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オーストリア

ヨーロッパ中央部のドイツと同じゲルマン系国家。ハプスブルク家神聖ローマ帝国の本拠であり、首都ウィーンを中心にオーストリア=ハンガリー帝国を形成、中欧の大国の多民族国家となった。第一次世界大戦で敗北し、支配下のハンガリー、チェコなどが独立したため、領土を縮小させ共和国となる。ナチス=ドイツに併合された後、永世中立国として再出発した。

 オーストリア Austria は英語表記。ドイツ語では Österrieich (エスターライヒ)。漢字では墺太利で略称が「墺」。ヨーロッパの中央部、ドナウ川中流域にある国家。ゲルマン人のフランク王国がこの地においた辺境伯(オストマルク)に由来する国名をもち、住民はドイツ人と同じでドイツ語を話す。現在はオーストリア共和国として中欧の小国になっているが、世界史上はハプスブルク家の本拠地であったところから、神聖ローマ帝国を構成する有力諸邦の一つであり、ハンガリー、チェコ、スロヴァキア、ポーランドの一部、さらにスペイン、ネーデルラントの一部や北イタリアにも領地をもつ大国であった。バルカン半島では常にオスマン帝国に脅かされ、1529年の第1次ウィーン包囲と1683年の第2次ウィーン包囲という2度にわたる危機を脱して、17世紀末にはハンガリー全域の支配権を奪回した。この、ハプスブルク家領から発展し、ウィーンを中心としたドナウ川中流の中欧に大きな勢力を持った国をハプスブルク帝国ともいう。
 18世紀にはプロイセン、ロシアの台頭があり、新たな危機を迎えたがマリア=テレジアのもとで帝国を維持し、次のヨーゼフ2世は啓蒙専制君主として改革を模索した。しかし、フランス革命によって帝国は転換期を迎え、ナポレオン戦争に敗れて1806年に神聖ローマ帝国は消滅した。
 その後はオーストリア帝国と称し、メッテルニヒのもとウィーン体制の中心勢力の一つとなったが、領内の民族運動に押されて苦悩が続いた。1848年革命がウィーンに波及しウィーン三月革命が勃発、メッテルニヒが失脚し、さらに1866年の普墺戦争に敗れて、オーストリア=ハンガリー帝国(二重帝国)となった。一方、バルカン半島への進出はスラブ人勢力との対立を激化させ、第一次世界大戦への要因と成り、その敗北によってパプスブルク家皇帝も退位し、オーストリアは共和国となり、その領内の諸民族が独立して領地の多くを失った。またドイツとの合併は永遠に禁止されることとなった。
 ナチス=ドイツのファシズムが台頭するとその指導者ヒトラーはオーストリア出身だったのでその併合を狙い、1938年にドイツに併合された。第二次世界大戦後はドイツと同じく連合国によって分割占領された後、1955年に永世中立国として独立を承認された。東西冷戦期には東側と接するところから微妙な情勢が続いたが、東欧社会主義圏の崩壊によって1995年にはヨーロッパ共同体に加盟した。中欧の中心に位置する首都ウィーンは、ウィーン会議の開催など政治的に重要な存在であったばかりでなく、音楽をはじめとする芸術学問の中心としても西欧のパリに並ぶ存在である。
 → (1)オーストリアの形成  (2)ハプスブルク家の支配  (3)三十年戦争の時代  (4)オーストリアの大国化  (5)神聖ローマ帝国の消滅とオーストリア帝国  (6)多民族国家としての苦悩  (7)オーストリア=ハンガリー帝国  (8)バルカン問題の深刻化  (9)第一次世界大戦と共和国の成立  (10)ナチスドイツへの併合と第二次世界大戦  (11)永世中立国 オーストリア共和国

(1) オーストリアの形成

ケルト人に続きローマが進出、砦ウィンドボナ(後のウィーン)を築く。8世紀からフランク王国の辺境伯オストマルクとなりバーベンベルク家が支配。一時ベーメン王国に支配された後、ハプスブルク家が進出し、その所領となる。

 ドナウ川中流域はヨーロッパのほぼ中央に位置し、早くから(岩塩)の産地として知られ、ローマ人が進出していたが、前3世紀にはケルト人の進出が始まり、ノリクム国という国家を作った。

ローマの支配

 前2世紀後半にはローマはケルト人を追い出しこの地を再び支配するようになった。
(引用)ローマの探鉱者と政府高官は、鉄、塩、ワイン取引のかなりの部分を自分たちのために確保した。主要な交通路は二つ、東西をむすぶドナウ川と、南北を結ぶ「琥珀道路」だった。後者は、ユトランド半島からゼメリング峠をへて、ローマに達していた。北からは鯨の骨と、「海の涙」と名付けられた琥珀がもたらされ、それは南からやって来る、たとえば青銅の剣や油壺と交換された。<リケット/青山孝徳訳『オーストリアの歴史』1995 成文社 p.8>
 前102~101年、将軍ガイウス=マリウスが遠征してローマの属州としてレティア州(ティロル地方など)、ノリクム州(ザルツブルクなど)、その東のドナウ川沿岸にはブダペスト辺りまでを含むパンノニア州を置き、ローマ文明の特徴といえる浴場と道路を建設した。ローマ帝国のアウグストゥスはドナウの国境地帯に「リーメス」といわれる城壁をもつ砦を建設、その中の重要拠点がウィンドボナで、それが現在のウィーンである。この地はドナウの水運など古来から交通の要衝であったので経済の中心ともなり、ローマ帝国衰退後もゲルマン系、スラブ系、アジア系など多くの民族が行き来するところであった。

オストマルクからオーストリアへ

 8世紀末、フランク王国のカール大帝が進出してアヴァール人を撃退、当方支配の拠点として東方辺境伯オストマルクを置いた。9世紀末にはアジア系のハンガリー人が進出したが、フランク王国分裂後の東フランクのオットー1世(神聖ローマ帝国初代皇帝)がハンガリー人を破り、次のオットー2世がオストマルクを再建し、976年にバーベンベルク家のレオポルドを東方辺境伯に任命した。このバーベンベルク家のもとでドイツ人の居住する最東端の地域として定着し、オーストリアと言われるようになり、1156年神聖ローマ帝国の中の独立の公国となった。
オーストリア国旗の起源 辺境伯バーベンベルク家のレオポルト5世は、1190年に第3回十字軍に参加した。そのとき大きな働きをしたレオポルト5世は敵との激しい戦闘で返り血を浴び、服が真っ赤に染まってしまった。戦いの跡で幅広いベルトをはずすと、ベルトの部分だけが白く残っていた。そこで赤白赤の色がオーストリアの国旗や紋章となったという伝承がある。現在のオーストリア共和国でも赤白赤のを横に並べた国旗が使われている。<河野純一『ハプスブルク三都物語 ウィーン、プラハ、ブタペスト』2009 中公新書 p.10>
 このレオポルトは、第3回十字軍に参加していたイギリス王リチャード1世アッコンを占領したとき、町の防壁に掛けられていた赤、白、赤のオーストリアの旗を引きずり下ろして侮辱したことを恨んでいた。サラディンと講和してイギリスに戻ろうとしたリチャード1世は変装してオーストリアを通ろうとしたが、ウィーン近郊で見破られ、レオポルトは捕らえたリチャードをドナウ川に面するデュルンシュタイン城に閉じ込めた。後に、リチャードは神聖ローマ皇帝フリードリヒ1世のもとに移され、莫大な身代金で解放される。

