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(1)オスマン帝国

14~20世紀初頭まで存在したイスラム教スンナ派の大帝国。小アジアからバルカン半島、地中海にも進出、君主であるスルタンが教主カリフの地位を兼ねる体制をとり、イスラーム教世界の盟主として16世紀に全盛期を迎え、ヨーロッパ=キリスト教世界に大きな脅威を与えた。17世紀末からヨーロッパ諸国の侵攻、アラブ諸民族の自立などによって領土を縮小させ、次第に衰退してた。⒚世紀、近代化をめざす改革に失敗、第一次世界大戦でドイツと結んだが敗れ、1922年に滅亡した。

 (2)帝国の特徴  (3)成立期から全盛期へ(14~16世紀)  (4)衰退期から危機の始まりへ(17~18世紀)  (5)混迷から停滞へ(19世紀)  (6)青年トルコ革命と第一次世界大戦(20世紀)  (7)オスマン帝国の滅亡(1922)

初期のオスマン国家

 13世紀の小アジア(アナトリア)西部は、セルジューク朝の地方政権ルーム=セルジューク朝が支配していたが、十字軍運動の侵攻を受けて衰退、さらに東方からのモンゴルの侵入を受け、1242年その属国となった。ルーム=セルジューク朝の弱体化に伴い、小アジアにはトルコ人のイスラーム戦士の集団であるガーズィーが無数に生まれ、互いに抗争するようになった。その中で有力なものがベイ(君侯)を称し小規模な君侯国を創っていった。オスマン帝国の創始者オスマン=ベイもそのようなベイの一人であり、1299年、オスマンはガーズィを率いて小国家を独立させた。またその西のビザンツ帝国領を個々に浸食していった。第二代のオルハン=ベイはビザンツ領のブルサを奪い、1326年に最初の首都とした。小アジアの他の小さな君侯国を併合しながら、領土を拡大し、その間、イスラム法学者(ウラマー)を招いて国家の機構を整えていった。
バルカン半島に進出  小アジアの西北に起こった小勢力のオスマン国家であったが、14世紀にビザンツ帝国の分裂に乗じる形でダーダネルス海峡からバルカン半島に進出して勢力を拡大した。1361年にはムラト1世アドリアノープルを攻略、1366年に新首都エディルネと解消した。さらに北上して、セルビア、ブルガリアなど現地勢力を下しながら侵攻し、ムラト1世は1389年のコソヴォの戦いで、バヤジット1世は1396年、ニコポリスの戦いでそれぞれキリスト教国連合軍を破り、いよいよコンスタンティノープルを包囲する形成となった。
ティムールに破れた後に再興 しかし、そのころ東方からティムールが小アジアに侵入してきたため、バヤジット1世は軍を東にむけ、1402年にアンカラの戦いでティムールと戦ったが敗れてしまった。このためオスマン帝国は一時衰え、ビザンツ帝国は滅亡を免れた。ティムール帝国は次ぎに矛先を東の永楽帝の時期)に向けたため、オスマン帝国は息を吹き返しメフメト2世イェニチェリ軍団などの軍隊の組織的な力を復活させて勢力を盛り返し、1453年についにコンスタンティノープルを攻略してビザンツ帝国を滅ぼしイスタンブルを都とする大帝国となった。
スルタンとカリフ オスマン帝国は、1396年のニコポリスの戦いでキリスト教軍に勝ったバヤジット1世がカイロに亡命していたアッバース朝のカリフの一族から、世俗的権力者としてスルタンの称号を贈られてから、イスラーム教スンナ派を保護する宗教国家として西アジアに大きな勢力を持つようになったとされている。ただし、実際にはバヤジットの父のムラト1世がすでにスルターンの称号を用いている。さらに1517年にマムルーク朝を倒してからはスルタンは宗教的権威者としてカリフの地位を兼ねるスルタン=カリフ制を採るようになった。これについては異説があり、実際にスルタンがカリフの地位を兼ねるのは18世紀ごろとする見解も有力である。

