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オスマン帝国

14~20世紀初頭まで存在したイスラム教スンナ派の大帝国。小アジアからバルカン半島、地中海にも進出、君主であるスルタンが教主カリフの地位を兼ねる体制をとり、イスラーム教世界の盟主として16世紀に全盛期を迎え、ヨーロッパ=キリスト教世界に大きな脅威を与えた。17世紀末からヨーロッパ諸国の侵攻、アラブ諸民族の自立などによって領土を縮小させ、次第に衰退してた。19世紀、近代化をめざす改革に失敗、第一次世界大戦でドイツと結んだが敗れ、1922年に滅亡した。

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参考 オスマン・トルコとは言わない 1990年代まで、日本ではこの国家はオスマン=トルコと言われ、教科書でもそう教えられていた。セルジューク=トルコに対するオスマン=トルコ、というふうに覚えていた人も多いと思う。しかし現在はお目にかからなくなり、専ら「オスマン帝国」とされている。オスマン=トルコと言われなくなった理由は、まず彼らがそう自称したことはないこと、またトルコ人の国家と言うには無理があり、特にバルカン半島に進出してからは多民族国家となってトルコ人が多数派だったわけではないことが認識されたためである。しかし「オスマン」という呼び方も実はようやく1876年制定の憲法に「オスマン国(デヴレティ・オスマニエ)」と明記されてからのことで、それ以前は公文書では「至高の国家(デヴレティ・アリイエ)」などと書かれていた。それはオスマン王家のことを指すので、歴史的には「オスマン朝」とするのが妥当であろう。しかし、長い歴史の中で単なる王朝の延長ではない国家機構を持つようになる。以上のことから現在では研究者の中では「オスマン帝国」が定着している。もっとも「帝国」にふさわしい国家になるのは1453年のメフメト2世の頃からであり、それ以前は「オスマン侯国」というのがふさわしい。しかし600年続いたこの国家を一言で言えば便宜的ではあるが「オスマン帝国」という呼称に落ち着く。<小笠原弘幸『オスマン帝国』2018 中公新書 p.2-7>


オスマン帝国(1) オスマン帝国の概要

初期のオスマン国家

 13世紀の小アジア(アナトリア)西部は、セルジューク朝の地方政権ルーム=セルジューク朝が支配していたが、十字軍運動の侵攻を受けて衰退、さらに東方からのモンゴルの侵入を受け、1242年その属国となった。ルーム=セルジューク朝の弱体化に伴い、小アジアにはトルコ人のイスラーム戦士の集団であるガーズィーが無数に生まれ、互いに抗争するようになった。その中で有力なものがベイ(君侯)を称し小規模な君侯国を創っていった。オスマン帝国の創始者オスマン=ベイもそのようなベイの一人であり、1299年、オスマンはガーズィを率いて小国家を独立させた。またその西のビザンツ帝国領を個々に浸食していった。第二代のオルハン=ベイはビザンツ領のブルサを奪い、1326年に最初の首都とした。小アジアの他の小さな君侯国を併合しながら、領土を拡大し、その間、イスラム法学者(ウラマー)を招いて国家の機構を整えていった。
バルカン半島に進出  小アジアの西北に起こった小勢力のオスマン国家であったが、14世紀にビザンツ帝国の分裂に乗じる形でダーダネルス海峡からバルカン半島に進出して勢力を拡大した。1361年ごろにはムラト1世アドリアノープルを攻略、1366年に新首都エディルネと改称した。さらに北上して、セルビア人ブルガリアなど現地勢力を下しながら侵攻し、ムラト1世1389年コソヴォの戦いで、バヤジット1世1396年ニコポリスの戦いでそれぞれキリスト教国連合軍を破り、いよいよコンスタンティノープルを包囲する形勢となった。
ティムールに破れた後に再興 しかし、そのころ東方からティムールが小アジアに侵入してきたため、バヤジット1世は軍を東にむけ、1402年アンカラの戦いでティムールと戦ったが敗れてしまった。このためオスマン帝国は一時衰え、ビザンツ帝国は滅亡を免れた。ティムール帝国は次ぎに矛先を東の永楽帝の時期)に向けたため、オスマン帝国は息を吹き返しメフメト2世イェニチェリ軍団などの軍隊の組織的な力を復活させて勢力を盛り返し、1453年についにコンスタンティノープルを攻略してビザンツ帝国を滅ぼしイスタンブルを都とする大帝国となった。
スルタンとカリフ オスマン帝国は、1396年のニコポリスの戦いでキリスト教軍に勝ったバヤジット1世がカイロに亡命していたアッバース朝のカリフの一族から、世俗的権力者としてスルタンの称号を贈られてから、イスラーム教スンナ派を保護する宗教国家として西アジアに大きな勢力を持つようになったとされている。ただし、実際にはバヤジットの父のムラト1世がすでにスルターンの称号を用いている。さらに1517年にマムルーク朝を倒してからはスルタンは宗教的権威者としてカリフの地位を継承したと言われていたが、実際にスルタン=カリフ制が成立したのは後の18世紀である。