(2)ハプスブルク家の支配

1278年、ハプスブルク家の神聖ローマ帝国がベーメン王オトカルを破りオーストリアに入る。それ以降、オーストリアはハプスブルク帝国の中心として続く。

ハプスブルク家領となる

 バーベンベルク家は次のフリードリヒ2世がモンゴル軍の侵入を撃退したが、1246年にマジャール人との戦いで戦死したために断絶し、ドイツと同じような空位時代を迎えた。その混乱に乗じたベーメン国王プシュミスル家のオタカル2世(オトカル)が1251年にウィーンに入りオーストリアを支配した。これに対して西方をのスイスを拠点として台頭したハプスブルク家のルドルフが1273年にドイツ王(神聖ローマ皇帝)に選出され、オタカル2世に戦いを挑み、1278年のルドルフがマイヒフェルトの戦いでオタカル2世と戦って勝利し、ハプスブルク家がオーストリアを所領とすることになった。それ以後、ハプスブルク家は1438年以降は神聖ローマ皇帝位を独占して、ドイツ諸侯をも従える立場となり、オーストリア以外にも、いわゆる婚姻政策によって、ネーデルラント、スペインなどの広大な領土を有することとなる。オーストリアの君主としては1918年まで続くこととなる。

ハプスブルク家領の東方拡張

 ハプスブルク家の婚姻政策により、神聖ローマ帝国マクシミリアン1世の前後ににはブルゴーニュ、ネーデルラントなど、さらにスペインを獲得した。次のカール5世の時にハプスブルク帝国は全盛期となったが、その内部には宗教改革の嵐が起こり、オーストリアの地では、オスマン帝国の侵攻が激しくなっており、実は危機の時代だった。カール5世は対オスマン帝国戦はもっぱら、ウィーンにいた弟フェルディナントにまかせていたが、フェルディナントは1526年にはモハーチの戦いで戦死した義理の弟ラオシュ2世に代わって、ベーメン王国(ボヘミア、チェコ)とハンガリー王の地位を継承し、ハプスブルケの領地はさらに東に拡がった。
オスマン帝国軍によるウィーン包囲 オスマン帝国スレイマン1世のもとで最盛期と成り、バル関東を北上、神聖ローマ帝国などキリスト教世界を脅かし、ハンガリーはオスマン帝国の支配することとなった。さらにスレイマン1世は1529年の第1次ウィーン包囲を行い、ウィーンは危機に陥ったが、オスマン軍が退却したため、オーストリア喪失の危機は去った。
ドナウ帝国 この16世紀以降のオーストリアを中心にボヘミア、ハンガリーを含むドナウ川中流域のハプスブルク家の支配する国家を「ドナウ帝国」ととらえる見方がある。ドナウ帝国はオスマン帝国と対峙するかたちで存在し、また17世紀以降はドイツ、フランス、ロシアと肩を並べる大国となっていく。<南塚信吾編『ドナウ・ヨーロッパ史』世界各国史19 1999 山川出版社>

(3)三十年戦争の時代

1556年、ハプスブルク家は分裂。オーストリア=ハプスブルク家は神聖ローマ皇帝位を継承。キリスト教新旧両派の宗教対立が激化し、三十年戦争がおこり、その結果、神聖ローマ帝国は事実上消滅する。

オーストリア=ハプスブルク家

 1556年、カール5世は帝位引退に際して弟のフェルディナントにオーストリア領を、子のフェリペにスペイン領を相続させた。ここにオーストリア=ハプスブルク家が成立し、神聖ローマ帝国皇帝はフェルディナント1世が継承した。この間、ハプスブルク家は広義のイタリア戦争などでフランス王家と対立を続け、北イタリアへの支配権を維持した。
三十年戦争 1618年、新たにベーメン(ボヘミア)国王となったハプスブルク家のフェルディナント(19年に神聖ローマ皇帝フェルディナント2世となる)が、ボヘミアに対してカトリックを強制したことに対する新教徒の反発からベーメンの反乱がおこった。フェルディナント2世はボヘミアの新教徒の戦いには勝利したが、続いてヨーロッパの新教国、旧教国がそれぞれ介入したために戦争は長期化し三十年戦争(1618~48年)の泥沼化に陥った。神聖ローマ帝国はカトリックの中心勢力としてヴァレンシュタインなどが活躍、新教国スウェーデンや、反ハプルブルクを掲げて参戦したフランス軍と戦ったが、長期戦の末にウェストファリア条約の締結によって終戦となった。その結果、オーストリア以外の西ヨーロッパの領土の大半を失い、領邦が主権国家として認められたためドイツに対する統治権も無くなって神聖ローマ帝国は事実上終わりを告げた。その後はハプスブルク家はオーストリア皇帝としてのみ存続する。

参考 オーストリアにとっての不運と幸運

 17世紀の危機とも言われた三十年戦争とその帰結であるウェストファリア条約は神聖ローマ帝国を事実上終わらせ、それはオーストリアが中欧の大国として世界をリードする地位から後退したことを意味していた。同時に三十年戦争はオーストリアにとっての不運と幸運の両面があったという次のような指摘がある。
(引用)さらに悪いことに、オーストリアはこの後、フランスとの絶え間ない、しかも抑止しがたい敵対を覚悟しなければならなかった。フランスは、誰とでも、たとえそえがトルコ人であっても、オーストリアを打ち負かすのに役立つのであれば、手を結ぶ用意があった。オーストリアにとって全く幸運だったのは、三十年戦争の長い混乱の間もトルコが動かなかったことである。それはトルコの上層部が政策を変えたためか、あるいはペルシャに抗して東方進出をはかることに謀殺されていたせいかもしれない。もっともありそうなことは、キリスト教徒同士の争いを軽蔑して、無関心だったせいだろう。しかし間もなく変化がおとずれるはずであった。<リケット/青山孝徳訳『オーストリアの歴史』1995 成文社 p.35>
※たしかにオスマン帝国はこの時、東方でペルシャすなわちサファヴィー朝全盛期のアッバース1世(1629年に死去)と争っており、1623年にはバグダードを占領されている。バグダードを奪回したのは1638年、ちょうど三十年戦争の時期と重なっている。また、「間もなく変化が訪れる」といっているのは、1683年のオスマン帝国によるウィーン包囲(第2次)のことである。

(4)オーストリアの大国化

東方ではオスマン帝国からハンガリーを奪い、18世紀、中欧に領土をもつ大国となる。しかし同じドイツ系のプロイセンが急成長し、中欧の主導権を巡って競合することとなる。

 三十年戦争後の17世紀後半、オーストリアはフランスとオスマン帝国という両面からの脅威が続く中、ハプスブルク家の歴代皇帝は、自ら作曲して音楽を楽しむなどの宮廷文化を謳歌した。このころザルツブルクはオーストリアには属さない、独立した領主大司教が支配し、大司教ロドロンによる大聖堂の建設など都市改造が行われた。1679年にはペストがウィーンを襲い、犠牲者はほぼ10万にのぼった。