全盛期(16世紀)から停滞・衰退へ

領土拡張と世界史的影響 最盛期の16世紀には、西アジアから東ヨーロッパ、北アフリカの三大陸に及ぶ広大な国土を支配した。特にスレイマン1世の時代、1529年にはウィーンを包囲(第1次)し、ヨーロッパキリスト教世界に大きな脅威を与え、ルネサンス宗教改革大航海時代の世界史的背景となった。
停滞と衰退  17世紀からは大帝国の維持に苦慮するようになり、北方のロシア・オーストリア、西方のイギリス・フランス・イタリアの勢力がおよんでくるようになり、同時に帝国内の非トルコ民族のアラブ民族などの民族的自覚(アラブ民族主義運動)が芽生え、衰退期にはいる。1683年には第2次ウィーン包囲に失敗、1699年にはカルロヴィッツ条約でハンガリーを放棄し、バルカン半島で大きく後退した。18世紀にはヨーロッパ勢力によって次々と領土を奪われ、またエジプトが実質的に分離独立するなど、国力は急速に衰えるとともにオスマン帝国領を巡る列強の対立も激しくなった(東方問題)。しかもなお東方の大国として存続し、アブデュル=メジト1世による1839年のタンジマートという上からの改革も試みられ、アジア最初の憲法であるミドハト憲法が制定され、1853年のクリミア戦争ではロシアの南下は一時とどめられた。
近代化への苦悩と滅亡  しかしアブデュル=ハミト2世露土戦争(1877~8)の勃発を理由に憲法を停止し、戦争に破れたオスマン帝国は「瀕死の病人」といわれるようになった。専制政治の打破を目指す青年トルコが決起し、1908年に青年トルコ革命がおこり、立憲国家となったが、新政権は第一次世界大戦に参戦して敗れ、敗戦の混乱の中でトルコ革命ムスタファ=ケマルによって遂行され、1922年にオスマン帝国の滅亡となった。

オスマン帝国の周辺

 オスマン帝国は1453年、コンスタンティノープル陥落を攻略してビザンツ帝国を滅ぼし、ヨーロッパ世界とアジア世界にまたがるイスラーム国家として強大化した。この時から都はイスタンブルとなる。15世紀後半のオスマン帝国の拡大によって、北イタリア商人が行っていた東方貿易ができなくなり、彼らがムスリム商人を介さず直接アジアとの取引をめざし、インド航路や西廻り航路の開拓を始め、それがヨーロッパ勢力の大航海時代を出現される前提となった。またビザンツ帝国滅亡に伴い、ギリシア人学者の多くはイタリアに亡命し、ルネサンスに刺激を与えた。
 またオスマン帝国が全盛期となった16世紀のスレイマン1世(大帝)の時代はヨーロッパでは宗教改革が進展し、同時に主権国家体制の形成が進んでいた時代であった。そしてイランにはサファヴィー朝が成立、南アジア世界ではムガル帝国が登場し、東アジア世界では永楽帝の時期)の繁栄が続いていた。15世紀末にはじまった大航海時代は、ヨーロッパ勢力のアジア進出がはじまった時期であるが、アジアにおいては、オスマン帝国・サファヴィー朝・ムガル帝国・明帝国(17世紀には清帝国に代わる)という巨大な専制国家が並立していたが、いまだ西欧世界に対して優位に立っていたと言える。

(2)オスマン帝国の特徴

ヨーロッパの近代国家とは異なった国家形態をもっていた。

イスラーム教国であること

:政治権力者であるオスマン家のスルタンは同時にイスラーム教世界の統治者であり、特に1517年にマムルーク朝を倒して聖地メッカメディナの保護権を得てからは、スルタンはスンナ派の宗教的指導者としてカリフを称し、単に帝国の権力者にとどまらずイスラーム世界の中心にあると意識された。特にオスマン帝国の衰退期にはスルタンはカリフの継承者であるというスルタン=カリフ制が強調された。また帝国の統治下ではイスラーム法(シャリーア)が施行された。しかし、従来のイスラーム国家と同じく、他の宗教に対しては租税を納めるかぎりにおいてその信仰を認めるという寛容策がとられた。特にメフメト2世以降は、ギリシア正教・アルメニア教会・ユダヤ教の産教団には自治が認められたという(ミッレト制)。19世紀以降の末期となると、オスマン帝国をイスラーム信仰を核とした宗教国家として存続させるというパンイスラーム主義と、トルコ民族を中心とした世俗的な多民族国家として再生を図るというパンオスマン主義とが国家路線をめぐって対立することとなる。

