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ダーダネルス海峡

アジアとヨーロッパの間、小アジアとバルカン半島の間の海峡で、エーゲ海につながる。

エーゲ海からマルマラ海に抜け、さらに北に位置するボスフォラス海峡を通って黒海につながる。ペルシア戦争の時のペルシア軍が小アジア側からこの海峡を越えてギリシアに侵入した。また海峡に面したゲリボル(ガリポリ)半島は第一次世界大戦でのガリポリの戦いの戦場となった。

ボスフォラス海峡

黒海からマルマラ会に通じる海峡。

黒海とマルマラ海を結ぶ海峡でダーダネルス海峡につながり、エーゲ海に抜ける。古来アジアとヨーロッパの接点にあり、交通の要衝として重要視された。ギリシア人が植民してビザンティオンを建設し、後にはローマ帝国の都コンスタンティノープルとなり、さらに東ローマ帝国(ビザンツ帝国)の都として繁栄した。また小アジアに起こったオスマン帝国はこの海峡を渡ってバルカン半島に進出し、アジアとヨーロッパにまたがる帝国を建設し、ビザンツ帝国を滅ぼしてコンスタンティノープルをイスタンブルと改称した。

ダーダネルス=ボスフォラス海峡(近代)

黒海から地中海進出をめざすロシアとそれを警戒する諸国の間で海峡航行をめぐり紛争が続く。

 イスタンブルがあるのはボスフォラス海峡。オスマン帝国(トルコ)の登場以来、その支配下に入っていたが、ロシアは黒海から地中海に進出するためにはダーダネルス=ボスフォラス両海峡の通行権を得なければならないので、オスマン帝国との間で激しい争いを展開、いわゆる東方問題の焦点となる。18世紀の初めのピョートル1世の時に北方戦争でバルト海に進出する一方、南下政策をとって、黒海からバルカン半島方面に進出しようとした。黒海を支配下におけば、黒海艦隊を地中海方面に進出させるためにはどうしても通過しなければならず、その航行権の獲得をめざしてオスマン帝国にさまざまな攻勢をかけた。それに対してオスマン帝国の抵抗と、ロシアの地中海への進出を警戒するイギリス、フランスなどの諸国とが、この二つの海峡の航行権を巡って激しく争った。その経過をまとめるとと次のようになる。
1774年 オスマン帝国、キュチュク=カイナルジャ条約でロシアに商船の通過を許可する。
1809年 列強の妥協により、すべての国の軍艦の航行禁止される。
1833年 オスマン帝国とロシアでウンキャル=スケレッシ条約締結。ロシア軍艦の航行を認め、他国の軍艦の航行は禁止。
1841年 ロンドン会議5国海峡協定締結。ウンキャル=スケレッシ条約を廃棄、各国軍艦の航行禁止、海峡封鎖。
1856年 クリミア戦争後のパリ条約で、黒海中立化、海峡封鎖の原則確認。
1878年 露土戦争後のベルリン会議で締結されたベルリン条約でも海峡封鎖の原則維持。
1914年 第一次世界大戦 オスマン帝国がドイツ側に参戦したので、イギリスはロシア軍との連絡を確保するため、15年4月、ダー種する海峡入口にガリポリ上陸作戦を敢行。しかしトルコ軍の抵抗で失敗。1917年10月、オスマン帝国が降伏。ダーダネルス=ボスフォラス海峡の封鎖は解除され、連合国の管理下におかれる。
1920年 第一次世界大戦後のセーヴル条約で、国際管理下に置かれることになる。実際には英、仏、伊、日、ギリシア、ブルガリア、ルーマニアからなる国際海峡委員会が運営する。トルコは各国の船舶、軍艦、航空機の通過の自由を認めた。
1923年 ローザンヌ条約でセーヴル条約の原則を継承。国際海峡委員会のもとで各国に開放されたが、沿岸部のトルコ主権は承認された。
1936年 モントルー会議、ソ連の提唱で開催され、黒海沿岸国以外の軍艦・航空機の通過は制限される。