全盛期(16世紀)から停滞・衰退へ

領土拡張と世界史的影響 最盛期の16世紀には、西アジアから東ヨーロッパ、北アフリカの三大陸に及ぶ広大な国土を支配した。特にスレイマン1世の時代、1529年にはウィーンを包囲(第1次)し、ヨーロッパキリスト教世界に大きな脅威を与え、ルネサンス宗教改革大航海時代の世界史的背景となった。
停滞と衰退 17世紀からは大帝国の維持に苦慮するようになり、北方のロシア・オーストリア、西方のイギリス・フランス・イタリアの勢力がおよんでくるようになり、同時に帝国内の非トルコ民族のアラブ民族などの民族的自覚(アラブ民族主義運動)が芽生え、衰退期にはいる。1683年には第2次ウィーン包囲に失敗、オーストリア軍などの反撃を受け、1699年にはカルロヴィッツ条約でハンガリーを放棄し、バルカン半島で大きく後退した。18世紀ごろには、スルタンはカリフの地位を兼ねるスルタン=カリフ制を明確にして、その権威を維持しようとした。18世紀末、ナポレオン軍がエジプトに侵入したことを契機にエジプトが総督ムハンマド=アリーのもとで実質的に分離独立させ、オスマン帝国の動揺が始まり、帝国領を巡る列強の対立も激しくなった(東方問題)。
危機と改革 産業革命と市民革命を経たヨーロッパ列強は、19世紀に入ると明確な意図でオスマン領内の民族運動に介入し、侵略を本格化させたため、オスマン帝国は次々と領土を奪われていった。1821年からのギリシア独立戦争1831年から2次にわたるエジプト=トルコ戦争がまさにその表れであり、オスマン帝国の苦悩は深くなった。ようやく帝国内部にも改革の動きが生じ、アブデュルメジト1世による1839年タンジマートという上からの改革も試みられ、1853年クリミア戦争ではロシアの南下は一時とどめられた。1876年にはアブデュルハミト2世がアジア最初の憲法であるミドハト憲法が制定されたが、翌年露土戦争が勃発したことで憲法は停止になってしまった。
近代化への苦悩と滅亡  露土戦争(1877~8)でロシアに敗れサン=ステファノ条約で大幅に国土を割かれたが、ロシアの南下を恐れるイギリス・オーストリアが介入、ベルリン会議が開催され、ベルリン条約で息を吹き返したが、アブデュルハミト2世は専制的な姿勢を強め、オスマン帝国はヨーロッパ列強から「瀕死の病人」といわれるようになった。専制政治の打破を目指す青年トルコが決起し、1908年青年トルコ革命がおこり、立憲国家となったが、新政権は第一次世界大戦に参戦して敗れ、敗戦の混乱の中でトルコ革命ムスタファ=ケマルによって遂行され、1922年にオスマン帝国の滅亡(スルタン制廃止)となった。

オスマン帝国の周辺

 オスマン帝国1453年コンスタンティノープルを攻略してビザンツ帝国を滅ぼし、ヨーロッパ世界とアジア世界にまたがるイスラーム国家として強大化した。この時から都はイスタンブルとなる。15世紀後半のオスマン帝国の拡大によって東方貿易の主導権を奪われた北イタリア商人はムスリム商人を介さず直接アジアとの取引をめざし、インド航路や西廻り航路の開拓を始め、それがヨーロッパ勢力の大航海時代を出現される前提となった。またビザンツ帝国滅亡に伴い、ギリシア人学者の多くはイタリアに亡命し、ルネサンスに刺激を与えた。
 またオスマン帝国が全盛期となった16世紀のスレイマン1世(大帝)の時代はヨーロッパでは宗教改革が進展し、同時に主権国家体制の形成が進んでいた時代であった。そしてイランにはサファヴィー朝が成立、南アジア世界ではムガル帝国が登場し、東アジア世界では永楽帝の時期)の繁栄が続いていた。15世紀末にはじまった大航海時代は、ヨーロッパ勢力のアジア進出がはじまった時期であるが、アジアにおいては、オスマン帝国・サファヴィー朝・ムガル帝国・明帝国(17世紀には清帝国に代わる)という巨大な専制国家が並立していたが、いまだ西欧世界に対して優位に立っていたと言える。

オスマン帝国(2) オスマン帝国の特徴

ヨーロッパの近代国家とは異なった国家形態をもっていた。その要点は次のようにまとめることができる。

イスラーム教国であること

 イスラーム帝国の統治下ではイスラーム法(シャリーア)が施行された。しかし、従来のイスラーム国家と同じく、他の宗教に対しては租税を納めるかぎりにおいてその信仰を認めるという寛容策がとられた。特にメフメト2世以降は、ギリシア正教・アルメニア教会・ユダヤ教の産教団には自治が認められたという(ミッレト制)。19世紀以降の末期となると、オスマン帝国をイスラーム信仰を核とした宗教国家として存続させるというパン=イスラーム主義と、トルコ民族を中心とした世俗的な多民族国家として再生を図るというパン=オスマン主義とが国家路線をめぐって対立することとなる。
参考 スルタン=カリフ制 イスラーム帝国では、政治権力者であるオスマン家のスルタンが同時にイスラーム教世界の統治者であると認識されていた。そのはじまりは、1517年マムルーク朝を倒して聖地メッカメディナの保護権を得たことをもって、スルタンはスンナ派の宗教的指導者としてカリフを称するようになった、とされていた。つまり、オスマン帝国の君主は単に帝国の権力者にとどまらずイスラーム世界の中心にあると意識されるていた。これはスルタン=カリフ制といわれる体制であるが、最近の研究では、18世紀のオスマン帝国の衰退期に、帝国の権威を強めるために創作されたことで、歴史的事実では無いことが明らかにされた。

激しい征服活動

 イェニチェリ軍団を中核とした強力な軍事力のもと積極的な征服活動を展開してバルカン半島を支配し、さらにビザンツ帝国を滅ぼして、その後も数度にわたってウィーンを包囲するなど、隣接するキリスト教カトリック世界に対して大きな脅威を与えた。一方、東側で隣接するシーア派イスラーム教のサファヴィー朝イランとも激しく抗争した。オスマン帝国の征服活動を支えた軍事力は、初期においてはティマールという知行地を与えられたトルコ人の騎士であるシパーヒーであったが、次第に独自の常備軍制度であるイェニチェリといわれる軍団が中心となっていく。

