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オランダ独立戦争/八十年戦争

16~17世紀、旧教国スペインに対する北部ネーデルラントのカルヴァン派新教徒の反乱から始まり、ネーデルラント連邦共和国の独立に至った戦争。

 ネーデルラント(現在のオランダ、ベルギーなどを含む地域)はハプスブルク家の領地であったが、ハプスブルク家がオーストリアとスペイン=ハプスブルク家に分離してからスペイン領とされていた。この地は南部のフランドル地方を中心に早くから毛織物工業が発達し、商工業が盛んであったが、その利益は本国のスペインに抑えられていた。またこの地にはカルヴァン派の影響が強く、宗教的にも対立があった。ネーデルラントの新教徒に対して、フェリペ2世のスペインがカトリック信仰を強要したことから、1568年に反乱が始まり、1581年には北部ネーデルラント7州が独立を宣言した。1609年には12年間の休戦条約を結んで事実上の独立を遂げた。戦闘再開後、ドイツで起こった三十年戦争(1618~48年)ではスペインが旧教徒を支援したのに対して、オランダは新教徒を支援しそれぞれ出兵した。最終的には三十年戦争の講和条約である1648年のウェストファリア条約ネーデルラント連邦共和国として独立が国際的に承認されて終わった。1568年から数えると80年間にわたって戦われたので、八十年戦争とも言われる。
 この戦争では、15世紀末~16世紀前半のイタリア戦争で本格化した火砲(鉄砲)の使用が一般化するという軍事革命が進行した。1594年、オランダ独立連合軍の司令官マウリッツは、鉄砲を初めて組織的、集団的に使用し、スペイン軍の旧式軍に対する優位を勝ち取った。

スペインの支配と宗教対立

 ネーデルラントは中世以来、毛織物工業の盛んな商業地域であったため、16世紀に宗教改革が始まると、カルヴァン予定説が現世における利益の追求を神から与えられた使命と説いたので、カルヴァン派が多くなり、彼らはゴイセン(正しくはヘーゼン)といわれた。それにたいしてこの地を支配するスペインは、ハプスブルク家のカルロス1世(神聖ローマ皇帝カール5世)がカトリック教会の保護者として任じており、次いでフェリペ2世はネーデルラントの新教徒に対して厳しい弾圧を加えた。1566年には、下級貴族が結成した「乞食党」(ゴイセン)が聖像破壊運動などを開始、それに対してスペインの執政アルバ公による弾圧が厳しくなると、多くのカルヴァン派は海外に亡命して「海乞食」と言われるようになった。彼らは海賊活動をしながら、ゲリラ的な独立運動が展開し始めた。

独立戦争の勃発

 1568年、亡命していた指導者オラニエ公ウィレムが上陸し、彼を指導者とする本格的なスペインに対する反乱が始まった。しかしカルヴァン派が多い北部と、カトリックの勢力が残る南部との対立が次第に表面化し、スペイン側の離間工作もあって南部諸州は講和に踏み切り、北部7州のみがユトレヒト同盟を結んんだ結果、北部諸州は独立をめざすこととなった。それに対して南部諸州はアラス同盟を結成してスペインへの帰属を守った。

Episode 洪水作戦と「神の仲裁」

 「海乞食」の蜂起を知ったライデンの新教徒も蜂起し少数のスペイン人支配者を追放、カトリック教会を焼き払った。スペインの執政アルバ公はライデンに恨みをもち、大軍を差し向けた。攻防戦は熾烈を極め、4ヶ月にわたる籠城で食物が尽きた。オラニエ公ウィレムは最後の賭に出た。マース川の堤防を崩して低地地帯に洪水を起こし、スペイン軍を撤退させようというのだ。洪水作戦を決行したが思ったように水位が上がらない。そのとき、急に風向きが変わって大嵐となり、豪雨が降り出して川の水はすさまじい勢いであふれ出して低地を満たした。「海乞食」の帆船が、数日前まで畑だった場所を覆う水面を帆走して、救援に駆けつけた。スペイン軍はやむなく撤退を余儀なくされた。信心深いオランダ人はこのことを「神の仲裁」と言っている。<M.ダッシュ/明石三世訳『チューリップ・バブル』2000 文春文庫 p.88> この洪水作戦はウィレム3世が1672年にフランスのルイ14世を迎え撃ったときにも採用されている。オランダの得意戦術だったわけだ。それと、神風も日本の専売特許ではないのですね。

北部7州の独立宣言からアルマダ戦争へ

 1581年、北部7州は「ネーデルラント連邦共和国」の独立を宣言、オラニエ公ウィレムがオランダ総督の初代に就任した。しかし、スペインは独立を認めず、その後も戦闘が続いた。ところがウィレムは1584年7月、デルフトで刺客に襲われて殺害されてしまった。指導者を失った独立派は、イギリスのエリザベス1世に支援を要請、それに応えてイギリスがスペインの貿易活動を妨害したため、フェリペ2世は無敵艦隊(アルマダ)を派遣して、スペイン兵をイギリスに上陸させようとした。しかし、1588年、アルマダ戦争で敗れ海上権を失い、さらにフランスとの長期的な戦争のツケでその頃からスペイン帝国の財政破綻が明らかにとなり、戦局はオランダ独立に有利になっていった。

