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フリードリヒ2世

18世紀後半のプロイセン国王。大王と言われた。オーストリアなどと戦い、領土拡大に成功。典型的な啓蒙専制君主であった。

プロイセン王国ホーエンツォレルン家の国王(在位1740~86年)。フリードリヒ=ウィルヘルム1世の長男。父王はプロイセンの軍国主義化を推し進め、王子フリードリヒに対しても厳格な軍人教育を施した。

Episode 父に反抗したフリードリヒ2世

 父のフリードリヒ=ウィルヘルム1世は暴力的な国王であったが、その子フリードリヒは哲学を好み、フルートを演奏する穏やかな青年だった。若い頃、父の暴力に嫌気がさし、フランスに逃れようとしたが捕らえられ、同行した友人が目の前で処刑されるというショッキングな事件もあった。
(引用)18歳を迎えた年に、皇子のフリードリヒは父親のこうした厳格な軍事教練的教育の辛さと束縛から解放されたいと願って、ある親しい友人共々国外への逃亡を試みるのです。しかし、二人はすぐに国境沿いで兵士たちに捕縛されてしまいます。激怒した国王は、直ちに国家反逆罪の容疑者として二人に軍法会議への出廷を命令します。二人には、死刑の判決が下されました。しかし、処刑日の直前、フリードリヒには国王の恩赦による死刑免除が宣告されました。ただし、友人の処刑は予定通り執行されたのです。フリードリヒは、その一部始終を獄窓から直視しなければなりませんでした。深く心を許し合った友の処刑死と悲痛きわまるその目撃は、若くて繊細な、才能に満ちあふれたこのフリードリヒを大きく変えてしまいました。この時から、彼の人生は激変し、父親の指示や命令にも従順な青年となっていくのです。<マンフレッド・マイ/小杉尅次訳『50のドラマで知るドイツの歴史』2003 ミネルヴァ書房 p.131-132>
フリードリヒ2世(右)とヴォルテール
フリードリヒ2世(右)とヴォルテール

プロイセンの大国化

 この事件後、諦観したのか、国王への道を歩み、1740年に即位した。すると父の路線を引き継ぎ、国内政策では軍隊と官僚制の整備、重商主義経済政策、いわゆる「富国強兵」を推進した。その即位直後から戦争に明け暮れ、厳しい国際関係を軍備強化路線で乗り切ることに努めたが、オーストリアとの戦争での勝利の結果、プロイセンはヨーロッパ最強の国家となり、ドイツ統一の主導権を握ることとなる。
 その一方、学問と芸術に励み、父が「兵隊王」と言われたのに対し、「哲人王」と言われた。フルートでは作曲をするほど腕を上げ、宮廷にはフランスの哲学者ヴォルテールを招き、「国家第一の僕」と称して典型的な啓蒙専制君主となった。プロイセンはフランス、イギリス、オーストリアと互角のヨーロッパの強国として認められるようになり、その全盛期がもたらされたので、「フリードリヒ大王」と言われている。

オーストリアとの抗争

オーストリア継承戦争 1740年、オーストリアのハプスブルク家の家督をマリア=テレジアが継承したことに対し、その継承を認める代償としてシュレジェンの割譲を要求した。プロイセン軍は短期間にシュレジェンを占領、ハプスブルク家の弱体化を歓迎するフランス・スペインおよびバイエルン・ザクセンなどがプロイセンを支援したため、勝利することが出来た(第1次シュレジェン戦争)。
 1744年、フリードリヒ2世は再び出兵した。それはオーストリアと防衛協定を結んでいるイギリスが出兵するのではないかと危惧し、先手を打ったのであった。イギリスは資金援助にとどまり直接出兵はしなかったので、ここでもプロイセンは勝利し、オーストリアはシュレジェンの大部分を割譲せざるを得なかった(第2次シュレジェン戦争)。
 このオーストリア継承戦争(1740~48年)は、1748年、アーヘンの和約によって講和が成立し、プロイセンはシュレジェン割譲を認めさせた。しかし、マリア=テレジアのハプスブルク家の家督相続を認め、その夫のフランツの神聖ローマ皇帝推挙を約束させられた。
七年戦争 フリードリヒ2世を「シュレジェン泥棒」と呼んで激しい憎悪を抱いたマリア=テレジアはシュレジェンの奪還をめざして、フランスとの提携に転換する外交革命を実現させ、さらにロシアとも結んでプロイセンの国際的孤立を謀った。その情勢に対してフリードリヒ2世は、先手を打ってオーストリアを攻撃し、七年戦争(1756~62年、第3次シュレジェン戦争とも云う)となった。
 この戦争ではフランス、ロシア、オーストリアとドイツ領邦の大半がオーストリア支援にまわり、プロイセンはわずかにイギリスの支援を受けるだけであったため、当初は苦戦となり、一時はベルリンも危機に陥った。しかし、フリードリヒ2世は最高司令官として果敢に指揮に当たり、1760年にロシアでフリードリヒを崇拝していたピョートル3世が皇帝となってオーストリア陣営から親プロイセンに転換し、さらに英仏植民地戦争でフランスがイギリスに敗れる情勢となったため攻勢に転じ、1763年のフベルトゥスブルク条約でシュレジェンの領有をオーストリアに認めさせるなど有利な条件で講和した。