多民族国家と「柔らかい専制」

 オスマン帝国はトルコ系民族による征服王朝であり、支配層はトルコ人であったが、その領内にはアラブ人、エジプト人、ギリシア人、スラヴ人、ユダヤ人などなど、多数の民族を含む、複合的な多民族国家であった。その広大な領土と多くの民族を統治するため、中央集権的な統治制度を作り上げたが、その支配下の民族に対しては、それぞれの宗教の信仰を認め、イスラーム教以外の宗教であるキリスト教ギリシア正教やユダヤ教、アルメニア教会派など非ムスリムにたいして改宗を強制せず、宗教的集団を基本的な統治の単位としていた(これをミッレトという)。このような、中央集権的な専制国家でありながら、支配下の民族に対して宗教的にも政治的にも一定の自治を認めていたオスマン帝国の特徴は「柔らかい専制」と言われてる。<鈴木董『オスマン帝国 -イスラム世界の柔らかい専制-』1992 講談社現代新書>

中央集権体制

 オスマン帝国はスルタンといえどもイスラーム法の規制を受ける宗教国家であり、また「柔らかい専制」と言われる他宗派、他民族への寛容な性格を持っていたが、同時に専制国家としての中央集権体制の維持、強化に努めていた。スルタンの直轄地は州・県・郡に分け、州には総督、県には知事、郡にはイスラーム法官を中央から派遣した。直轄地以外にはエジプトチュニスのように現地有力者を太守(パシャ)に任命して統治させた。また黒海北岸のクリム=ハン国などのように属国として支配した地域もある。
 スルタンを補佐し、実質的な政治にあたる官僚機構の頂点にいたのが大宰相(ヴェズィラーザム)であり、形式的にはスルタンの御前会議で最高政策が決定された。官僚(書記を意味するキャーティプといわれた)は文書の管理にあたり、宮廷と国家の財政を実質的に処理した。

補足 オスマン帝国には公用語がなかった

 「公用語のない国家があると聞けば、そんなものは、お伽噺の世界にしかあり得ないと誰しもが思うことだろう。しかしそういう国が、少なくとも一つだけは、近代の世界に存在したのである。・・・オスマン・トルコ帝国には、はじめのころ、公用語と呼ぶべきものがまったくなかった。・・・オスマン・トルコ帝国の場合、特定の言語を被支配者に押しつけようという意図が、帝国崩壊にいたるまでついぞなかったのである。」イスラーム教徒にとってはアラブ語が、キリスト教徒はそれぞれギリシア語、アルメニア語、アッシリア語を宗教用語として用いていた。一方、文化教養言語としてはペルシア語が幅をきかせ、商業用語としてはギリシア語を用いるのが普通だった。ずっとあとになってスルタンの宮廷で成立したオスマン語(オスマンル)は、トルコ語を基礎にアラブ語とペルシア語の語彙と文法構造を織り交ぜた混成語であった。公文書はオスマン語で書かれることになっても、宮廷外で一般民衆に強制されることはなかった。トルコ語は支配民族の言語であったにもかかわらず、「無学文盲の輩」の言葉として蔑まれ、近隣のペルシア語、アラブ語、ギリシア語からおびただしい数の語彙を借用した。帝国末期にギリシア人、ブルガリア人、ルーマニア人、セルビア人、アルバニア人などが次々と民族国家を形成していく過程で、その反動として初めてトルコ人にも民族意識が芽生える。トルコ語が書記言語として成立したのはトルコ共和国が成立した後に、アラブ文字を用いるオスマン語にかわってラテン文字を採用してトルコ語が真の意味でトルコの公用語となった。<小島剛一『トルコのもう一つの顔』1991 中公新書 p.22-24>

オスマン帝国(3) 成立期から全盛期へ

小アジアにトルコ家部族が国家を樹立。14世紀にバルカン半島に進出し、本拠を移す。15世紀初め、ティムールに敗れて一時衰えたが、再考して、1453年にビザンツ帝国をほろぼしイスタンブルを都とする。16世紀にスレイマン1世の時に全盛期となる。

 1299年の建国から数えれば600年以上、イスタンブルを都としてからでも約470年存続し、1922年に消滅した。14~20世紀初頭まで西アジアからバルカン半島を支配したイスラーム教国オスマン帝国のまとめその推移を世紀ごとにまとめると次のようになる。

14世紀 バルカン半島への進出

 オスマン帝国第2代オルハンはビザンツ帝国のヨハネス6世の娘を妻とし、その内紛に乗じてバルカン半島に軍団を進め、1354年に獲得したダーダネルス海峡のガリポリ(トルコ語ではゲリボル)を拠点に、バルカン内部に進出し、コンスタンティノープルのビザンツ帝国を包囲する形勢となった。1361年ごろには第3代のムラト1世アドリアノープルを攻略、1366年にはそこに新しい都エディルネを建設した。その間、異教徒の奴隷軍団を育成、後のイェニチェリ軍団のもとを創った。
コソヴォとニコポリス  オスマン帝国のバルカン半島進出に脅威を感じたセルビアやルーマニア、ブルガリアなどのキリスト教国のバルカン諸国連合軍は、1389年コソヴォの戦いで迎え撃ったが、ムラト1世のオスマン帝国軍の前に敗れ去った。次いでハンガリー王ジギスムントがヨーロッパのキリスト教国に呼びかけて十字軍を組織し、1396年、オスマン勢力圏に南下したが、バヤジット1世はそれを迎え撃ち、ニコポリスの戦いで撃破した。こうしてオスマン帝国勢力圏はドナウ川流域まで及び、バヤジット1世はいよいよ標的をコンスタンティノープルに定めた。
ティムールとの戦いのため後退 いよいよバヤジットの率いるオスマン軍が迫り、コンスタンティノープルは危機を迎えたが、そのとき、中央アジアを制圧したティムール帝国が小アジアまで迫ってきたため、バヤジットはコンスタンティノープル攻撃を中止し、西進してティムールと戦うこととなった。このため、コンスタンティノープルの陥落は約50年遅れることとなったといわれる。バヤジットとティムールの決戦は1402年アンカラの戦いとして展開されたが、バヤジットは敗れ、捕虜となったためオスマン帝国は事実上、活動を停止せざるを得なくなった。この敗戦は、オスマン帝国のコンスタンティノープル征服を約50年間、遅らせたといわれている。