激しい征服活動

イェニチェリ軍団を中核とした強力な軍事力のもと積極的な征服活動を展開してバルカン半島を支配し、さらにビザンツ帝国を滅ぼして、その後も数度にわたってウィーンを包囲するなど、隣接するキリスト教カトリック世界に対して大きな脅威を与えた。一方、東側で隣接するシーア派イスラーム教のサファヴィー朝イランとも激しく抗争した。オスマン帝国の征服活動を支えた軍事力は、初期においてはティマールという知行地を与えられたトルコ人の騎士であるシパーヒーであったが、次第に独自の常備軍制度であるイェニチェリといわれる軍団が中心となっていく。

多民族国家と「柔らかい専制」

:オスマン帝国はトルコ系民族による征服王朝であり、支配層はトルコ人であったが、その領内にはアラブ人、エジプト人、ギリシア人、スラヴ人、ユダヤ人などなど、多数の民族から形成される複合的な多民族国家であった。その広大な領土と多くの民族を統治するため、中央集権的な統治制度を作り上げたが、その支配下の民族に対しては、それぞれの宗教の信仰を認め、イスラーム教以外の宗教であるキリスト教ギリシア正教やユダヤ教、アルメニア教会派など非ムスリムにたいして改宗を強制せず、宗教的集団を基本的な統治の単位としていた(これをミッレトという)。このような、中央集権的な専制国家でありながら、支配下の民族に対して宗教的にも政治的にも一定の自治を認めていたオスマン帝国の特徴は「柔らかい専制」と言われてる。<鈴木董『オスマン帝国 -イスラム世界の柔らかい専制-』1992 講談社現代新書>

中央集権体制

 オスマン帝国はスルタンといえどもイスラーム法の規制を受ける宗教国家であり、また「柔らかい専制」と言われる他宗派、他民族への寛容な性格を持っていたが、同時に専制国家としての中央集権体制の維持、強化に努めた。スルタンの直轄地は州・県・郡に分け、州には総督、県には知事、郡にはイスラーム法官を中央から派遣した。直轄地以外にはエジプトチュニスのように現地有力者を太守(パシャ)に任命して統治させた。また黒海北岸のクリム=ハン国などのように属国として支配した地域もある。
 スルタンを補佐し、実質的な政治にあたる官僚機構の頂点にいたのが大宰相(ヴェズィラーザム)であり、形式的にはスルタンの御前会議で最高政策が決定された。官僚(書記を意味するキャーティプといわれた)は文書の管理にあたり、宮廷と国家の財政を実質的に処理した。

補足 オスマン帝国には公用語がなかった

 「公用語のない国家があると聞けば、そんなものは、お伽噺の世界にしかあり得ないと誰しもが思うことだろう。しかしそういう国が、少なくとも一つだけは、近代の世界に存在したのである。・・・オスマン・トルコ帝国には、はじめのころ、公用語と呼ぶべきものがまったくなかった。・・・オスマン・トルコ帝国の場合、特定の言語を被支配者に押しつけようという意図が、帝国崩壊にいたるまでついぞなかったのである。」イスラーム教徒にとってはアラブ語が、キリスト教徒はそれぞれギリシア語、アルメニア語、アッシリア語を宗教用語として用いていた。一方、文化教養言語としてはペルシア語が幅をきかせ、商業用語としてはギリシア語を用いるのが普通だった。ずっとあとになってスルタンの宮廷で成立したオスマンル語は、トルコ語を基礎にアラブ語とペルシア語の語彙と文法構造を織り交ぜた混成語であった。公文書はオスマンル語で書かれることになっても、宮廷外で一般民衆に強制されることはなかった。トルコ語は支配民族の言語であったにもかかわらず、「無学文盲の輩」の言葉として蔑まれ、近隣のペルシア語、アラブ語、ギリシア語からおびただしい数の語彙を借用した。帝国末期にギリシア人、ブルガリア人、ルーマニア人、セルビア人、アルバニア人などが次々と民族国家を形成していく過程で、その反動として初めてトルコ人にも民族意識が芽生える。トルコ語が書記言語として成立したのはトルコ共和国が成立した後に、アラブ文字を用いるオスマンル語にかわってラテン文字を採用してトルコ語が真の意味でトルコの公用語となった。<小島剛一『トルコのもう一つの顔』1991 中公新書 p.22-24>