第二次ウィーン包囲を撃退

 オスマン帝国ではスルタンの権威が衰え、実権を握った大宰相のカラ=ムスタファがかつてスレイマン大帝が成し遂げられなかったウィーン征服を自分の手で実現しようとして、1683年に第2次ウィーン包囲を実行した。オスマン帝国はフランスのルイ14世の了解を受け、オーストリアの不寛容な宗教政策に不満を持つマジャール人などの民族に働きかけて15万に及ぶ大軍を編成し、7月15日、ウィーンを包囲した。皇帝レオポルト1世はバイエルンに難を避け、ウィーンは約1万5千の兵士と志願した市民だけで防衛に当たった。オスマン軍が戦意旺盛なウィーンを攻めあぐねているうち、ポーランド王のヤン=ソビエスキとロートリンゲン公カールの率いる5万の援軍が到着、ポーランド装甲騎兵が活躍してトルコ人の騎兵を撃破し、日没までにオスマン軍は東に敗走した。

ハンガリーの奪回

 1683年のウィーンの防衛に成功したオーストリア軍はただちにオスマン軍を追撃した。ロートリンゲン公カールの指揮するオーストリア竜騎兵は次々と勝利し、1686年には150年間もオスマン帝国に支配されていたブダペストを奪還することに成功した。これらの戦闘で頭角を現したのがオイゲン公というフランス育ちの軍人であった。オイゲン公の指揮するオーストリア軍はゼンタでの決定的勝利により、1699年にカルロヴィッツ条約オスマン帝国との間で締結して、オスマン帝国からハンガリーを奪回し、さらにトランシルヴァニアスロヴェニアクロアティアを獲得しした。
 18世紀に入ってもオーストリアの領土拡張が続き、それは中欧(ドナウ地域)全域にひろがっていった。1718年のパッサロヴィッツ条約ではハンガリーの残部とワラキア、北セルビアを獲得した。 → オスマン帝国領の縮小

スペイン継承戦争

 18世紀初頭のスペイン継承戦争(1701~14年)ではオーストリア(レオポルト1世)はイギリス、オランダと同盟してフランスルイ14世と戦い、帝国軍の指揮権を握ったオイゲン公が、イギリスのマールバラとともにフランス軍を各地で破り、バイエルンを獲得し、北イタリアからフランス軍を撤退させた。しかし、オーストリアのこれ以上の強大化を望まないイギリスが同盟関係を破棄してフランスと1713年にユトレヒト条約を締結して戦線から離脱したため、オーストリアも1714年にラシュタット条約を締結し、ブルボン家のスペイン王位継承を認める代わりに、南ネーデルラント(後のベルギー王国)・ミラノナポリ王国サルデーニャ(1720年にシチリアと交換)などを手に入れた。
 このように18世紀初めには、本国のオーストリアのみならず、現在のベルギー、イタリア半島からチェコ、ポーランド、ハンガリーなどに及ぶ、ヨーロッパ大陸の西から東に点在する広大な領土を支配する大国となった。しかし、これらの領土は地理的に離れているだけでなく、多くの民族・言語・文化を含むことになったので、その統治には大きな困難が伴うこととなった。
 またスペイン継承戦争でプロイセン公国はオーストリアを支援して戦ったことによってプロイセン王国に昇格し、次第に有力となって、オーストリアの新たな脅威となっていく。
プラグマティッシェ=ザンクティオン  スペイン継承戦争のさなかに神聖ローマ皇帝となったオーストリア=ハプスブルク家カール6世には大きな悩みがあった。それは子供に女子のマリア=テレジアだけで男子後継者がおらずが断絶する恐れがあったのだ。
 そこでカール6世は1713年にプラグマティッシェ=ザンクティオン(国事詔書などともいう)を発布し、ハプスブルク家の領土の不可分と共に、もし男系が絶えた場合には女性が統治すべきであることを定めた。当時の大陸諸国の国際常識では女子の家督相続、ましてや帝位継承は認められていないかったので、カール6世はヨーロッパ主要国の承認を必要とした。それに対してイギリスは理解を示したが、フランスは拒否し、もし認める場合の見返りにロートリンゲンの割譲を要求してきた。この厳しい外交交渉を任されたオイゲン公は、イギリスとフランスの要求を入れ、女系相続の承認を得ることに成功した。
 しかし、1733年、フランスのルイ15世のポーランド王選挙への干渉に対してオーストリアが反発してポーランド継承戦争が起きると、ロレーヌ公国(神聖ローマ帝国の一部)に侵攻したフランス軍と戦ったオイゲン公のオーストリア軍が敗れ、オイゲン公はその責任をとって引退した。

オーストリア継承戦争

 1740年、カール6世が死去し、23才のマリア=テレジアが夫のロートリンゲン公フランツ=シュテファンとともにハプスブルク家領を継承した。これに対して異議を申し立てたのが、北方の新興勢力プロイセン王国フリードリッヒ2世であった。
 フリードリヒ2世はシュレジェン(当時オーストリア=ハプスブルク家領。現在のポーランド南西部)の相続権を主張し、またバイエルン公などが神聖ローマ皇帝(形の上では選帝侯による選挙で選ばれる)の地位を狙い、マリア=テレジアの相続を認められないとして反対を表明した。
 フランスはプロイセン・バイエルンに同調し、植民地でフランスと対立しているイギリスとプロイセンを警戒するロシアはオーストリアを支援した。こうして始まったオーストリア継承戦争は、ヨーロッパにおけるオーストリア=ハプスブルク家とフランス=ブルボン家の対立を軸とし、それにイギリスとフランスの植民地戦争(第2次英仏百年戦争)が絡んで広範囲な一種の世界戦争の状況となった。
 戦争は翌41年にプロイセン軍がシュレジェンの中心都市ブレスラウ(現在のヴロツラフ)を占領し、フランス軍はプラハを占領した。マリア=テレジアはハンガリー人の忠誠心に訴えて反撃し、プラハを奪還、1748年のアーヘンの和約で講和した。オーストリアはマリア=テレジアのオーストリア大公・ハンガリー王の地位と家督相続、その夫のフランツ1世の神聖ローマ皇帝選出は認められたが、シュレジェンはプロイセンの占領が続くこととなった。

外交革命と七年戦争

 マリア=テレジアは国力の挽回に努める傍ら、宰相カウニッツの努力によっていわゆる外交革命に成功、仇敵フランスと結び、プロイセンを孤立化させさた上で七年戦争(1756~63年)を戦った。戦いはオーストリア軍の優位で進んだが、ロシアがプロイセン支持に転じたことと、植民地で戦っていたフランスとイギリスのフレンチ=インディアン戦争がイギリス優位になったことで終息に向かった。イギリス・フランスはパリ条約で講和し、オーストリアも同年のフベルトゥスブルク条約でプロイセンのシュレジェン領有を承認した。
 マリア=テレジアはその後もフランスとの提携を続け、1770年には娘マリ=アントワネットをフランスの王子ルイ(後のルイ16世)に嫁がせ、両国の提携の強化を図った。