15世紀 バルカン半島の制圧

メフメト2世 コンスタンティノープル征服 ほぼ50年後、国力を回復したオスマン帝国のスルタンメフメト2世イェニチェリシパーヒーなどの軍事力を高度に組織してコンスタンティノープル攻略を再開、ついに1453年に占領し、ビザンツ帝国を滅ぼした。コンスタンティノープルはイスタンブルとしてオスマン帝国の都となり、イスラーム文化が扶植され、一変した。さらにメフメト2世はバルカン半島のほぼ全域を征服し、カフカス地方や北海北岸にも領土を拡大した。オスマン帝国によって東方キリスト教世界が征服されたことは、西ヨーロッパのキリスト教世界に大きな衝撃と影響を与え、ビザンツ帝国の滅亡の前後に、多くのギリシア人の学者はイタリアのフィレンツェに亡命したが、それによってイタリアのルネサンスに刺激を与えた。

16世紀 オスマン帝国の全盛期

セリム1世 セリム1世1514年にイランから侵攻してきたサファヴィー朝軍をチャルディランの戦いで撃破し、領土を東方に拡大した。さらに1517年にはエジプトのマムルーク朝を倒して聖地メッカメディナの保護権を得たとされる。
スレイマン1世 全盛期 次いでスレイマン1世の時にスルタンの専制支配は全盛期となり、1526年モハーチの戦いハンガリー軍を破り、さらに1529年第1次ウィーン包囲で宗教改革期のヨーロッパにとって大きな脅威を与えた。この遠征は長期化を避けて撤退したので失敗に終わったが、一方でスレイマン1世は地中海方面への進出を積極化し、1522年はロードス島を征服して、ヨハネ騎士団をクレタに追い出した。1538年にはプレヴェザの海戦の勝利で神聖ローマ帝国・ローマ教皇・ヴェネツィアの連合艦隊を破って地中海の制海権を得た。一方、東方ではサファヴィー朝と戦い領土を広げた。1534年にイラクを征服してペルシア湾からインド洋への関心を深めた。インド洋にはすでにポルトガルが進出し、1509年のディウ沖の海戦でマムルーク海軍を破り、西インドのグジャラートのディウに拠点を設けていた。1538年にオスマン海軍はポルトガルの拠点ディウを攻撃したが、これは成功しなかった。
フランス王フランソワ1世との関係 また、スレイマン1世は、ヨーロッパ諸国の国際関係と深く関わり、神聖ローマ帝国のカール5世と対立していたフランスのフランソワ1世と結び、フランス商人の帝国内での居住などの通商特権を認めた。これは後にオスマン帝国のスルタンが恩恵として外国に貿易特権を与えるカピチュレーションの原型となったものであり、オスマン帝国のヨーロッパ諸国への従属の第一歩ともされている。かつてはカピチュレーションはスレイマン1世の時に定められたとされていたが、現在の研究ではそれが法制化されたのは次のセリム2世の時であったことが判明している。
レパントの海戦 敗北はオスマン帝国の衰退を意味しない スレイマン大帝の時にエーゲ海の出入り口ロードス島をオスマン海軍が押さえたのに続き、その死後、セリム2世はキプロス島を占領し、東地中海を制圧した。これはヨーロッパ諸国にとって東方貿易の危機であったので、スペインのフェリペ2世はヴェネツィアとローマ教皇に働きかけて連合艦隊を編成し、1571年レパントの海戦で激突した。このときはスペインの無敵艦隊の活躍でオスマン海軍は敗れ、地中海の制海権拡張はいったん後退した。しかし、間もなくオスマン海軍は再建され、1574年にはチュニスを征服してハフス朝を滅ぼし、アルジェリアに支配を及ぼした。このようにオスマン海軍はレパントの海戦では敗れているが、まもなく地中海制海権を回復しているのであり、レパントの敗戦によって衰退に一気につながったような印象を持つとそれは間違いである。西洋中心の世界史の陥りやすい錯覚なので注意すること。

オスマン帝国(4) 衰退期から危機の始まりへ

17世紀はバルカン半島、小アジアから西アジア、北アフリカに及ぶ大帝国を維持していたが、次第に国内政治は停滞し、1683年の第2次ウィーン包囲の失敗を機に領土の縮小も始まる。18世紀からロシア、オーストリアなどによる領土侵攻を受け始める。また支配下のスラブ人、ギリシア人、アラブ人などの民族的自覚が高まり、独立運動が始まる。