(3)オスマン帝国 成立期から全盛期へ

小アジアにトルコ家部族が国家を樹立。14世紀にバルカン半島に進出し、本拠を移す。15世紀初め、ティムールに敗れて一時衰えたが、再考して、1453年にビザンツ帝国をほろぼしイスタンブルを都とする。16世紀にスレイマン1世の時に全盛期となる。

 1299年から数えれば600年以上、イスタンブルを都としてからでも約470年存続し、1922年に消滅した。14~20世紀初頭まで西アジアからバルカン半島を支配したイスラーム教国オスマン帝国のまとめその推移を世紀ごとにまとめると次のようになる。

14世紀 バルカン半島への進出

 オスマン帝国第2代オルハンはビザンツ帝国のヨハネス6世の娘を妻とし、その内紛に乗じてバルカン半島に軍団を進め、1354年に獲得したダーダネルス海峡のガリポリ(トルコ語ではゲリボル)を拠点に、バルカン内部に進出し、コンスタンティノープルのビザンツ帝国を包囲する形成となった。1361年には第3代のムラト1世アドリアノープルを攻略、1366年にはそこに新しい都エディルネを建設した。その間、異教徒の奴隷軍団を育成、後のイェニチェリ軍団のもとを創った。
コソヴォとニコポリス  バルカン半島進出に脅威を感じたセルビアやルーマニア、ブルガリアなどのキリスト教国のバルカン諸国連合軍は、1389年のコソヴォの戦いで迎え撃ったが、ムラト1世のオスマン帝国軍の前に敗れ去った。次いでハンガリーのジギスムントがヨーロッパのキリスト教国に呼びかけて十字軍が組織されたが、スルタンのバヤジット1世は1396年、ニコポリスの戦いでキリスト教連合軍を破り、その勢力をハンガリーまで広げた。
ティムールとの戦いのため後退 いよいよバヤジットの率いるオスマン軍が迫り、コンスタンティノープルは危機を迎えたが、そのとき、中央アジアを制圧したティムール帝国が小アジアまで迫ってきたため、バヤジットはコンスタンティノープル攻撃を中止し、西進してティムールと戦うこととなった。このため、コンスタンティノープルの陥落は約50年遅れることとなったといわれる。バヤジットとティムールの決戦は1402年、アンカラの戦いとして展開されたが、バヤジットは敗れ、捕虜としてサマルカンドに送られ、オスマン帝国は事実上、活動を停止せざるを得なくなった。

15世紀 バルカン半島の制圧

 ほぼ50年後、国力を回復したメフメト2世は、イエニチェリ、シパーヒーなどの軍事力を高度に組織してコンスタンティノープル攻略を再開、すいに1453年に占領し、ビザンツ帝国を滅ぼした。コンスタンティノープルはイスタンブルとしてオスマン帝国の都となり、イスラーム文化が扶植され、一変した。さらにメフメト2世はバルカン半島のほぼ全域を征服し、カフカス地方や北海北岸にも領土を拡大した。オスマン帝国によって東方キリスト教世界が征服されたことは、西ヨーロッパのキリスト教世界に大きな衝撃と影響を与え、ビザンツ帝国の滅亡の前後に、多くのギリシア人の学者はイタリアのフィレンツェに亡命したが、それによってイタリアのルネサンスに刺激を与えた。