啓蒙専制君主

 彼はフランスの啓蒙思想家ヴォルテールとも親交があり、啓蒙専制主義を採用して「君主は国家第一の僕(しもべ)」と言ったが、その本質はプロイセンのユンカー階級を基盤とした封建制の上に絶大な権力を行使した専制君主である。ベルリンの郊外ポツダムの離宮に、ロココ美術の代表的建築であるサンスーシ宮殿を建造した。
ヴォルテールとのまじわり  また学問ではヴォルテールに自ら手紙を書いて教えを請い、論文『反マキアヴェリ論』を書いて献呈した。ヴォルテールはその書を、君主の書いた最良の書として絶賛したが、その中でフリードリヒはマキャヴェリの権謀術数を否定し、君主は人民に対する第一の僕にすぎない、と論じた。1750年には自らの宮廷のあるポツダムの郊外の無憂宮(サン=スーシー)にヴォルテールを招いている。その親交は親密であったが、ヴォルテールは次第に弟子としての謙虚さと国王としての尊大さを使い分けるフリードリヒに嫌気がさすようになり、二人は些細なことからけんか別れをしてしまい、ヴォルテールはパリに帰る。
フリードリヒの開明性  啓蒙専制君主としてのフリードリヒ2世の開明性は具体的にはどのような点にみられるか。一つは、法の重視であり、国王と言えども恣意的な統治を行うのではなく、法に従った統治を行うという姿勢に現れている。もう一つは宗教的寛容であり、「わたしが元首として統治するプロイセン王国においては、そこに居住するすべての国民が、自分自身の宗教信条に基づいて生活することが許されている」と彼自身が言っている。
 また、フリードリヒ2世は、“言論の自由の保障”や司法手続きの合理化と拷問の廃止、『プロイセン一般国法典』(1794年)に結実する統一法典の編纂などを行っている。
 フリードリヒ2世は戦争の勝利だけではなく、これらの開明性によって生前から国民によって“偉大なプロイセン王”と尊敬をもって語られたのだった。ただし、国民はあくまで“臣民”であり、それぞれが“身分制秩序の中での応分の責任と義務”を遂行すべきであるというのが大前提であった。
フリードリヒ大王の世紀 哲学者カントはフリードリヒ2世の統治の晩年にあたる1784年、『啓蒙とは何か』を著し、啓蒙専制君主の役割を論じた上で、同時代のフリードリヒ2世を「啓蒙されつつある時代」の君主であるして、 次のように評価している。

(引用)現状から見て、すべての国民が宗教的な問題において他者の指導なしに、みずからの理性を確実かつ適切に行使できるか、あるいはそれに近い状態になっているかと問うてみると、まだ多くのことが欠けていると言わざるをえない。しかしその方向に向かって自由に進むための場は既に開かれているのであり、全般的な啓蒙を進めるための障害物、すなわち自ら招いた未成年状態から脱出する際の障害物が、次第に減りつつあることを示す明確な兆候がみられるのはたしかだ。こうしてみるとこの時代は啓蒙の時代であり、フリードリヒ大王の世紀なのである。<カント/木田元訳『永遠平和のために/啓蒙とは何か』2006 光文社古典新訳文庫 p.21>

Episode サンスーシ宮殿と粉やの親父

 ホーエンツォレルン家のサンスーシ宮殿の周辺に拡張工事が必要となった。その土地には製粉業を営む男の仕事場と家があった。拡張工事の邪魔になったが、粉やは立ち退きを拒否した。そこで宮殿関係者は粉やに脅しをかけ、土地を没収しようとした。この時粉やは次のように反論した。
(引用)「もちろん、国王陛下は、わたしからわたしの所有地であるこの土地や仕事場を召し上げることなぞ、いつなりと、またご随意におできになるでしょう。わたしもあえてそれに異を唱えることはいたしません。けれども、それはあくまでも、ベルリンの法廷が裁判を通してこの一件を合法的措置だと判断し許可を与えれば、の話です」
 フリードリヒ2世は粉やのこの反論を耳にするや、彼の言い分の正当性を認め、土地の強制没収の対象とせず、処罰も一切なく、家業の継続を認めた。これはフリードリヒがいかに法を尊重したかを示すエピソードとしてよく知られている。<マンフレッド・マイ/小杉尅次訳『50のドラマで知るドイツの歴史』2003 ミネルヴァ書房 p.138-139>
重商主義政策 フリードリヒ2世はまた、前代から続き、国土開発と入植政策、マニュファクチュアの育成と貿易振興などの重商主義政策を進めた。具体的には、オーストリア継承戦争の後、オーデル川流域の潅漑と開発を行い「平和裡に新しい領邦を一つ獲得した」と誇った。またオーデル川とエルベ川を結ぶ運河の開削も行われた。国家事業として行われた開発には、国外からの入植者が充てられた。<坂井榮一郎『ドイツ史10講』2003 岩波新書 p.111>

音楽家フリードリヒ

 フリードリヒ2世が青年時代から音楽に親しみ、特にフルートは玄人の域にあり、作曲も能くしたことはよく知られている。彼の作曲したフルート協奏曲は現在も演奏会でとりあげられるほど、完成度の高いものである。その一部を次できくことができる。 → フリードリヒ2世作曲のフルート協奏曲

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ノートの参照
9章1節 オ.プロイセンとオーストリア
書籍案内

カント/木田元訳
『永遠平和のために/啓蒙とは何か』
2006 光文社古典新訳文庫

マンフレッド・マイ
/小杉尅次訳
『50のドラマで知るドイツの歴史』
2003 ミネルヴァ書房