17世紀 衰退期

 17世紀になると、スルタンは次第に政治の実権から離れ、宮廷出身の軍人が、大宰相(ヴェズィラーザム、スルタンの絶対的代理人とされた)として政治の実権を握るようになった。1622年、スルタンのオスマン2世はイェニチェリ軍団の改革をはかり、逆に反乱が起きて暗殺されてしまった。またスルタンの後宮(ハーレム)が政治に絡むなど、混迷が続く。バルカン半島でのハプスブルク家神聖ローマ帝国(オーストリア)が三十年戦争(1618~48年)で混乱し、オスマン帝国の進出の好機であったが、その動きはなく、東方のサファヴィー朝朝はアッバース1世全盛期を迎え、1623年にはバグダードを占領するなどオスマン帝国にとっての敵対勢力となりつつあった。アッバース1世の死後、オスマン帝国は1638年にバグダードを奪回した。
第2次ウィーン包囲の失敗 1683年、スルタンに代わって実権を握った大宰相カラ=ムスタファは、かつてスレイマン大帝が成し遂げられなかったオーストリアの都ウィーン征服を実現しようと、第2次ウィーン包囲を実行した。これはフランスのルイ14世の了解の上での軍事行動であったが、神聖ローマ皇帝レオポルト1世は一旦ウィーンを脱出し、バイエルン、ザクセン、ロートリンゲンなどドイツ諸侯、さらにポーランドなどに来援を要請して態勢を整え、その結果オスマン帝国軍はウィーンを落とすことはできず、撤退した。第2次ウィーン包囲が失敗に終わったことはヨーロッパ側のオスマン帝国領の縮小の始まりとなった。
カルロヴィッツ条約まで 第2次ウィーン包囲に失敗したオスマン帝国軍はバルカン半島を南下、それを追う神聖ローマ皇帝レオポルト1世(オーストリア皇帝)は、ローマ教皇の仲介で、ポーランドやヴェネツィア共和国、ロシアなどと神聖同盟を結成、十字軍の再来という形でオスマン帝国領に侵攻した。オスマン軍はオーストリア軍を指揮した将軍オイゲン公に激しく追撃され、1686年にはブダペストを奪われた。ヴェネツィア共和国軍はアテネのオスマン軍を攻撃、このときパルテノン宮殿が爆破された。後退を続けたオスマン帝国は、1699年カルロヴィッツ条約を神聖同盟側と締結し、ハンガリーを放棄した。ハンガリーがオーストリアに奪還されたことは、オスマン帝国の後退を象徴する出来事となった。 → オスマン帝国領の縮小

18世紀 危機の始まり

 18世紀前半のチューリップ時代という相対的に安定した時期には、フランス文化の受け入れがはかられた。しかし、隣接するドイツ、オーストリアの進出、ロシアの南下政策によってクリミア半島を失うなど、オスマン帝国の領土は蚕食されるようになった。さらに支配下のアラブ人のアラブ民族主義運動が始まり、アラビア半島に興ったイスラーム改革運動であるワッハーブ派が、独自の国家ワッハーブ王国を樹立するまでになった。オスマン帝国の内部は、古いイェニチェリの勢力が残存し、またアーヤーンと言われる地方の有力者が徴税請負権をもって富を蓄積し、分権化が進んでいたのでこれらの動きに対応できず、ようやく改革の必要が認識されるようになった。

オスマン帝国(5) 混迷から停滞へ

フランス革命と同じ時期、オスマン帝国でも改革が始まるが、保守派の抵抗もあって進まない。エジプトにムハンマド=アリー政権が自立、ギリシアの独立など帝国の支配が揺らぐ。ようやく1839年からタンジマートといわれる上からの改革に着手、南下するロシアとのクリミア戦争を英仏の支援で乗り切り、1876年にアジア最初の憲法を制定した。しかし翌年、再びロシアの南下に直面し露土戦争が始まると共に憲法は破棄され、その後はスルタン専制政治に戻ってしまう。

19世紀 改革と停滞

 フランス革命勃発と同じ時期に即位したセリム3世がまず改革に着手し、ついで1826年マフムト2世によるイェニチェリの全廃という思い切った手が打たれた。一方、ナポレオンのエジプト遠征を機にエジプトではエジプト総督ムハンマド=アリーの政権が成立するなど、オスマン帝国領の縮小が続いた。

ギリシアの独立

 さらに1821年からギリシア独立戦争がおこり、ヨーロッパ列国がオスマン帝国領内の民族独立運動に介入して東方問題といわれる列強の対立が表面化した。1827年ナヴァリノの海戦でオスマン海軍は英仏露の連合艦隊に敗れ、近代化の遅れが露呈した。1829年、オスマン帝国はロシアとのアドリアノープル条約で黒海北岸を割譲し、1830年ロンドン会議でギリシアの独立を認めた。この結果、オスマン帝国の権威は大きく低下した。
 同じ1830年年、フランス(シャルル10世)が北アフリカのアルジェリアに出兵したが、その地がオスマン帝国の宗主権下にあったにもかかわらず、スルタン政府は抗議文を出すだけで終わった。

エジプト・トルコ戦争

第1次エジプト=トルコ戦争 このような情勢のもと、オスマン帝国の一州であるエジプトでは総督ムハンマド=アリーが分離独立を目指して戦いを挑み、ギリシア独立戦争でオスマン帝国の指揮下で戦った功績を理由に、シリアの行政権を認めるよう迫った。オスマン帝国のマフムト2世が拒否したことを受け、1831年に第1次エジプト=トルコ戦争が起こった。エジプト軍はシリアを占領、オスマン帝国はロシアに支援を要請、ロシア海軍が海峡に出兵すると、イギリス・フランスはロシアの進出を警戒してオスマン帝国にエジプトのシリア支配を認めさせ、いったん停戦となった。
ロシアとの提携 このようなオスマン帝国とエジプト総督の対立は、ウィーン体制下のヨーロッパ列強にとって東方問題の亀裂を深めることとなった。オスマン帝国は英仏に不信感を強め、1833年、ロシアのニコライ1世ウンキャル=スケレッシ条約を結び、ロシア艦隊の黒海ダーダネルス=ボスフォラス海峡の航行権を認め、他国の軍艦の通行を禁止する条件でその支援を受けることとなった。
トルコ=イギリス通商条約 一方イギリスは、ロシアの南下を警戒すると共に、ムハンマド=アリーのエジプトが強大化することはインド経営に障害が生じると考え、オスマン帝国との結びつきを強化しようとして、1838年トルコ=イギリス通商条約の締結した。これは、かつてカピチュレーションでスルタンが外国商人に与えた恩恵としての通商許可を逆転させ、治外法権、最恵国待遇などオスマン帝国にとって一方的に不利な不平等条約であった。
第2次エジプト=トルコ戦争 1839年、マフムト2世はシリア奪還を目指して進出し第2次エジプト=トルコ戦争が起こった。しかし軍の近代化などに取り組んでいたエジプト軍に緒戦において大敗し、しかもマフムト2世が急死するという危機に陥った。その危機を回避するためもあってこの年、オスマン帝国はタンジマートと言われる近代化に取り組み始める(下掲)。
 列強もまた対応が分かれた。イギリスはオスマン帝国の軍事行動に危惧していたが、その敗北を受けて支援を強化、オーストリア・プロシアを誘い、エジプト軍を攻撃した。ロシアもウンキャル=スケレッシ条約に従いオスマン帝国を支援した。唯一エジプトと友好関係にあったフランスもこのときは動かず、結局ムハンマド=アリーは孤立し、講和に応じるほかはなかった。
ロンドン4ヵ国会議 1840年、フランスを除外したイギリス・オーストリア・プロイセン・ロシアの4ヵ国がロンドン会議を開催、ムハンマド=アリーのエジプトとスーダンの総督の地位を世襲することを承認したが、シリアは返還させることで合意した。
ムハンマド=アリー朝エジプトの事実上の独立 当事者であるオスマン帝国とムハンマド=アリーは参加せず、列強が調停するという東方問題の解決スタイルであったが、これによってムハンマド=アリーはシリアを失ったものの、1841年、オスマン帝国よりエジプト(及びスーダン)総督の世襲を正式に認められ、ムハンマド=アリー朝(実質的には総督就任から始まっている)を国際的に認められることとなった。オスマン帝国にしてみれば、エジプトは直接的支配は及ばない実質的な独立国となり、宗主国として関係を保つだけとなるという屈辱的なものであった。
両海峡の再封鎖 列強間はなおも海峡問題が残った。翌1841年、上記4国にフランスが加わって5国海峡協定が結ばれ、ウンキャル=スケレッシ条約は破棄され、ダーダネルス=ボスフォラス海峡は再び封鎖され、ロシアの南下は一旦抑えられることとなった。