16世紀 オスマン帝国の全盛期

セリム1世は1514年にイランから侵攻してきたサファヴィー朝軍をチャルディランの戦いで撃破し、領土を東方に拡大した。さらに1517年にはエジプトのマムルーク朝を倒して聖地メッカメディナの保護権を得、スルタンはカリフを称するようになった、とされる。
 次いでスレイマン1世の時にスルタンの専制支配は全盛期となり、1526年、モハーチの戦いハンガリー軍を破り、さらに1529年の第1次ウィーン包囲で宗教改革期のヨーロッパにとって大きな脅威を与えた。この遠征は長期化を避けて撤退したので失敗に終わったが、一方でスレイマン1世は地中海方面への進出を積極化し、1522年はロードス島を征服して、ヨハネ騎士団をクレタに追い出した。1538年にはプレヴェザの海戦の勝利で神聖ローマ帝国・ローマ教皇・ヴェネツィアの連合艦隊を破って地中海の制海権を得た。一方、東方ではサファヴィー朝と戦い領土を広げた。1534年にイラクを征服してペルシア湾からインド洋への関心を深めた。インド洋にはすでにポルトガルが進出し、1509年のディウ沖の海戦でマムルーク海軍を破り、西インドのグジャラートのディウに拠点を設けていた。1538年にオスマン海軍はポルトガルの拠点ディウを攻撃したが、これは成功しなかった。
フランス王フランソワ1世にカピチュレーションを認める また、スレイマン1世は、ヨーロッパ諸国の国際関係と深く関わり、神聖ローマ帝国のカール5世と対立していたフランスのフランソワ1世と結び、フランス商人の帝国内での居住など認めるカピチュレーションを出したとされている。これはスルタンの恩恵として出されたものであるが、オスマン帝国のヨーロッパ諸国への従属の第一歩となったものとしても注目されている。最近の研究では、カピチュレーションを出したのは次のセリム2世の時とも言われている。
レパントの海戦の敗北はオスマン帝国の衰退を意味しない スレイマン大帝の時にエーゲ海の出入り口ロードス島をオスマン海軍が抑えたの続き、その死後、セリム2世はキプロス島を占領し、東地中海を制圧した。これはヨーロッパ諸国にとって東方貿易の危機であったので、スペインのフェリペ2世はヴェネツィアとローマ教皇に働きかけて連合艦隊を編成し、1571年のレパントの海戦で激突した。このときはスペインの無敵艦隊の活躍でオスマン海軍は敗れ、地中海の制海権拡張はいったん後退した。しかし、間もなくオスマン海軍は再建され、1574年にはチュニスを征服してハフス朝を滅ぼし、アルジェリアに支配を及ぼした。このようにオスマン海軍はレパントの海戦で敗れているが、まもなく地中海制海権を回復しており、衰退に一気につながったような印象を持つとそれは間違いである。西洋中心の世界史の陥りやすい錯覚なので注意すること。

(4)オスマン帝国 衰退期から危機の始まりへ

17世紀はバルカン半島、小アジアから西アジア、北アフリカに及ぶ大帝国を維持していたが、次第に国内政治は停滞し、1683年の第2次ウィーン包囲の失敗を機に領土の縮小も始まる。18世紀からロシア、オーストリアなどによる領土侵攻を受け始める。また支配下のスラブ人、ギリシア人、アラブ人などの民族的自覚が高まり、独立運動が始まる。

17世紀 衰退期

:17世紀になると、スルタンは次第に政治の実権から離れ、宮廷出身の軍人が、大宰相(ヴェズィラーザム、スルタンの絶対的代理人とされた)として政治の実権を握るようになった。1622年、スルタンのオスマン2世はイェニチェリ軍団の改革をはかり、逆に反乱が起きて暗殺されてしまった。またスルタンの後宮(ハーレム)が政治に絡むなど、混迷が続く。領土はなお広大であったが、西方のバルカン半島でのハプスブルク家神聖ローマ帝国と東方のサファヴィー朝との戦線は膠着し、その軍備の維持のための財政も年々苦しくなっていった。1683年には宰相カラ=ムスタファの主導で、第2次ウィーン包囲が行われたが、オスマン帝国側の敗北に終わり、1699年のカルロヴィッツ条約でハンガリーを放棄したことは、オスマン帝国の後退を象徴する出来事となった。 → オスマン帝国領の縮小

18世紀 危機の始まり

:18世紀前半にはチューリップ時代という相対的に安定した時期にはフランス文化の受け入れがはかられた。しかし、隣接するドイツ、オーストリアの進出、ロシアの南下政策によってクリミア半島を失うなど、オスマン帝国の領土は蚕食されるようになった。さらに支配下のアラブ人の独立運動が始まり、アラビアで始まったイスラーム改革運動であるワッハーブ派が、独自の国家ワッハーブ王国を樹立するまでになった。オスマン帝国の内部は、古いイェニチェリの勢力が残存し、またアーヤーンと言われる地方の有力者が徴税請負権をもって富を蓄積し、分権化が進み、改革の必要が認識されるようになった。

