印刷 | 通常画面に戻る |

外交革命

それまで長く対立してきたフランス・ブルボン朝とオーストリア・ハプスブルク家が1756年に提携に転換したこと。共通の敵プロイセンが台頭したことが原因であった。

 オーストリア・ハプスブルク家のマリア=テレジアは、その家督相続に異議を唱えたプロイセン王国フリードリッヒ2世とのオーストリア継承戦争で敗れ、シュレジェンを奪取された。
 オーストリアとフランスの対立は、15世紀末~16世紀のイタリア戦争でのハプスブルク家・カール5世とヴァロワ朝・フランソワ1世以来2世紀半以上にわたって続けていた。フランスがブルボン朝に代わってからも、17世紀後半から18世紀初頭のブルボン朝ルイ14世の侵略戦争がハプスブルク家領を脅かしていた。このオーストリアとフランスの対立を軸に、オーストリア継承戦争ではプロイセンがフランスと結んでオーストリアを攻撃、植民地でフランスと対立していたイギリスがオーストリアを支援するという関係が成立していた。

外交革命とそのねらい

 マリア=テレジアは新たな強敵プロイセンと戦うためには、海外のイギリスとの提携よりもフランスと手を結ぶことを有利と考え、思い切って外交方針を一変させることを考えた。この外交革命を推進したのは、マリア=テレジアの信任の厚い宰相カウニッツ伯という人物で、彼はオーストリア継承戦争後に駐フランス大使として赴任し、ルイ15世の宮廷で「無冠の女王」と言われていた王の愛妾ポンパドゥール夫人を動かし、オーストリアとの同盟に踏み切らせた。
 フランスはプロイセンを支援していたが、もともとプロイセンは新教徒(ルター派)の国で宗教が違う上に、その強大化が大陸政策にとって不安材料になると考えたらしい。またオーストリアはそれまでイギリスと結んでいたが、イギリスはフランスとの植民地戦争を重視し、経済的援助のみで軍隊を送ることはなかったので不信感を強めていた。そのような事情を背景に、劇的なヨーロッパ国際政治の転換がはかられたのだった。
外交革命の立て役者 宰相カウニッツ 1753年、マリア=テレジアはカウニッツ(1711~94)を「帝国宰相」に任命した。これは首相と外相を兼ねたような新しい役職であった。カウニッツは「もしオーストリア(ハプスブルク)家が生き延びようとするならば、プロイセンを倒さなければならない」というのが口癖であった。数年にわたる忍耐強い、複雑な外交をへて、1756年、彼はとうとうフランス・オーストリア防御同盟を結ぶと共に、ロシア(エリザヴェータ女王)との同盟交渉に成功し、プロイセンの包囲を完了した。・・・・カウニッツは、当時間違いなく、屈指の政治家だった。1756年、彼がフランスと同盟したことは、ヨーロッパの伝統ともなっていた提携関係をくつがえすものであり、イギリスはその結果、ヨーロッパの力の均衡を維持するという伝統政策にしたがって、自動的にプロイセンに加担した。<リケット/青山孝徳訳『オーストリアの歴史』1995 成文社 p.61-62>

外交革命の影響

 これによって、18世紀後半のヨーロッパ国際政治の対立軸は、イギリスVSフランス、プロイセンVSオーストリアという二重対立に集約され、イギリスとプロイセン、フランスとオーストリアが同盟するという構図になった。
 外交革命によって大陸内で孤立したプロイセンのフリードリヒ2世は、形勢逆転をねらって再びオーストリアと開戦する。それが七年戦争である。
印 刷
印刷画面へ
ノートの参照
9章1節 オ.プロイセンとオーストリア