タンジマート

 オスマン帝国では、第2次エジプト=トルコ戦争の緒戦での敗北と、マフムト2世の死去を受け、アブデュルメジト1世がスルタンに即位した。新スルタンはギリシア独立、エジプトの事実上の分離によって、帝国の領土が縮小されるという危機に直面して、政治・軍事・経済など帝国の機構の改革をはかるため、同1839年11月3日、ギュルハネ勅令を発し、タンジマートなどの近代化を模索しはじめた。

クリミア戦争

 オスマン帝国の弱体化に乗じてロシアが南下政策を強めると、フランスのナポレオン3世が介入、またイギリスもロシアの東地中海方面への進出によってインドへのルートが脅かされるので、オスマン帝国を支援し、1853年、イギリス・フランス・オスマン帝国の連合軍とロシア軍のクリミア戦争となった。この戦争ではイギリス・フランス軍がロシア軍を破り、その南下は一時、食い止められることとなった。しかし、それによってオスマン帝国はイギリス・フランスに対し重い負い目を負うことになり、両国のオスマン帝国の近代化(具体的にはキリスト教徒に対する人権の保障)要求が強まることとなった。
改革勅令 オスマン帝国はイギリス・フランスの要求に応え、帝国内の非イスラーム教徒の権利の向上を約束、1856年改革勅令を発布し、非イスラーム教徒に対しイスラーム教徒との同等の政治参加、裁判の権利、信教の自由などの権利を与えた。またその前年には非イスラーム教徒に対する人頭税(ジズヤ)を廃止している。これは長いイスラーム史上でも画期的な転換点だった。
オスマン帝国の財政破綻 アブデュルメジト1世は1861年に死去、そのあとの二代のスルタンのあいだは改革が停滞、またクリミア戦争後の外債依存による財政赤字が続き、1873年にはアナトリアで飢饉にも襲われて、ヨーロッパの恐慌(最初の大恐慌と言われた)にも巻き込まれたため、オスマン政府はついに債務不履行を宣言しなければならず、破産に陥った。
新オスマン人の登場 このような危機が進行する中で、立憲政治の導入など徹底した西欧化が必要であると考えた知識人の中に、ナームク=ケマルらを中心に「新オスマン人」といわれた改革派が現れた。彼らはオスマン政府によって弾圧され、ヨーロッパに亡命したが、外国から出版物を等して盛んに立憲主義や国民国家の宣伝を行い、その文学的活動もあって、国民のなかに憲法の必要や国民という概念が初めて理解されるようになった。彼らは新しい国家統合の理念として、オスマン帝国領内の住民は宗教や民族を越えた「オスマン人」であると自覚することをあげたので、改革勅令に見られる「オスマン主義」の潮流に沿ったものであった。

ミドハト憲法

 新スルタンアブデュルハミト2世が即位したとき、オスマン帝国は内政では財政破綻、対外的にはバルカン半島でのロシアの介入が強まるという危機を迎えていた。この危機の回避のため、オスマン帝国はイギリス・フランスの支持を引き出すため、ロシアに先んじて憲法を制定して近代国家としての体裁を整えることを選んだ。憲法制定によって西欧の世論を味方に付けることが期待された。
 この憲法制定を主導したのが、改革派官僚のトップにあった宰相ミドハト=パシャは、改革はウラマーと加えて新オスマン人のナームク=ケマルを制憲委員に加え、短期間に「オスマン帝国憲法」草案をまとめ、アブデュルハミト2世の認可を得て、1876年12月23日に公布された。これが、制定に尽力した宰相の名を冠してミドハト憲法といわれる、アジア最初の憲法である。
 それはを中心に改革派の若手官僚が作成にあたったもので、議会の開設と共に、帝国の臣民を宗教・民族の違いをなくしてすべて平等な「オスマン人」とするというオスマン主義が取り入れられるという、画期的なものだった。しかし翌年、露土戦争が勃発し情勢は一変した。