(5)混迷から停滞へ

フランス革命と同じ時期、オスマン帝国でも改革が始まるが、保守派の抵抗もあって進まない。エジプトにムハンマド=アリー政権が自立、ギリシアの独立など帝国の支配が揺らぐ。ようやく1839年からタンジマートといわれる上からの改革に着手、南下するロシアとのクリミア戦争を英仏の支援で乗り切り、1876年にアジア最初の憲法を制定した。しかし翌年、再びロシアの南下に直面し露土戦争が始まると共に憲法は破棄され、その後はスルタン専制政治に戻ってしまう。

19世紀 改革と停滞

 フランス革命勃発と同じ時期に即位したセリム3世がまず改革に着手し、ついで1826年のマフムト2世によるイェニチェリの全廃という思い切った手が打たれた。一方、ナポレオンのエジプト遠征を機にエジプトではエジプト総督ムハンマド=アリーの政権が成立するなど、オスマン帝国領の縮小が続いた。
 さらに1821年からギリシア独立戦争がおこり、ヨーロッパ列国がオスマン帝国領内の民族独立運動に介入して東方問題といわれる列強の対立が表面化した。このような情勢のもと、エジプトのムハンマド=アリーはオスマン帝国に戦いを挑み、1831年から2次にわたるエジプト=トルコ戦争となる。この戦争では一時シリアを失ったが、列強の介入してムハンマド=アリーはシリアから退き、エジプト=スーダンの総督の地位の世襲を認められた。また、ムハンマド=アリーのエジプトが台頭することはイギリスのインド支配に障害になるところから、イギリスは1838年にトルコ=イギリス通商条約を締結して、エジプトの貿易も抑えようとした。
 こうしてオスマン帝国の領土はトルコ人の居住地区だけに縮小されていった。そのような危機に面して、オスマン帝国の中では1839年、アブデュル=メジト1世によるギュルハネ勅令に始まるタンジマートなどの近代化が模索されはじめた。
 1853年のクリミア戦争ではフランス・イギリスなどの支援でロシアの南下を食い止め、1876年にはアブデュル=ハミト2世の即位とともにアジア最初の憲法であるミドハト憲法が制定されたが、1877年にロシアが南下を再開して露土戦争が勃発すると憲法は停止され、改革は頓挫してスルタン専制政治に復帰した。

瀕死の病人

 オスマン帝国は露土戦争に敗れた結果、翌1878年のベルリン条約でルーマニアやセルビアなどのバルカン諸国の独立を認めることとなった。こうしてオスマン帝国は西欧列強から「瀕死の病人」(またはヨーロッパの病人)と見なされるようになった。対外的な失点が続いただけでなく、19世紀前半のエジプト=トルコ戦争以来、オスマン帝国はタンジマートという上からの改革を進めてきたが、スルタンを頂点とした政治や官僚制の腐敗(官職の売買や同族登用=ネポティズム)がはびこり、国力は次第に衰退しており、「瀕死の病人」の病巣は内部にあった。

(6)青年トルコ革命と第一次世界大戦

20世紀に入ってもなお命脈を保っていたが、1908年に青年トルコ革命が起こり、立憲君主制となる。しかし青年トルコ政権は軍事独裁に陥り、第一次世界大戦への参戦に踏み切る。。

青年トルコ革命と領土の縮小

 19世紀後半から続くアブデュル=ハミト2世の専制政治に対して、1908年に青年トルコ(統一と進歩委員会)による青年トルコ革命が起こって立憲君主政となった。この革命の混乱に乗じて、オーストリア=ハンガリー帝国ボスニア・ヘルツェゴヴィナ併合を強行し、またそれまでオスマン帝国内の自治国であったブルガリアが完全独立を宣言した。1911年にはイタリアがオスマン帝国領のトリポリ・キレナイカに侵攻してイタリア=トルコ戦争がおこり、セルビア・ブルガリア・ギリシアなどバルカンの諸国は1912年にバルカン同盟を結成してオスマン帝国領に侵攻し、第1次バルカン戦争と周辺諸国による侵略が続いて、オスマン帝国は領土を次々と失った。