事実上の独立と12年の休戦

 ウィレムの次の総督となった次男のマウリッツも、北部7州を抑え英仏の支持を得て南部ネーデルラントに攻勢をかけ、ようやく1609年にスペインとの間で「十二年間休戦条約」を成立させて事実上の独立を達成した。この12年間に、オランダはカルヴァン派内の教義を巡る対立(予定説を厳格に理解するホマルス派と緩やかに解釈する寛容派アルミニウス派)があったが、1618年の宗教会議でアルミニウス派を否定して、カルヴァン派の正統教義を確立させた。

独立戦争と海外貿易

 オランダの分離独立に対して、スペインのフェリペ2世はオランダ船のリスボン・アントウェルペンへの入港を禁止するなど、経済上の圧力をかけてきていた。それによって新大陸の銀はオランダに入ってこないことになるので、オランダの商業貴族はそれに対抗するため、直接アジアとの交易をめざし、それを受けて連邦議会は1602年にオランダ東インド会社に特許状を与え、アジアとの香辛料貿易、そして銀などの資源の獲得に乗り出した。1580年にポルトガルはスペインに併合されており、その広大な海外植民地はほとんど無防備状態に陥っていたので、オランダ東インド会社の船は武装してアジア各地のポルトガル・スペインの拠点を襲撃し、海賊行為を展開した。オランダ独立戦争はアジアにおけるオランダとポルトガル・スペインの戦争へと拡大していた。1609年の休戦に対しても東インド会社は反対し、各地でポルトガルに対する略奪を続けていた。12年後に休戦が破棄されたのもポルトガル領からの略奪の利益が大きかったからだった。休戦が終わった1621年にはオランダは西インド会社を設立され、大西洋のポルトガルの権益に挑戦して、アフリカから黒人奴隷をポルトガル領ブラジルへはこび、砂糖プランテーションで働かせ、その砂糖をヨーロッパで売るという三角貿易で利益を上げていく。いずれにせよ、オランダ独立戦争の財源はその海外貿易(実態は略奪行為だが)にあった。

オランダ独立の国際的承認

 同じ1618年、ドイツで1618年に三十年戦争が始まると、ヨーロッパ全体での新教と旧教の対立の様相の中でオランダは新教側に加わり、1621年に休戦期間が終わって再び戦端が開かれた。戦闘は延々と続けられ、ようやく46年からドイツのミュンスターとオスナブリュックで交渉が開始され、この戦争を終結させた1648年のウェストファリア条約によって、オランダは国際的に独立が認知され、長い独立戦争が終わった。

オランダ独立戦争の意義

宗教戦争という側面 スペイン=ハプスブルク家による支配からのネーデルラント北部7州の独立によって、新たなネーデルラント連邦共和国が成立した。この独立は、スペインによるカトリック信仰の強制に対するカルヴァン派新教徒の信仰の自由を求める宗教戦争の一環でもあった。最後は三十年戦争の終結と同時に独立が認められ、ヨーロッパの宗教対立が決着したということができる。
共和政国家の独立という側面 なお、形の上では共和政国家が成立したものであるが、この共和政はオラニエ公という実質的な君主と州議会に結集した都市貴族層が権力を握る州の連合体が妥協して成立したものであり、市民(商工業ブルジョワジー)が政治的主権者となったものではないので、市民革命とすることはできない。
経済戦争であったという側面 またオランダの独立戦争はスペインの経済支配に対する商業貴族の不満から起こったものであり、1602年に東インド会社、1621年に西インド会社を設立したことは、当時スペインに併合されていたポルトガルから東西でその貿易利益を奪う、経済戦争であった。スペインはネーデルラント南部のフランドルは確保したものの、オランダの独立を抑えられず、そのオランダが独自に世界的な中継貿易に乗り出して、世界経済の中心がアムステルダムに移っていったことは、スペインの経済的没落をもたらした。
17世紀後半の国際情勢 その後のヨーロッパの勢力地図ではスペイン帝国の衰退は決定的になり、一方でオランダの独立達成と同じ時期にピューリタン革命を展開したイギリスが台頭し、17世紀後半はこの2つの新教国が通商国家であるという共通性があったため英蘭戦争という抗争に突入し、それに旧教国のフランスを加えた三国が複雑に絡み合いながら展開するという時代に転換する。
参考 オランダでは「オランダ独立戦争」とは言わない 1568年に始まったネーデルラントのスペインに対する反乱は、80年後の1648年にネーデルラント連邦共和国(オランダ)が国際的に独立国であることが認められて終結した。しかし、オランダ人はこの戦いを「反乱」もしくは「八十年戦争」と呼ぶが「独立戦争」とはあまりいわない。戦いは、スペイン(アルバ公)によって侵害された数々の特権を回復するためにはじめられたのであり、独立を目指すものではなかった。オランダの独立はこの反乱の過程で「やむをえざる選択と決断の結果」であって、最初からそれを目指していたわけではなかった。<『スイス・ベネルクス史』世界各国史14 1998 山川出版社 p.265-266>
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ノートの参照
8章4節 エ.オランダの独立とイギリスの海外進出