド王国)、ノルマン、東方はササン朝ペルシア、北方はスラヴ人にそれぞれ領土を奪われ、7世紀以降は西アジアのアラブ人のイスラーム教勢力の登場によって、西方を脅かされ、シリアとエジプトを奪われることとなる。
 750年にイスラーム帝国がアッバース朝に替わると、都がバグダードに置かれ、その領土拡大がイランから中央アジア方面に向けられるようになったので、ビザンツ領へのイスラーム勢力の脅威は弱まった。ついで11世紀に中央アジアから侵出したトルコ人のセルジューク朝が西アジアに進出し、新たな脅威となる。 → イスラームとビザンツ帝国

ビザンツ帝国の王朝変遷

 7世紀以降は皇帝の世襲が一般化し、またクーデタによる皇帝位の廃位などがたびたび起こり、王朝が交替した。ビザンツ帝国の王朝の変遷(一時ラテン帝国に首都を奪われる)をまとめると次のようになる。
 ヘラクレイオス朝(610~711)→マケドニア朝(867~1056)→コムネノス朝(1081~1185)→アンゲロス朝(1185~1204)→十字軍に征服されラテン帝国の支配(1204~1261)を受ける→パライオロゴス朝(1261~1453) 
 この間は、「中世ローマ帝国」とも言われる。ヘラクレイオス朝・マケドニア朝時代は独自の国家体制をとって繁栄したが、コムネノス朝からは衰退期に入る。  この間、ビザンツ帝国では軍管区制(テマ制)屯田兵制など独自の国家体制を発達させ、お400年の命脈を保ち、1453年オスマン帝国によって滅ぼされるまで存続する。

Episode ビザンツ皇帝の命

 ビザンツ帝国史上90人の皇帝のうち、実に30人近くが毒殺、刺殺、斬首によって命を落とている。

ササン朝ペルシアとの抗争

 ビザンツ帝国の東方では、3世紀以来、ササン朝ペルシアが台頭した。ササン朝は東西貿易を支配し、それによって中国の産物など東方の産物もコンスタンティノープルにもたらされた。しかし、両国は境を接する小アジア東部で次第に領土を巡って争うようになり、ユスティニアヌス帝は、ササン朝のホスロー1世とも戦い、一旦は講和した。7世紀に入ると、ササン朝のホスロー2世はビザンツ領のイェルサレムを襲撃した。それに対して、ビザンツ帝国ではヘラクレイオス1世(在位610~641)が態勢を建て直し、628年には一時クテシフォンを占領した。この両国の抗争によって、シルクロードの東西交易路が衰退し、変わってアラビア半島南岸の交易ルートが開かれ、その中心都市メッカから新たな動きとしてイスラーム教が登場する。

イスラーム勢力の脅威

 ビザンツ帝国とササン朝ペルシアが抗争して国力を消耗した間に、その間隙を縫ってアラビア半島にイスラーム教勢力が起こり、早くもムハンマドの死後2年後の634年にアラブ軍がビザンツ領に侵入を始めた。皇帝ヘラクレイオス1世はササン朝ペルシアとの戦いで疲弊していた軍を率いてシリアに赴いたが、大敗を喫し、シリアエジプトを奪われてしまった。特にエジプトの喪失は大きな穀倉を失ったことになるので、それ以降、ローマ帝国以来の伝統であった小麦の配給ができなくなった。
 さらに674年~678年に海上からイスラーム(ウマイヤ朝)軍によってコンスタンティノープルを包囲されている。続いてレオン3世(レオ3世)の時、717~718年にも首都を包囲されたが、いずれもビザンツ軍は「ギリシアの火」などの戦術で撃退に成功した。 → イスラームのビザンツ侵攻 

ローマ教会との対立

 そのような中でビザンツ帝国はローマ帝国を継承しながらギリシア的性格を強め、キリスト教世界では折から西方で勢力を強めてきたゲルマン人の国フランク王国と対立するようになった。またコンスタンティノープル教会とローマ教会は五本山の中の首位権をめぐって争うようになる。726年のビザンツ帝国皇帝レオン3世(レオ3世)による「聖像禁止令」を機に、教会の東西分裂は決定的となり、ビザンツ帝国は皇帝教皇主義をとるギリシア正教会の保護者として続くこととなる。

ビザンツ帝国の衰退

11世紀、ビザンツ帝国はトルコ系イスラーム勢力のセルジューク朝に侵攻され、ローマ教会に十字軍の派遣を要請。しかし、13世紀にはその十字軍に占領され、衰退は決定的となった。なおも存続したが、オスマン帝国の侵攻を受け、1453年に滅亡した。