ヨーゼフ2世の啓蒙専制政治

 七年戦争で領土回復はできなかったもののヨーロッパにおける強国としての立場を維持し、領土拡張を開始した。次のヨーゼフ2世は啓蒙専制君主政治を行って上からの改革に努め、1781年に宗教寛容令農奴解放令などを発布したが、改革は不十分なまま終わった。1772年にはロシア、プロイセンとともに第1回ポーランド分割に参加し、ガリツィア地方に領土を拡張した。しかし、多国籍国家という最大の問題はハンガリーやチェコの民族運動が活発になることによってより深刻になっていった。

(5)神聖ローマ帝国の消滅とオーストリア帝国

19世紀のオーストリアは、フランス革命・ナポレオン戦争に巻き込まれ、啓蒙専制君主政治が行き詰まり、多民族国家として困難続く。

フランス革命とオーストリア

 フランス革命が起きるとレオポルト2世(マリ=アントワネットの兄)はピルニッツ宣言を発してフランス王権の復活を策したが失敗した。1792年4月、フランスのジロンド派政府は対オーストリア開戦に踏み切り、オーストリアはプロイセンと同盟してフランスに侵攻したが、1792年9月、ヴァルミーの戦いでプロイセン軍が敗れ、干渉は失敗した。

ナポレオン戦争

 その後フランス革命が進行し、ジャコバン独裁政権の下で徴兵制が敷かれて国民軍が形成され、フランス軍を率いたナポレオンイタリア遠征を敢行すると、フランツ2世のオーストリア軍は敗北し、1797年にカンポ=フェルミオの和約で南ネーデルラント、ロンバルジアなどを放棄、その代わりにヴェネツィアを獲得して終わった。  一方、同時期の1793年には第2回ポーランド分割が行われたが、オーストリアはフランスとの交戦していたため参加せず、1795年の第3回分割には加わった。そのためポーランドは消滅することとなった。
 その後、ナポレオンはナポレオン戦争といわれる征服戦争を展開するが、断続してナポレオンに対する抵抗を続けていたオーストリアのフランツ2世は、ロシアのアレクサンドル1世らと同盟して、1805年のアウステルリッツの戦いに臨んだが、全面的な敗北を喫し、プレスブルクの和約で北イタリアのすべての権益を放棄、さらにバイエルンにティロルとフォアアルルベルクを割譲した。

神聖ローマ帝国の消滅

 ナポレオンはドイツ諸侯を支配下に収めてライン同盟を結成したため、1806年に神聖ローマ帝国は消滅した。ハプスブルク家のフランツ2世は神聖ローマ皇帝の地位を失い、これ以後はオーストリア帝国の皇帝として「オーストリア皇帝」の地位のみを維持しすることとなった。
ティロルの反乱 オーストリアの中でその後もナポレオンに激しく抵抗した地域があった。それはバイエルンに併合されたティロル(チロル)だった。ナポレオンの権威をかさに、圧政を加えるバイエルン政府に対し、もともとオーストリア皇帝への忠誠心の強いティロルの山岳民が反発し、アンドレアス=ホーファという宿屋の主人兼家畜商がリーダーとなって蜂起した。彼らは山岳でのゲリラ戦を展開、1809年にはフランス・バイエルン連合軍をついにティロルから追い出すという勝利をあげた。ナポレオンは自らオーストリアに進軍してウィーンを占領、1809年、ワグラムの戦いでオーストリア正規軍を破ると、皇帝はティロル救援を行わずに和睦に応じたためティロルは孤立した。ホーファは皇帝に再決起を促したが容れられず、ナポレオンが派遣した将軍ルフェーブルはティロル中心都市のインスブルックを占領した。ティロルの民衆は山岳によってなおも抵抗したが、1810年「最高司令官」ホーファが隠れ家にいるところをフランスへに見つかって殺害され、ティロルの反乱も終わりを告げた。毛むくじゃらの大男アンドレアス=ホーファは現在でもティロルの英雄として人気が高い。<リケット/青山孝徳訳『オーストリアの歴史』1995 成文社 p.71-79>
 ティロルはその後、ナポレオンによって三分割され、北ティロルはバイエルンに、南ティロルはイタリアに、東ティロルはリエカやトリエステと共に新たに作られたイリリア王国にそれぞれ編入された。
メッテルニヒの外交 ナポレオン帝国に従属した形となったオーストリアの皇帝フランツ2世はメッテルニヒを大使としてパリに送り、ナポレオン懐柔に当たらせた。メッテルニヒはフランスの外交官タレーランと連絡を取りながらナポレオンの望むものを考えた。1809年、帝国外相に任命されると、皇帝フランツを説得してその娘マリー=ルイーズを、ちょうどジョセフィーヌと離婚したばかりのナポレオンと結婚させることに成功した。
 ナポレオンがモスクワ遠征に踏み切ると、メッテルニヒは表面的にはそれに協力するふりをしながら、ナポレオンに休戦を説き、ロシア、プロイセンの和平の仲介を申し出た。ナポレオンが和平を拒否したので、メッテルニヒはロシア・プロイセンと同盟することを決意し、フランスに宣戦した。こうして1813年、オーストリアのシュヴァルツェンベルク公を最高司令官、ラデツキを参謀長とする反仏同盟軍がライプツィヒの戦いの戦いでナポレオン軍を破り、ナポレオンの支配が終わりを告げることとなる。

ウィーン体制の成立

 ナポレオンのエルバ島流刑の後、1814年9月からオーストリアの首都ウィーンで、外相メッテルニヒが主催してウィーン会議が始まった。会議は、ザクセンを狙うプロイセンと、ポーランドを狙うロシアの意図をめぐってまとまらず、時間がかかったが、ナポレオンのエルバ島脱出の報を受けて急速にまとまり、翌15年6月、ウィーン議定書が成立した。
 フランスやスペインなどでは王政が復活したが、神聖ローマ帝国は復活することなく、ドイツ人の諸国・都市は新たにドイツ連邦を構成することとなった。オーストリアは連邦議会(国民の選挙によるものではなく連邦国の公使会議)の恒常的議長の地位についた。
 さらにオーストリアはネーデルラント、ポーランドなどの所領を放棄し、その代償としてヴェネツィアロンバルディアを併せ、ロンバルト=ヴェネト王国として支配することが認められ、北イタリアの支配権を獲得した。
宰相メッテルニヒ フランス革命前の絶対王政国家による秩序を復活させた反動体制であるウィーン体制が成立し、オーストリアはその中心的存在となった。宰相となったメッテルニヒが国際政治をリードし、ロシアと共に保守勢力の要の存在となった。そのもとで、ヨーロッパ全土での自由主義ナショナリズムは厳しく弾圧される、反動の時代となった。
 1821年からオスマン帝国からの独立を目指すギリシア独立戦争が起こると、イギリス・フランス・ロシアはそれを支援したが、メッテルニヒのオーストリアは領内の自由主義・民族主義に影響を及ぼすことを恐れ、ギリシアを支援しなかった。