青年トルコ政権と第一次世界大戦参戦

 このような情況の中で、1914年、エンヴェル=パシャら青年トルコはスルタンから実質的権限を奪うクーデターを敢行し、青年トルコ政権を樹立、立憲君主政・議会制を形骸化させて軍部独裁政権とした。1914年、第一次世界大戦が勃発すると、この青年トルコ政権は反ロシア、反スラム民族の立場から、ドイツ・オーストリアの同盟国側に付いて11月12日に第一次世界大戦に参戦した。それに対してイギリスは、12月19日、実質的に吟じ支配下に置いていたエジプトを完全な保護国とすることをオスマン帝国に通知した。エジプトを完全にオスマン帝国から分離し、スエズ運河を確保するのがねらいであった。
 翌15年2月、2万のオスマン帝国軍はスエズ運河の奪還を目指して進軍し、その一部は運河を越えたが、結局イギリス軍に撃退され、作戦は失敗した。

(7)オスマン帝国の滅亡

第一次世界大戦での敗北によって国家消滅の危機となる。その中で登場したケマル=パシャが外敵ギリシアを倒すなどで国民的支持を受け、1922年トルコ革命を指導して成功させ、オスマン帝国は滅亡、トルコ共和国が成立する。

第一次世界大戦の敗北と危機

 ダーダネルス海峡進出を狙うイギリス・フランス軍とはガリポリの戦いで戦い、一軍人であったムスタファ=ケマルの活躍もあって防衛に成功するなど、健闘したが、次第に他の同盟国と同じように劣勢に陥った。バルカンでは首都イスタンブルに連合軍が迫り、中東ではイギリス軍がエジプトからパレスティナに侵攻、アラブ人の反乱も拡大してオスマン軍は敗北を重ね、ついに1918年10月、スルタンのメフメト6世は密かに連合国と取引して自己の地位を保障されたかわりに、停戦に応じた。青年トルコ政府は裏切られた形となりエンヴェル=パシャはドイツに亡命し青年トルコ政権は倒れた。そのドイツも11月には降伏し、オスマン帝国を含む同盟国側は敗北した。
 しかし、西アジアでイギリス軍に支援されたアラブ軍と戦っていたムスタファ=ケマルは降伏を拒否して抵抗を続けた。翌1919年5月、イギリスの支援を受けたギリシア軍がイズミル(スミルナ)に侵攻し、ギリシア=トルコ戦争が勃発、ムスタファ=ケマルはトルコ国民軍を組織してゲリラ戦で抵抗し、20年4月にはアンカラにトルコ大国民議会を招集し、国民軍を組織して抵抗を続けた。
 一方スルタン政府が1920年8月、連合国に強要されたセーヴル条約を締結し、オスマン帝国領の分割案しイギリスとフランスの委任統治とすることを承認したことは、トルコ民族の激しい反発を呼び起こし、ムスタファ=ケマルの国民軍への期待が高まった。トルコ国民軍は1921年8月、ギリシア軍を破って形勢を逆転させた。

トルコ革命と帝国の滅亡

 1922年、ムスタファ=ケマルの指導する大国民議会は満場一致でスルタン制を廃止(帝政廃止)を可決、メフメト6世はイギリス軍艦でマルタ島に亡命し、オスマン帝国は滅亡した。
 1923年7月、改めて連合国とローザンヌ条約を締結してアナトリアの領土と主権の回復に成功、アンカラの大国民議会はトルコ共和国を宣言し、ムスタファ=ケマルを初代大統領に選出した。これによって近代トルコ国家であるトルコ共和国が成立し、同年、トルコ共和国は諸外国に認めていたカピチュレーションも廃止した。ムスタファ=ケマルは次々と内政改革を実行し、トルコ革命が進展することとなった。
 → 現在のトルコ共和国
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ノートの参照
7章3節 イ.オスマン帝国の成立と発展
第13章1節 オスマン帝国支配の動揺とアラブのめざめ
書籍案内
トルコの歴史
三橋富治男
『トルコの歴史―オスマン帝国を中心に』
1994  (精選復刻紀伊国屋新書)

鈴木董
『オスマン帝国 -イスラム世界の柔らかい専制-』
1992 講談社現代新書

小島剛一
『トルコのもう一つの顔』
1991 中公新書

林佳世子
『オスマン帝国の時代』
1997 世界史リブレット 山川出版社