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小アジア/アナトリア

アナトリアとも言う、西アジアの西端に位置する半島。現在はトルコ共和国が支配するが、古来、ヒッタイト、ペルシア帝国、ローマ帝国、ビザンツ帝国、セルジューク朝、オスマン帝国など大国がこの地で興亡した。

アナトリア地図
小アジア/アナトリア
 世界史上、小アジアはアナトリアとも言われ、北を黒海、西をエーゲ海、南を地中海にはさまれ、東にアルメニア、メソポタミア、シリア地方につながる地域を指し、ほぼ現在のトルコ共和国のアジア側の半島部にあたる。「アジア」とは本来、ローマ時代に現在の小アジア(アナトリア)西部の属州の名前であったが、次第にヨーロッパに対して東方世界全体を意味するようになった。そのため本来のアジアを「小アジア」と言って区別するようになった。
 アナトリアは本来半島の中心部の地域名であったが、現在では半島全域をアナトリアと言うことも多い。現在はトルコ共和国の主要な国土となっており、トルコ語では「アナドル」と言っている。
注意 小アジアのトルコ化 小アジア(アナトリア)は現在のトルコ共和国であるが、トルコ人はこの地に最初からいた民族ではないことに十分注意する必要がある。アナトリアはかつてヒッタイト王国、リディア王国が存在し、ペルシア帝国、アレクサンドロス帝国、セレウコス朝、ローマ帝国の支配を受け、4世紀以降は東ローマ帝国の領土となり、次いでそれを継承したビザンツ帝国の領土として続いていた。この間、ヘレニズム期からローマ時代まではほぼギリシア文化・ローマ文化が支配的であり、ギリシア人の他、ユダヤ人も多く、キリスト教が最初に広まったのもこの地域であった。

オリエント文明の時代

 ギリシア・ローマから見て、広くオリエント世界に属し、メソポタミア文明とエーゲ文明の橋渡しをする位置にある。とくに鉄鉱石が豊かであったことから早くから鉄器を作る技術が起こっており、民族移動によって移住してきたインドヨーロッパ語族のヒッタイトが鉄器を作る技術を身につけ、前1650年頃からこの地で有力となった。彼らはオリエント世界に進出し、エジプト新王国ともあらそったが、海の民の侵攻を受けて衰退した後、小アジアはリディア王国(都はサルデス、最古の貨幣を鋳造したことで知られる国)の支配を受け、ついでアケメネス朝ペルシア帝国が東方からこの地を支配した。西側のエーゲ海岸にはギリシア人が進出して植民を建設し始め、イオニア地方のミレトスは商業が発達し、科学や哲学的な思考が始まった地としても知られる。またミレトスの南のハルカリナッソスにもカリア王国が成立、歴史家のヘロドトスの出身地として知られる。イオニア地方をめぐってペルシア帝国とギリシアのポリス連合軍の間で起こったのがペルシア戦争である。

ヘレニズムの時代

 ペルシア帝国がアレクサンドロスによって滅ぼされた後は、ディアドコイの一人、セレウコスがシリアと併せて支配し、セレウコス朝シリアとなったが、前3世紀には西端にペルガモンが独立し、ヘレニズム文化が繁栄した。小アジアには他にポントス、カッパドキアなどヘレニズム諸国が分立した。ポントス王国は、前1世紀にミトリダテス王の時に強大となり、そのころ東地中海に及んできたローマに抵抗し、前88~前64年まで、三次にわたるミトリダテス戦争を展開してローマを苦しめた。最終的にはポンペイウスの率いるローマ軍に制圧された。

ローマ時代

 前1世紀までにローマに服属し、小アジアの西部はローマの属州アシアとなり、ローマはさらに東方に進出してパルティアと争った。この間にパレスチナで起こったキリスト教が小アジアのユダヤ人に広がり、最初のキリスト教世界を形成した。紀元前後の共和政ローマ及び帝政ローマは、小アジアの東方のペルシア人国家であるパルティアとその勢力を争ったが、同時に小アジアを通る交易ルートを使って盛んに東西交易が行われた。330年にはコンスタンティヌス帝が小アジアとバルカン半島の間のボスフォラス海峡に面した、かつてのギリシア人植民市ビザンティオンに遷都してコンスタンティノープルとし、ローマ帝国の中での小アジアの比重が高まった。この地がローマに代わって新しい首都とされたのは、東西交易ルートを抑えるという意味合いもあったことが考えられる。この時代にキリスト教が公認され、さらに国教となったが、キリスト教の主要な公会議であるニケーア公会議エフェソス公会議カルケドン公会議などはいずれも小アジアの地で開かれたものである。

ビザンツ時代

 ローマ帝国の分裂後は東ローマ帝国の支配を受けることとなったが、東ローマ帝国は次第にギリシア化が進み、7世紀ごろからはビザンツ帝国と言われるようになる。ビザンツはコンスタンティノープルの古名ビザンティオンにちなんでいる。ビザンツ帝国は小アジアの東方を脅かすササン朝ペルシアと激しく争った。そのため、小アジアを通る東西交易ルートは次第に衰えていった。

小アジアのトルコ化

 この地にトルコ系民族が侵入してきたのは、中央アジアから起こって西アジアに侵入したセルジューク朝2代目スルタンのアルプ=アルスランが、1071年マンジケルトの戦い(マラズギルトの戦い)でビザンツ帝国軍を破ってからである。以後、アナトリアにはトルコ人が大規模に流入し、セルジューク朝の地方政権ルーム=セルジューク朝の支配が続いた。1242年のモンゴルの侵入を経てイル=ハン国に服属するが、13世紀後半からはベイという君侯に率いられた小国家が分立するようになる。そのようなベイの一つがオスマン=ベイであった。

オスマン帝国からトルコ共和国へ

 その後、小アジアはオスマン帝国の本拠として、20世紀まで続く。第1次世界大戦後、1922年オスマン帝国は消滅し、翌年トルコ共和国として近代化を目指す改革をケマル=アタチュルクの指導の下で進め、政教分離の原則を掲げている。小アジアはヨーロッパとアジアの接点に位置し、現在トルコのEU加盟と、それに反発するイスラーム原理主義の台頭という火種を抱えている。また東臨のアルメニアとの対立、クルド人の独立運動、西臨のギリシアとの領土紛争(キプロス紛争)も小アジア情勢の周辺に存在している。
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