参考 ビーダーマイアの文化

 「メッテルニヒの時代」(1814~48、つまりウィーン体制の時代)のオーストリアの文化は「ビーダーマイア」といわれる。ビーダーマイア Biedermeier とはアイヒロートという詩人のパロディ作品の主人公の名前で、非政治的で質素な小市民生活を送る人物のこと。このころ増大した中産階級はメッテルニヒの警察国家のもとで政治に関与することが許されず、もっぱらもてあました時間を家と家族に振り向けるようになった。彼らはマリア=テレジア時代の「バロックの過剰とロココの華麗」(その象徴がウィーンのシェーンブルン宮殿)に反発し、家庭的な単純さとつつましさを求めるようになった。まず絵画や家具に質素で実用的なもの、純朴な芸術作品が生まれるようになり、中産階級の「快適さと品位のある、居心地の良い居間」という生活様式に合致した文化をビーダーマイア文化といわれるようになった。
 ビーダーマイア文化の一つの表れが「家庭音楽」、つまり家で音楽を演奏することであった。シューベルト(1797~1828)の音楽はそのような家庭の集まりで演奏された。音楽と演劇は、人びとの心を政治から遠ざけ、「危険思想」からそらすために政府によって奨励された。ヨハン=シュトラウス(父 1804~1849)らのワルツに併せて踊ることで、「政治で頭を悩まそうという気持ちをみせなかった」中産階級は、「体制側」の望むところであった。<リケット/青山孝徳訳『オーストリアの歴史』1995 成文社 p.89-90>

(6)多民族国家としての苦悩

19世紀前半、ウィーン体制の保守反動体制の中心として存在したが、ドイツ人の国民国家形成の動きと多民族国家維持との間で帝国は大きく揺らいだ。

ウィーン体制の動揺

 しかし、ウィーン体制下で自由主義ナショナリズムの運動が盛り上がり、ドイツ圏ではブルシェンシャフトの蜂起、オーストリア支配下の北イタリアではカルボナリの反乱が起こった。1830年のフランスの七月革命の影響を受け、ポーランドの反乱ドイツの反乱イタリアの反乱が相次いだが、メッテルニヒ政府はこれらの運動を、「ヨーロッパの憲兵」ロシアの軍事力に助けられながら弾圧し、帝国を維持していた。

1848年 ウィーン三月革命

 しかし、フランスの二月革命に始まる1848年革命がウィーンにも及び、3月、メッテルニヒの警察国家打倒を叫ぶ市民が蜂起してウィーン三月革命が勃発した。メッテルニヒはウィーンを脱出し、ロンドンに亡命して失脚した。代わって自由主義的な「三月内閣」が作られ、憲法の制定を約束、農民の解放などの改革も実施された。

諸国民の春

 フランスの二月革命はオーストリアの支配下にあった諸民族の民族運動にも火をつけ、諸国民の春と言われる民族蜂起が相次いだ。ウィーンの三月革命と並行して、まずハンガリー(マジャール人)ではコシュートに指導されたハンガリーの民族運動が活発になり、独立宣言を発した。さらにベーメン(チェコ人)でもプラハ市民が決起して自治要求を掲げ仮政府を成立した。イタリアのロンバルディアにおいてもミラノ蜂起で共和政が宣言され、ヴェネツィアでも蜂起があった。

オーストリアの反動化

 しかし、パリの六月暴動が臨時政府によって鎮圧されたことから、革命運動・民族独立運動は後退期に入った。その背景にはこの年2月にマルクスエンゲルス共産党宣言を発表、民族運動と社会改革運動が結びついて、君主制を倒し共和制をめざす動きが出始めたこと対する保守勢力の危機感の高まりがあった。
 6月、プラハでパラツキーらがスラヴ民族会議を開催し、スラブ民族の連帯を図ったが、オーストリア軍によって弾圧され、ベーメン民族運動は衰退を余儀なくされた。8月にはラデツキー将軍が指揮するオーストリア軍が北イタリアのロンバルディア独立を支援するサルデーニャ王国軍を破り、オーストリアは北イタリア支配の態勢を立て直した。このときラデツキー将軍をたたえてヨハン=シュトラウス(父)が作曲した行進曲が今もよく演奏されるラデツキー行進曲である。
 ハンガリーでは、オーストリアは多数派であるハンガリー人(マジャール人)に不満を持つ少数民族のクロアティア人を動員してハンガリー独立運動鎮圧を図った。さらに「ヨーロッパの憲兵」といわれて民族主義抑圧の力となっていたロシアに援軍を要請、翌49年までブダベストのコシュートらの独立政権を崩壊に追いやった。10月にハンガリーへの軍隊派遣に反対して再び起こされたウィーンの民衆蜂起も、ロシア軍の手で鎮圧された。

フランクフルト国民議会

 三月革命を受けて、オーストリアを含めてたドイツ人の国民国家を建設する声が強まり、同年5月にフランクフルト国民議会が開催された。オーストリア代表と共にプロイセン王国も参加し、ドイツ人の国家統一と全ドイツ憲法の制定が話し合われ、国民の基本的権利を確立させる一方、国家形態は共和政ではなく立憲君主政が志向された。
 しかしドイツ統一問題では、大きな対立が生じた。ドイツ人居住地をドイツ国家とした場合、チェコやハンガリーは含まれなくなる。ところがオーストリア帝国はドイツ人居住地だけでなく、チェコ・ハンガリーさらに北イタリアやポーランドの一部を支配している。オーストリアはすべてのドイツ人居住地をドイツ国家とすべきであるという大ドイツ主義をとったが、それは必然的にオーストリア帝国を分解させることになる。

ドイツ国民国家からの離脱

 フランクフルト国民議会では「大ドイツ主義」が優勢であったが、こうしてオーストリア自身がそれを拒否したことによって、オーストリアのドイツ人居住地を除いたドイツ国家とという小ドイツ主義が現実的な案として出てきた。ドイツ国家からオーストリアを除外すればプロイセン王国が中心になることが予測された。議論は年を越して継続したが、49年3月、オーストリア帝国憲法が制定され、帝国の不分割が改めて規定されて大ドイツ主義を否定したため、フランクフルト国民議会は小ドイツ主義を結論とし、オーストリアを含まない「ドイツ帝国憲法案」を作成した。この憲法案ではプロイセン国王をドイツ皇帝に予定していたが、肝腎のフリードリヒ=ヴィルヘルム4世がそれを辞退した。「議会の恩恵による帝位」につくことを拒否したのである。こうしてドイツ統一憲法は宙に浮き、国民議会も為す術無く解散し、結局ドイツ統一を果たすことができずに失敗に終わった。

新絶対主義

 北イタリア、ハンガリー、ボヘミアの「諸国民の春」と言われた民族蜂起を弾圧して乗りきったオーストリア、ハプスブルク帝国は、その1848年10月、新しい皇帝としてわずか18歳のフランツ=ヨーゼフ1世が即位した。そのもとで立憲制や議会制は棚上げして、多民族国家オーストリア帝国としての一体性を維持した「新絶対主義」とも呼ばれる抑圧体制をとった。しかし、かつてのような強権的支配は不可能であっので、各民族の経済活動には一定の自由を認める方針を打ち出した。特にベーメン(ボヘミア=チェコ西部)はすでに帝国内で最も進んだ工業力を有していたので、繊維工業や鉄工業、機械工業がさらに盛んになった。