 8~9世紀には北のバルカン半島で、トルコ系のブルガール人が活動を活発にし、しばしばビザンツ領を脅かすようになった。また、10世紀末には現在のウクライナにキエフ公国が台頭し、989年にはキエフ大公ウラディミル1世がビザンツ皇帝の妹を后にし、ギリシア正教会に改宗した。

セルジューク=トルコの侵攻

 ビザンツ帝国は、11世紀には中央アジアから移動してきたトルコ系イスラーム国家であるセルジューク朝に圧迫されるようになった。1071年、マンジケルトの戦いで敗れて小アジアでの領土を大幅に縮小させた。こうしてトルコ人が小アジアに移住するようになり、そのトルコ化が始まった。同じ頃、ビザンツ帝国領の南イタリアではノルマン人が侵攻し、その地も失うことになった。このころ、ビザンツ帝国の独自の中央集権的な軍事・行政制度であった軍管区制(テマ制)が崩れ、プロノイア制と言われる有力者に大土地所有の世襲を認める制度に変化し、封建下が進んだ。

十字軍遠征を要請

 西アジア各地に進出したセルジューク朝はキリスト教の聖地イェルサレムを占領した。このようなセルジューク朝による領土侵食に直面したビザンツ帝国コムネノス朝の皇帝アレクシオス1世は、それまで対立していたローマ=カトリック教会のローマ教皇に支援を要請、それを受けたローマ教皇ウルバヌス2世は1095年、クレルモン宗教会議を開催して、十字軍の派遣を呼びかけた。

ラテン帝国の成立

 十字軍運動は当初の聖地回復という目的から外れ、経済的要求を強めていった。その中で、13世紀にヴェネツィアの商人の主導で行われた第4回十字軍は、1206年にコンスタンティノープルを襲撃、その地を占領してラテン帝国を建てた。このためビザンツ帝国は領土の大半を失い、ニケーア帝国やトレビゾンドなどの亡命政権を作って存続した。

ビザンツ帝国復興とパレイロゴス朝

ラテン帝国はブルガリアとの戦いに敗れるなどで、領土を拡大することができず、1261年にニケーア帝国によってコンスタンティノープルを奪還されて滅亡した。奪回に成功したニケーア帝国のミカエル=パレイロゴスはビザンツ帝国を再興し、パレイロゴス朝皇帝ミカエル8世として即位した。ビザンツ帝国は一時、勢力を盛り返したが、その支配はコンスタンティノープル周辺とギリシアの一部地域だけに限られるようになった。

オスマン帝国の圧力

 14世紀中頃からはオスマン帝国がバルカン半島や地中海に進出したためビザンツ帝国の領土はさらに縮小の一途をたどった。しかし、ローマ帝国の後継者であることと、ギリシア正教の保護者であることは、なおこの世界での権威を持ち続け、1453年、オスマン帝国軍によってコンスタンティノープルが陥落し、滅ぼされるまで、命脈を保った。

ビザンツ帝国の滅亡

1453年、オスマン帝国軍によって首都を攻略されて滅亡した。

 1453年、オスマン帝国メフメト2世によってコンスタンティノープルは陥落し、千年以上続いたビザンツ帝国が滅亡した。西ヨーロッパのキリスト教世界にも、大きな衝撃であり、古代ローマ以来の伝統、キリスト教会の絶対性が否定されたものと受け止められた。

ビザンツ帝国滅亡の影響

 ビザンツ帝国の滅亡はヨーロッパ世界に二つの大きな影響を及ぼした。一つは、オスマン帝国が東地中海とバルカン半島、西アジアに及ぶ大帝国を完成させたことによって、ヨーロッパのアジアへの交易ルートが断たれたことである。ヨーロッパ商人の目は必然的に地中海から大西洋に移り、新航路の開発に向かわざるを得なくなった。もう一つは、ビザンツ帝国が滅亡したことによって、コンスタンティノープルの多くのギリシア人の学者や芸術家が、イタリアのフィレンツェなどに亡命し、ギリシア・ローマの古典文化の神髄を伝えたことである。すでに始まっていたルネサンスにとって、これは大きな刺激となった。
1453年という年 このように、経済と文化の両面で、ビザンツ帝国の滅亡はヨーロッパに大きな影響を及ぼした。そしてこの年、1453年は、百年戦争が終結した年でもある。これを機にこの両国は封建社会から脱し、主権国家に脱皮し、以後の世界史を先導する形になっていく。一方、オスマン帝国は専制国家としてますます巨大化していくが、やがて英仏の植民地獲得競争の餌食になっていく。この年は、時代の大きな変わり目であったことが判る。
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ノートの参照
第6章1節 エ.ローマ=カトリック教会の成立
第6章2節 ア.ビザンツ帝国の繁栄と滅亡
書籍案内

井上浩一『生き残った帝国ビザンティン』
講談社学術文庫

井上浩一他
『ビザンツとスラブ』
1998 世界の歴史 11
中央公論新社