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ニケーア公会議/ニケーア/ニカイア

325年、コンスタンティヌス帝が主催したキリスト教教義を決する最高会議である公会議。アタナシウス派を正統、アリウス派を異端と決した。ニケーア(ニカイアとも表記)は小アジア西部にある、現在はトルコ領の小都市イスニック。

 313年にミラノ勅令キリスト教を公認したローマ帝国の皇帝コンスタンティヌス帝が、325年にが主催して小アジアのニケーア(ニカエアと表記することもある)で開催したキリスト教の教義を決する最高会議。キリスト教における、最初の正統教義を決定した重要な公会議となった。
 その前年の324年、コンスタンティヌス帝は自らキリスト教徒であることを宣言、翌325年にニケーア(ニカイア。小アジアのニコメディアの近く)に約300人の司教を集め、コンスタンティヌス帝自ら黄金の椅子に座り議長を努めた。公会議とは、キリスト教教会の全体意志を決定する重要会議で、これ以後、何度も開催される。一般に宗教会議とも言われるが、ここでは固有の意味を持たせて公会議という。ここでは、イエスの神性を否定するアリウス派と、イエスの神性を認めるアタナシウス派の両派が激しく論争を展開した。

アタナシウス派を正統、アリウス派を異端とする。

 会議は当時キリスト教内部に起こったアリウス派の考えを認めるかどうかがテーマであった。コンスタンティヌス帝としてはキリスト教を公認した以上、その教義は一本化していなければならず、司教間の対立は皇帝として仲裁しなければならないと考えていた。会議はアリウス派に反対するアタナシウス派との間で2ヶ月間にわたる議論が展開され、その結果、中間派も含めてアタナシウス派が大勢を占め(300人の司教のうち反対は5人だった)、イエスの神性を認めるアタナシウス派が正統、アリウス派は異端とされ、ローマ領からの追放が決定された。なお、アタナシウスの神とイエス双方に神性を認める考えには、さらに精霊を加えてその三者がそれぞれの面をもつが実体において一体であるとする三位一体説が教義として確立し、381年にデオドシウス帝の招集したのコンスタンティノープル公会議において正統教義とされるに至る。

Episode ギボンの評価

 ニケーア公会議でアタナシウス派が正統とされたが、それが確定するまではなお曲折が続いた。会議の後、コンスタンティヌス帝がアリウス派に対して寛容に転じ、両派の抗争は再燃したのだ。アタナシウスの項でも触れるように、彼はその後、帝と厳しく対立するようになる。実は定見がなかったコンスタンティヌス帝の宗教政策に対し、ギボンはこう評価している。
(引用)帝の教会政策はどうみても軽率、そして薄弱という非難を免れえぬものと思う。だが、神学論議の戦略について当然不慣れな君主が、異端派の謙虚で尤もらしい教説など聞かされれば、どうせ彼等の感情を完全に理解できるはずはないし、欺かれる可能性は十分ありうるのだ。が、ともかくも帝は一方ではアリウスを庇護し、アタナシウスを迫害しながら、しかも他方では依然といしてニカエア公会議をもってキリスト教信仰の防砦、そしてまた帝治下の大いなる誇りと自負していたのだった。<ギボン『ローマ帝国衰亡史』3 ちくま学芸文庫 p.328>

ルーム=セルジューク朝の首都ニケーア

 ニケーア公会議が開催されたニケーア(ニカイア)は、ローマ帝国分裂後はビザンツ帝国に属していたが、小アジアにセルジューク朝が進出してキリスト教勢力は後退し、イスラーム化がはじまった。ニケーアは1077年からルーム=セルジューク朝の都とされた。その後、第1回十字軍がニケーアを占領したので、ルーム=セルジューク朝は都をコンヤに遷した。

ニケーア帝国

 1204年、ヴェネティア商人を主体とした第4回十字軍がコンスタンティノープルを占領してラテン帝国を建てると、ビザンツ帝国の遺臣の一部はニケーアにの移ってニケーア帝国という独自政権をつくり、ラテン帝国、ルーム=セルジューク朝と対抗した。その実権を握っていたミカエル=パライロゴスは巧みな外交で1261年にコンスタンティノープルを奪回し、自ら皇帝に就任、パライロゴス朝ビザンツ帝国起こした。

参考 現在のニケーア

 1453年、ビザンツ帝国が滅亡し、ニケーアもオスマン帝国領となり、その後現在までトルコ共和国領として続き、イズニックといわれている。以下は1980年代にイズニックを訪れた日本人女性の旅行記からの情報。
(引用)イズニックでバスを降りた私は、そのしっとりとした落ち着いた町のたたずまいに、ほっと救われるような気分になった。活気に溢れ、喧噪に満ちたイスタンブールとは対照的である。4世紀、ローマ帝国のコンスタンティヌス帝がキリスト教の教義を統一するために開いた、あのニカイア会議で知られるニカイアが、この町である。だが、現在のイズニックは、村と呼びたいような、のどかな町だった。アヤ・ソフィア寺院の塔の上にコウノトリが巣をかけていた。私はなかば崩れたローマ時代の城壁に沿って歩き、イズニック湖のほとりを散策し、木陰の茶店にたむろする老人たちに呼びとめられて、いっしょにチャイを飲んだ。<渋沢幸子『イスタンブール、時はゆるやかに』1994 新潮文庫 p.174>
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第1章3節 ク.迫害から国教化へ
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ギボン/中野好夫訳
『ローマ帝国衰亡史』3
ちくま学芸文庫