多民族国家としての弱点

 オーストリア=ハンガリー帝国のハプスブルク家支配の最大の問題は、この国が巨大ではあるが多民族国家であるという点であった。オーストリアはドイツ人(ゲルマン民族)であるが、ハンガリーはマジャール人であり、またその領内にチェコ人、クロアチア人など多数のスラヴ系民族を含み、また北イタリアはイタリア系住民の地域であった。

(7)オーストリア=ハンガリー帝国

19世紀後半、普墺戦争に敗れ、ハンガリーの自治を承認、オーストリア=ハンガリー帝国(二重帝国)となる。

 19世紀後半に中欧に大きな勢力を持っていたハプスブルク家のオーストリアフランツ=ヨーゼフ1世の長い統治が続くなか、ドイツ統一を巡るプロイセン王国との主導権争いで、大ドイツ主義が宙に浮いたために後退し、軸足をドイツよりもハンガリー、チェコなど中欧支配に向けるようになった。また、バルカン半島へのパン=スラヴ主義を採るロシアの進出に神経をとがらすようになった。
 1853年にクリミア戦争が起こると、フランス、イギリス、サルデーニャがオスマン帝国を支援するなか、ロシアの支援要求をことわり、オーストリアは中立政策をとった。フランスのナポレオン3世の革新姿勢に反発していたが、ロシアの強大化も警戒していたからであった。このことは両国関係の悪化の出発点となった。

イタリアでの後退

 オーストリア支配下の北イタリアでは独立と統一を求めるリソルジメント(イタリア統一運動)も続いており、1859年からサルデーニャ王国の首相カヴールがフランスのナポレオン3世と結んでオーストリア支配下のロンバルディアに攻め入り、イタリア統一戦争が始まった。ソルフェリーノの戦い(1859年6月)には死傷者約4万に上るという大敗北を喫したが、ナポレオン3世が途中で単独講和ヴィラフランカの和約に応じ、ロンバルディアを失ったがヴェネツィアなどを確保して終わった。イタリアでは翌1861年、ガリヴァルディが征服した南イタリアをサルデーニャ王に献上することによってイタリア王国が成立した。イタリア王国はオーストリア支配下に残るイタリア人居住地ヴェネツィアや南ティロル、トリエステなどの併合をさらに求めることとなる。

普墺戦争での敗北

 そのようなときプロイセン首相となったビスマルクは「鉄血政策」といわれる軍事国家化を進め、オーストリアとの対決姿勢を強めた。デンマーク戦争では共同歩調をとったものの、シュレスヴィヒ・ホルシュタインの領有問題という戦後処理を巡って対立した両国はついに1866年に普墺戦争(プロイセン=オーストリア戦争)として衝突した。オーストリア軍は近代化を進めていたプロイセン軍にわずか6週間で降伏するという大敗北を蒙った。

アウスグライヒ

 普墺戦争の敗北により、帝国内の諸民族の独立運動がますます強まったため、皇帝フランツ=ヨーゼフ1世は翌1867年、ハンガリーの独立運動を懐柔しようとしてその形式的な独立を認めた。これをアウスグライヒ(妥協の意味)という。
 これによって成立した国家を「オーストリア=ハンガリー帝国」あるいは「オーストリア=ハンガリー二重帝国」といい、その体制は、ハンガリー王国の王位はオーストリア皇帝フランツ=ヨーゼフ1世が兼ね、その下で二国がそれぞれ別な政府と国会を持つというもので、二重帝国といわれるものであった。したがってハンガリー王国は形式的には独立したが、外交・軍事・財政ではハプスブルク家のオーストリア皇帝に実権をにぎられていた。実質的には「ハプスブルク帝国」であった。その領域には、現在のチェコとスロヴァキア、スロベニア、クロアチア、を含み、南チロル地方とトリエステも入っていた。 → 二重帝国の具体的なあり方はアウスグライヒの項を参照。

ボヘミアの言語問題

 アウスグライヒでハンガリーの独立が認められたことに対し、ボヘミア(ベーメン)のチェコ人も同様な権利を主張し、フランツ=ヨーゼフ1世にたいして陳情をつづけた。1879年にはボヘミア出身の首相ターフェは言語令を発し、チェコ語にドイツ語と同等の権利を与え、扱いを対等とした。さらに1897年には首相バデーニは新言語令でそれを徹底し、「ボヘミアとモラヴィアのすべての官吏はドイツ語とチェコ語を理解しなければならない」と定めた。それに対してドイツ人官吏を始めとする反対運動が盛り上がり、皇帝もバデーニを罷免せざるを得なくなった。するとバデーニ罷免に抗議してプラハで暴動が起きるなど、事態は深刻さを増していった。

イタリア統一と「未回収のイタリア」

 1866年の普墺戦争の敗北によって、オーストリアはプロイセンを支援したイタリアに対してヴェネティア併合を認めた。こうしてオーストリアは北イタリアからほとんど撤退し、イタリアの半島統一はほぼ達成されたが、イタリアはオーストリア領に残るイタリア人居住地として南チロルトリエステを「未回収のイタリア」と称して併合を要求し、両国間の対立点として続くことになる。

三国同盟の形成

 1871年のドイツ帝国成立以後は、皇帝フランツ=ヨーゼフ1世は、ビスマルクの対フランスを軸とした外交に協力し三帝同盟(1873年)に加わった。しかし、ロシアがパン=スラヴ主義を掲げてバルカン半島に侵出すると、対抗してパン=ゲルマン主義を唱えてロシア及びスラヴ民族のとの対立を深めた。1877年ロシアが、露土戦争でオスマン帝国を破り、翌年のサン=ステファノ条約で大ブルガリアを成立させて大きな脅威となると、イギリスと共にその条約の破棄をロシアに迫り、ベルリン会議でビスマルクの調停が成立しベルリン条約ボスニア=ヘルツェゴヴィナの統治権(行政に関する権利のみを持つ)を認められた。1879年にロシアが三帝同盟を離脱、一旦再結成されたものの1887年には三帝同盟が消滅、以後ロシアとは明確な敵対関係に入った。一方79年には独墺同盟を結成、1882年にはイタリアを加えて三国同盟を締結した。

(8)パン=ゲルマン主義とバルカン半島侵出

オーストリア=ハンガリー帝国は、パン=ゲルマン主義を掲げバルカン半島に侵出を積極化し、ロシア・セルビアとの対立からバルカン問題が深刻化し、第一次世界大戦の誘因となった。

 世界史上、オーストリア帝国と現在のオーストリア共和国はまったく領土の広さが違うので注意を要する。オーストリア帝国は依然としてハプスブルク家を皇帝とするいわゆる「ハプスブルク帝国」であるが、第一次世界大戦の時期には正式には「オーストリア=ハンガリー帝国」であった。これは1867年のアウスグライヒの結果として成立したもので、領土的にはヨーロッパの中部からバルカン半島まで、現在の北イタリア、スロベニア、クロアチア、ハンガリー、チェコ、スロヴァキアに及ぶ広大な領土を有していたが、その域内に多数の民族を含む多民族国家であって、その運営には困難があった。