露土戦争と憲法停止

 クリミア戦争で一旦後退したロシアは、アレクサンドル2世が農奴解放などの上からの近代化を図り、国力を回復した上で、1870年代に再び南下政策を強めた。1877年、ロシアはスラヴ系民族キリスト教徒(ギリシア正教)の保護を口実にトルコに宣戦布告となった。これが露土戦争であったが、装備に劣るオスマン帝国は各地で敗れて危機に陥ると、1878年2月、アブデュルハミト2世は権力をスルタンに集中する必要があるとして、憲法113条の非常大権を行使して議会を閉鎖し、憲法を停止した。
サンステファノ条約 ロシア軍がコンスタンティノープルに迫る中、1878年3月イスタンブル近郊で講和会議を開き、サン=ステファノ条約が締結された。

ベルリン会議とベルリン条約

 オスマン帝国が大きく譲歩し、ロシアがバルカンへの進出を果たしたが、それに対して、オーストリア=ハンガリー帝国とイギリスが強く反発し、ロシアとの間に戦争となる危機が生じた。そこで、ドイツ帝国のビスマルクが調停に乗り出してベルリン会議が開催され、その結果1878年のにベルリン条約が締結された。
ベルリン条約 これは、ビスマルクの構想によってオスマン帝国を犠牲にしてヨーロッパ列強の不満を解消し平和を実現するというものであった。その要点は次のようなものである。

アブデュルハミト2世の専制政治

 アブデュルハミト2世は露土戦争の敗北が迫る中、1878年2月に議会を封鎖、憲法を停止し、すでにミドハト=パシャは国外追放(1884年に処刑)になっており、改革派官僚は一掃された。こうしてオスマン帝国の第一次立憲政治は短命に終わり、その後、アブドュルハミト2世による専制政治が30年間にわたって続く。
 アブドュルハミト2世は強大な専制権力をにぎり、スパイ網と密告で批判者を弾圧する恐怖政治を布いたが、その反面に鉄道の敷設や統治制度の整備などの近代化も進めており、最近では専制政治ではあるが近代化を進めた君主としての評価も見られる。また彼はみずからの支配を強化し、オスマン帝国の国家統合を強めて体制を再建するために、スルタンであると共にカリフを兼ねているというスルタン=カリフ制を強調し、同時にパン=イスラーム主義を採用して、民族や宗派(スンナ派、シーア派など)などの違いを越えたイスラーム教徒であることでの結束を呼びかけた。そのためにイスラーム改革運動の指導者アフガーニーをイスタンブルに招いたが、それは広い支持を集めることが出来ず、結局スルタンもアフガーニーを危険人物と見なして幽閉することとなった。
オスマン帝国は「瀕死の病人」か 露土戦争の敗北と、ベルリン条約締結の結果、オスマン帝国は大幅に領土を縮小させ、その弱体をさらしたことになり、西欧列強から「瀕死の病人」(または瀕死の重病人)と見なされるようになった。対外的な失点が続いただけでなく、19世紀前半のエジプト=トルコ戦争以来、オスマン帝国はタンジマートという上からの改革を進めてきたが、スルタンを頂点とした政治や官僚制の腐敗(官職の売買や同族登用=ネポティズム)がはびこっていた。しかし、国力は次第に衰退していたことは確かであるが、「瀕死の病人」とはヨーロッパ側がオスマン帝国を蔑んだことばであり、さすがに最近は教科書、用語集でも見かけることは少なくなった。ただ、このようなことばでヨーロッパが(さらにその影響で日本も)オスマン帝国をそのように見ていたことは知っておいて良いだろう。

参考 オスマン帝国、国家統合維持の模索

 オスマン帝国にとって最も本質的な問題は民族問題であった。全盛期にはヨーロッパから西アジア、北アフリカに及ぶ広大な領土の中に、ムスリム以外にも多くのキリスト教徒やユダヤ教徒などの異教徒、支配層としてのトルコ人以外にアラブ人、スラブ人、ギリシア人、エジプト人、アルメニア人、クルド人など多くの民族を抱えていた。オスマン帝国が衰退し、領土も縮小していく中で、これらの異教徒、他民族をどのように統合し、統一を維持していくのか、帝国が存続できるかどうかの最大の課題だった。
 19世紀の中ごろギュルハネ勅令から始まったタンジマート(恩恵改革)のころから「オスマン主義」の考え方が採られ、1856年の改革勅令、1876年のミドハト憲法ではそれが生かされて帝国領内の臣民に宗教の違いをなくして平等な権利を与えようとした。しかし、1877年の露土戦争で敗れ、ベルリン条約でバルカン半島のほぼすべてを失うと、帝国領内のキリスト教徒は激減し、逆にバルカン半島から多くのトルコ人イスラーム教徒が帝国領内に難を避けて移住した。それは「オスマン主義」の後退をもたらし、19世紀末のアブデュルハミト2世はそれに代わる国家理念として「パン=イスラーム主義」を打ち出し、スルタンがカリフを兼ねているというスルタン=カリフ制を強調して、宗教による国家統合をめざした。さらにその専制政治を批判して始まった「青年トルコ」の運動のなかから「トルコ民族主義」が明確に現れてくる。このように、オスマン帝国はその末期において、西欧風の国民国家への転身を目指す模索が、「オスマン主義」、「パン=イスラーム主義」、「トルコ民族主義(それが変形したパン=トルコ主義)」が交錯しながら進んでいくこととなる。

オスマン帝国(6) 青年トルコ革命と第一次世界大戦

20世紀に入ってもなお命脈を保っていたが、1908年に青年トルコ革命が起こり、立憲君主制となる。しかし青年トルコ政権は軍事独裁に陥り、第一次世界大戦への参戦に踏み切る。。

