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アルマダ戦争/アルマダ海戦

1588年、イギリス海軍がスペインの無敵艦隊(アルマダ)を破った海戦。スペインの衰退とイギリスの台頭の契機となった。

 スペインは、イギリスがオランダ独立戦争を支援し、さらにその私掠船がたびたびスペインの貿易船を襲撃して海賊行為を行うことに手を焼いていた。そこでフェリペ2世無敵艦隊(アルマダ)と言われていたスペイン海軍をイギリスに派遣し、イギリスを制圧することに乗りだした。無敵艦隊は船130隻、水夫8千人、兵士1万8千人に真鍮砲1500門、鉄製砲1000門を装備していた。船舶のうち正規の軍艦は28隻(ガレオン船20隻、ガレー船4隻、ガレアス船4隻)と武装した大型カラック船だった。それを迎え撃つイギリスのエリザベス1世は、王室所属の34隻(うち19隻がガレオン船)と寄せ集めの武装商船163隻(そのほとんどは海賊船)、当時の海軍力では圧倒的に不利な戦いが予想された。イギリス海軍の艦隊副司令官は海賊行為をしながら世界周航を成功させていたドレークであった。

ドーヴァー海峡での海戦

 1588年7月、ドーヴァー海峡で無敵艦隊に遭遇したイギリス海軍は、大型で小回りがきかないスペインの戦艦に対し、距離を保ちながら砲撃するという戦術を採った。無敵艦隊はそれまでの戦術の通り、敵艦に船体を寄せ、兵士が乗り移って戦うことを主眼としていたので、すばやく近寄って砲撃を加え、さっと離れていくイギリスの艦艇を補足することができず、砲撃の被害が増えるだけであった。このようにイギリス海軍は操作性に優れた艦艇と、大砲、鉄砲による銃撃を主体に戦い、予想に反して優勢に戦ったが、スペイン艦隊に決定的なダメージを与えることはできず、この海戦で沈められたスペイン艦艇は少なかった。海戦そのものは引き分けに終わったと言える。

無敵艦隊の壊滅

 スペインは別に陸上部隊を派遣し、無敵艦隊と呼応してイギリスに上陸させる作戦であったが、当時の通信技術では海軍と陸軍の連絡がうまくいかず、結局合流できなかった。そのため無敵艦隊は上陸を諦め、帰途につくことになったが、このとき南から強風が吹いていたので、イギリスを反時計回りに一周し、アイルランドの北側を抜けることとした。ところが、アイルランドの北側海域にさしかかると暴風雨に遭遇、慣れない海域でコントロールを失ったスペイン艦艇は次々と座礁したり沈没した。スペイン艦艇は30%以上が沈没し、兵士の約半数が命を落としたという。

アルマダ海戦の意義

 この一連の海戦をアルマダ戦争(海戦)というが、スペインの船舶、兵士で犠牲となったのは戦闘によってではなく多くは嵐の犠牲になったのだった。しかし、圧倒的に優勢だった無敵艦隊が、なすすべもなくその多くの艦艇を失ったことは、スペインの没落の第一歩となったのであり、同時にイギリスの海洋帝国としての覇権の始まりを意味していたといえる。(もっともスペイン海軍は全滅したわけではなく、その後再建される。)

Episode 引き上げられた無敵艦隊の沈没船

 スコットランド西岸やアイルランド西岸の海域から、スペイン無敵艦隊の沈没船は何隻も発見されている。そこからわかることは、種々雑多な船が使われていること、搭載品も千差万別、食糧用と思われる多数の壺もさまざまな地域のものが見られる。兵士の装備も不揃いで、当時は制服など支給されず、各自が自前で武器や防具を揃えたことがうかがえる。1隻あたりの兵士数も、上陸作戦を想定していたためと船を乗っ取る戦術のためにかなり多く、そのため船は重くなり操作性が悪化したと思われる。致命的なのは大砲の弾のサイズがまちまちで大砲の口径も統一されていないことだ。これでは命中精度がきわめて低かったことが考えられる。
(引用)水中考古学で沈没船を検証していくと、無敵艦隊とはどうやら名ばかりで、実は統率のとれていない寄せ集めの艦隊だったのではないかと思えてくる。
 この海戦を最後に、中世から続いた「敵艦を乗っ取る」戦法はほとんど使われなくなっていく。これ以降主流となるのは、射程の長い大砲を撃ち合う砲撃戦だ。そおで、従来のように出来合の商船にただ大砲を積み込むのではなく、大砲を搭載するのにふさわしいデザインの船が設計されていくことになる。大砲の口径などの規格も統一され、次第に統率のとれた近代海軍へと発展していくのである。<ランドール・スズキ『沈没船が教える世界史』2010 メディアファクトリー新書 p.86>
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8章4節 エ.オランダの独立とイギリスの海外進出
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ランドール・スズキ
『沈没船が教える世界史』
2010 メディアファクトリー新書