バルカン半島への侵出

 オーストリア=ハンガリー帝国は大国ではあったが海港はアドリア海に面したトリエステしかなかった。しかしその地の住民はイタリア人が多く、イタリアの回復要求も根強かったため、帝国はその地に代わる海港を求めた。それがバルカン半島南部、エーゲ海に面したサロニカ(英語読み。現地ではテッサロニキ)であり、「サロニカへの行進」と称してバルカン半島への侵出を進める国策を採った。この膨張政策はオスマン帝国の弱体化に乗じたパン=ゲルマン主義の主張のもとで展開され、ロシアやスラヴ系民族のパン=スラヴ主義との対立を激しくして行き、バルカン問題を深刻化させた。

ロシアとの対立

 南下政策をとるロシアは、1877年にオスマン帝国との露土戦争で勝利し、サン=ステファノ条約でバルカン半島進出を図った。それに対してオーストリアはイギリスと共に強く反発した。ドイツのビスマルクが調停してベルリン会議を召集、改めてベルリン条約が締結され、オーストリアはボスニア・ヘルツェゴヴィナの統治権(領有権ではない。統治をフランツ=ヨーゼフ1世に委任する形をとった)を獲得した。

ボスニア・ヘルツェゴヴィナ併合

 1908年にオスマン帝国で青年トルコ革命が起こって混乱すると、オーストリアはそれに乗じて、単なる統治権ではなく、領土そのものにしようとボスニア・ヘルツェゴヴィナ併合を強行した。この地域にはセルビア人が多数居住していたので、セルビア王国の反発が強くなり、1914年のサライェヴォ事件が勃発、第一次世界大戦に突入する原因となる。

(9)第一次世界大戦とオーストリア共和国の成立

オーストリア=ハンガリー帝国は第一次世界大戦でドイツとともに敗戦国となり帝国は解体される。戦後、オーストリア共和国となる。

第一次世界大戦の引き金を引く

 1914年6月、オーストリア=ハンガリー帝国の皇位継承者フランツ=フェルディナント夫妻が、セルビア人青年によって殺されるというサライェヴォ事件が起きると、オーストリア=ハンガリー政府はその背後にセルビア政府があると断定して、7月28日に宣戦布告した。同盟関係にあるドイツが同調してセルビアに宣戦すると、セルビア側にはイギリス・フランス・ロシアの三国協商がついて宣戦し、ヨーロッパが二つの陣営に分かれて第一次世界大戦に突入した。
ロシアの捕虜となったチェコ兵 オーストリア=ハンガリー帝国軍は、東部戦線でドイツと共にロシアと戦ったが、動員されたチェコ兵は同じスラブ系のロシア兵との戦闘に積極的にはなれず、捕虜となる者が多かった。このチェコ兵捕虜はロシアによって組織されてチェコスロヴァキア軍団といわれ、対独戦に投入された。そして1917年、ロシア革命が始まり、ソヴィエト=ロシアがドイツと講和すると、反発して革命軍と衝突した。そのチェコ兵を救出する名目で、日本も含む各国のシベリア出兵が行われた。
イタリアとの戦い イタリアはドイツ、オーストリアと三国同盟を結成していたが、開戦後も中立を守り、1915年にはイギリスなど協商国との間でロンドン秘密条約を結び未回収のイタリアと言われていたトリエステ南チロルを併合することで協商側に参戦した。そのため、アルプスを戦場としてイタリア軍とも戦わなければならなくなり、イタリアに対する感情は悪化した。
フランツ=ヨーゼフ1世の死 戦争が長期化する中、1916年11月20日夜、ハプスブルク家の皇帝フランツ=ヨーゼフ1世が86歳で死去した。新皇帝となったカール(甥の子の29歳)は戦争終結を急ごうとしたがドイツのヴィルヘルム2世に反対され、ドイツの衛星国のような扱いを受けた。1917年10月にはドイツ・オーストリア連合軍はイタリア戦線で大攻勢をかけ、イタリア軍を圧倒したが、イギリス・フランス軍の援軍が加わり、さらに同年4月にはアメリカ軍が参戦していたので協商国側は勢いを盛り返し、1918年3月にはドイツ・オーストリア軍の敗北が濃厚となった。

帝国の解体

 オーストリア軍の敗北が決定的になった1918年10月から12月にかけて、その支配下にあった諸民族が一斉に独立を宣言した。10月28日にプラハでチェコスロヴァキア共和国に続き、11月11日にポーランド、同16日にハンガリー、12月1日にセルブ=クロアート=スロヴェーン(後のユーゴスラヴィア)が独立を宣言した。そのような中、11月3日に北イタリアのパドヴァでオーストリア=ハンガリー帝国(ハプスブルク帝国)は連合国代表との間で停戦協定を結んだ。
 これによってオーストリア=ハンガリー帝国は解体し、11月11日、オーストリア=ハプスブルク家の最後の皇帝カール1世は退位してスイスに亡命し、13世紀に始まるハプスブルク帝国は終わりを告げた。

サン=ジェルマン条約

 オーストリア臨時政府は1919年9月、連合国諸国との講和条約としてサン=ジェルマン条約を締結し、南チロル地方とトリエステ、イストリア、ゴリツィアのイタリアへの編入を認め、さらにドイツとの合併は禁止されることとなった。

オーストリア共和国の発足

 同年10月、憲法制定議会は国号を「オーストリア共和国」とすることを決定した。オーストリア最初の共和国は、国旗に赤・白・赤を縦に並べた図柄が選ばれたが、それはオーストリアの形成期の12世紀に、領主バーベンベルク家の旗として用いられたものであり、ハプスブルク家の支配が終わったことを示すために用いられた。現在のオーストリア共和国でもこの国旗が使われている。その領土は旧帝国の26.6%にすぎなかった。新生の共和国は、カール=レンナーを首相とするオーストリア共和国政府は、「残りもの」(クレマンソーの言葉)としての国土をもとに戦後の饑餓を切り抜けることと、オーストリアとハンガリーに個別に課せられた戦後賠償をどのように解消するかというむずかしい仕事だった。

(10)ナチス=ドイツへの併合と第二次世界大戦

オーストリアは連邦共和国として戦後復興を遂げたが、1930年代、オーストリアでもナチスが台頭し、1938年にはナチス=ドイツに併合された。ドイツ第三帝国に組み込まれる形となって第二次世界大戦を戦い、敗れる。

オーストリア連邦共和国

 オーストリアは、1922年に新憲法を制定、上部オーストリア・下部オーストリア・ウィーン市・シュタイアマルク・フルゲンラント・ケルンテン・ザルツブルク・ティロル・フォアアルルベルクの9のそれぞれ議会をもつ州からなる連邦共和国と規定された。共和国政府はキリスト教社会党が握り、イグナッツ=ザイペル首相が国内統一維持、通貨の安定、外国との借款交渉などの課題に取り組んだ。ザイペルは自らも現役の聖職者として厳格で禁欲的な生活を送り、オーストリアの戦後復興を実現し、1922年には国際連盟から三千万ポンドの借款を取り付けなど成果を出した。