青年トルコ革命と領土の縮小

 19世紀後半から続くアブデュルハミト2世の専制政治に対して、1908年青年トルコ(統一と進歩委員会)による青年トルコ革命が起こってアブデュルハミト2世は退位し立憲君主政となった(スルタンは有名無実化したが形式的にはまだ存在した)。この革命の混乱に乗じて、オーストリア=ハンガリー帝国ボスニア・ヘルツェゴヴィナ併合を強行し、またそれまでオスマン帝国内の自治国であったブルガリアが完全独立を宣言した。1911年にはイタリアがオスマン帝国領のトリポリ・キレナイカに侵攻してイタリア=トルコ戦争がおこり、セルビア・ブルガリア・ギリシアなどバルカンの諸国は1912年にバルカン同盟を結成してオスマン帝国領に侵攻し、第1次バルカン戦争と周辺諸国による侵略が続いて、オスマン帝国は領土を次々と失った。

青年トルコ政権と第一次世界大戦参戦

 このような情況の中で、1914年、エンヴェル=パシャら青年トルコはスルタンから実質的権限を奪うクーデターを敢行し、青年トルコ政権を樹立、立憲君主政・議会制を形骸化させて軍部独裁政権とした。第一次世界大戦が勃発すると、この青年トルコ政権は反ロシア、反スラム民族の立場から、ドイツ・オーストリアの同盟国側に付いて1914年11月11日に第一次世界大戦に参戦した。それに対してイギリスは、12月19日、実質的に支配下に置いていたエジプトを完全な保護国とすることをオスマン帝国に通知した。エジプトを完全にオスマン帝国から分離し、スエズ運河を確保するのがねらいであった。
 翌15年2月、2万のオスマン帝国軍はスエズ運河の奪還を目指して進軍し、その一部は運河を越えたが、結局イギリス軍に撃退され、作戦は失敗した。

参考 青年トルコの国家理念

 オスマン帝国末期には、衰え、分裂に向かっていく帝国を、どのような理念でつなぎ止めておくか、について幾つかの模索がなされた。改革勅令やミドハト憲法では「オスマン主義」が標榜され、アブデュルハミト2世の専制政治のもとでは「パン=イスラーム主義」が採られた。それでは青年トルコはどのように考えたか。その初期においては「オスマン主義」を継承していたのはあきらかであるが、バルカン戦争によってヨーロッパ側のほとんどの領土を失い、40万ものムスリム難民が残されたオスマン領内に流入するという事態によって、「オスマン主義」は実態がなくなり、政権もその理念を放棄することに舵を切り、「トルコ民族主義」に転換していった。さらに1914年にクーデターで権力をにぎった青年トルコの軍人エンヴェル=パシャは「パン=トルコ主義」(あるいはトゥラニズム)の思想のもと、オスマン帝国外のトルコ民族との連携を主張した。政権のこの姿勢転換は、帝国内の非トルコ系民族、特にアラブ人やアルメニア人に対する差別を強めることになり、それがさらに第一次世界大戦中の「アラブの反乱」、「アルメニア人虐殺」という事態を生み、オスマン帝国は崩壊に向かうこととなる。 <小笠原弘幸『オスマン帝国』2018 中公新書 p.269>


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オスマン帝国(7) 帝国の滅亡

第一次世界大戦での敗北によって国家消滅の危機となる。その中で登場したケマル=パシャが外敵ギリシアを倒すなどで国民的支持を受け、1922年トルコ革命を指導して成功させ、オスマン帝国は滅亡、トルコ共和国が成立する。

第一次世界大戦の敗北と危機

 ダーダネルス海峡進出を狙うイギリス・フランス軍とはガリポリの戦いで戦い、一軍人であったムスタファ=ケマルの活躍もあって防衛に成功するなど、健闘したが、次第に他の同盟国と同じように劣勢に陥った。バルカンでは首都イスタンブルに連合軍が迫り、中東ではイギリス軍がエジプトからパレスティナに侵攻、アラブ人の反乱も拡大してオスマン軍は敗北を重ね、スルタンのメフメト6世は密かに連合国と取引して自己の地位を保障されたかわりに、ついに1918年10月30日に降伏を受け入れ、停戦に応じた。青年トルコ政府は裏切られた形となりエンヴェル=パシャはドイツに亡命し青年トルコ政権は倒れた。そのドイツも11月には降伏し、オスマン帝国を含む同盟国側は敗北した。
 しかし、西アジアでイギリス軍に支援されたアラブ軍と戦っていたムスタファ=ケマルは降伏を拒否して抵抗を続けた。翌1919年5月、イギリスの支援を受けたギリシア軍がイズミル(スミルナ)に侵攻し、ギリシア=トルコ戦争が勃発、ムスタファ=ケマルはトルコ国民軍を組織してゲリラ戦で抵抗し、20年4月にはアンカラにトルコ大国民議会を招集し、国民軍を組織して抵抗を続けた。
 一方スルタン政府が1920年8月セーヴル条約を締結し、オスマン帝国領の分割案しイギリスとフランスの委任統治とすることを承認したことは、トルコ民族の激しい反発を呼び起こし、ムスタファ=ケマルの国民軍への期待が高まった。トルコ国民軍は1921年8月、ギリシア軍を破って形勢を逆転させた。

トルコ革命と帝国の滅亡

 1922年ムスタファ=ケマルの指導する大国民議会は満場一致でスルタン制を廃止(帝政廃止)を可決、メフメト6世はイギリス軍艦でマルタ島に亡命し、オスマン帝国は滅亡した。なお、イスラーム教の宗教上の最高権威であるカリフも、1924年3月3日に廃止された。
 1923年7月、改めて連合国とローザンヌ条約を締結してアナトリアの領土と主権の回復に成功、アンカラの大国民議会はトルコ共和国を宣言し、ムスタファ=ケマルを初代大統領に選出した。これによって近代トルコ国家であるトルコ共和国が成立し、同年、トルコ共和国は諸外国に認めていたカピチュレーションも廃止した。ムスタファ=ケマルは次々と内政改革を実行し、トルコ革命が進展することとなった。
 → 現在のトルコ共和国

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