ファシズムの台頭と世界恐慌

 しかし、ウィーンなど都市部で社会主義者が活発に活動するようになると、反社会主義を掲げる私兵集団「護国団」があらわれ、それに対抗するかたちで社会主義者が「防衛同盟」を組織、両者はしばしば武力衝突を繰り返すようになった。また国境地帯のケルンテン州ではユーゴスラビア人、ティロル州ではイタリア人と言った国境外からの侵入者に対する武装組織も「護国団」の主力となっていった。政府はこのような私兵集団を取り締まったが効果がなく、彼らはイタリアのムッソリーニファシスト党にならって社会主義からの私有財産の保護を掲げて暴力的な活動をするようになっていった。
 世界恐慌の波はオーストリアに及び、1931年、オーストリアのクレディットアンシュタルト銀行がヨーロッパではじめて破産した。オーストリアの金融機構全体がマヒし、ウィーンには国際連盟の財務官が常駐する事態となった。

ナチスの脅威、強まる

 隣国ドイツでは、ヴェルサイユ体制を否定するオーストリア出身のヒトラーナチ党を結成、1933年に政権を獲得すると、同じドイツ語圏のオーストリアの併合を狙い、オーストリアのファシストを動かして共和国政府に対する批判、挑発を強めていった。
オーストリアのファシズム  オーストリア政府首相ドルフース(ドルフュースとも表記)は議会を停止して大政翼賛会的なファシズム体制をめざした。隣国ドイツから及んできたナチス=ドイツの脅威に対しては、ムッソリーニに接近、1933年にはオーストリア、ハンガリー、イタリア三国の同盟を結成し、イタリア領トリエステからオーストリアの貿易港として利用することが認められた。それに対してヒトラーは態度を硬化させ、オーストリアの収入源である観光に打撃をあたえるため、出国ビザ手数料を値上げし、さらにナチ党員を国境侵犯させ、暴力行為を繰り返すなどの圧力を加えるようになった。ドルフース内閣はオーストリアでのドイツ・ナチ党員の活動を禁止した。
ウィーンの騒乱  ウィーンでは1918年以来、市政は社会主義者に握られていた。1934年2月、政府が社会主義者の防衛同盟を解散させようとしたことに反発した社会主義者がウィーンでゼネストを呼びかけると、政府の一部が護国団を動員して防衛同盟に攻撃をしかけ、ウィーンは内戦状態となった。戦闘は2日間続いたが、防衛同盟は拠点を政府軍に砲撃されて降伏し、市長は投獄され、ウィーンの社会主義政権は崩壊した。
 その時ウィーンを離れていた首相ドルフースは、政府側の責任者を処罰した。ヒトラーはこの機会に様々な宣伝と挑発をくりかえし、ドルフースに併合を迫った。ヒトラーは「共産主義者の反乱がオーストリアにさし迫っている。ドルフース政府は、これを阻止することを拒んでいる。我々がその任を引き受けよう」と宣伝した。このような口実はこれ以後、ヒトラーがくりかえし使用するようになるが、この時がはじめてだった。
ナチスによるクーデターの失敗 1934年7月25日、オーストリア陸軍の制服で変装したナチ党員が首相官邸に押し入り、首相ドルフースを射殺した。後継首相となったシュシュニクは護国団に命じてナチ党員を逮捕してただちに処刑するとともにムッソリーニにブレンナー峠への軍隊派遣を要請した。ヒトラーは陰謀の失敗と予期せぬムッソリーニの強硬な態度に驚き、陰謀はあずかり知らぬ事と述べた。 → オーストリア併合

ドイツに併合される

当初、オーストリアのファシストはムッソリーニのイタリアに親近感を感じ、ムッソリーニもヒトラーに必ずしも協力的ではなかったが、1936年のスペイン戦争を機にベルリン=ローマ枢軸が成立すると、そのオーストリア進出を容認するようになった。ついに1938年3月にオーストリア政府はヒトラーの脅迫に屈してドイツに併合されることを受け容れた。
(引用)しかし全体として、1938年3月の、オーストリア人によるヒトラー歓迎は熱狂的だった。そのあとに訪れた突然の覚醒を考えると、狂乱というのが正しい形容かもしれない。最初の数ヶ月、ヒトラーは救世主とみなされた。失業は、壮大な新しい軍備計画(リンツの巨大な製鋼所、ヴィーナー・ノイシュタットの飛行機製造工場など)のおかげで事実上なくなった。仕事は、ユダヤ人の一掃が進むにつれて、ますます見つけやすくなった。だが、時とともに、歓喜は消え始めた。とりわけ、いちばんいい仕事はすべて、ドイツ人のところへ行ってしまうことがはっきりした時だった。1939~40年の、人々を熱狂させた勝利にもかかわらず、ドイツのロシア進攻(1941年=独ソ戦)によって古い世代はぞっとした。彼らには、ロシアの冬の戦闘がどんなものか、痛いほどよくわかっていたからである。主にオーストリア人からなる二個師団がスターリングラードで壊滅して、オーストリア人の士気は最低に落ち込んだ。<リケット/青山孝徳訳『オーストリアの歴史』1995 成文社 p.156>
 ドイツ第三帝国に組み込まれたオーストリアでは、ドイツと同様に国民の基本的人権と自由は奪われ、軍事優先の経済政策によって国民生活は圧迫され、また多数のユダヤ人が逮捕されてポーランドの強制収容所に送られた。オーストリアでもまもなく抵抗運動がゲシュタポの監視の中でも始まった。
 戦争末期には、首都ウィーンは連合軍による激しい空爆を受け、オペラ座、ブルク劇場、聖シュテファン寺院などの歴史的建築物が破壊された。

(11)永世中立国 オーストリア共和国

戦後は米英仏ソの4ヵ国の分割管理下に置かれ、東西冷戦の緊迫した最前線として永世中立国家として歩むこととなり、1955年に主権を回復した。経済の復興と、ウィーンの繁栄にみられる文化の復興をはたし、堅実な歩みを重ね、1995年にはEUに加盟した。しかし、90年代から、共産圏からの難民、2000年代からはバルカン方面からのイスラーム教徒の移民の流入に悩むようになり、最近では移民排斥を主張する極右政党が支持を集めている。

解放と分割管理

 第二次世界大戦の末期、東部からソ連軍が侵攻し1945年4月にウィーンを解放、また西部には米英軍がドイツ軍を追って侵攻した。こうしてオーストリアはドイツの支配から解放され、分離したが、ドイツと同じく米英仏ソの連合国4ヵ国によってオーストリア分割管理され、共同管理下に置かれることとなった。
 全土が解放された4月27日、国民党(キリスト教社会党の後身)、社会党、共産党は活動を開始、オーストリア共和国の再建、1920年の憲法の復活、ナチス=ドイツによる1938年の併合の無効などからなる独立宣言を採択、カール=レンナーを首相として選出し臨時政府を発足させた。統一政府が認められなかったドイツとはこの点が異なる。
 新政府の第一歩は通貨流通の管理、経済の復興、インフレの抑制であったが、1947年からマーシャル=プランによる巨額の援助によって息を吹き返すことができた。それは心理的にも西側寄りの感情が強くなるという結果となった。
 現在のオーストリア国旗は右のような赤白赤が上から並んだものであるが、これは12世紀の辺境伯(オストマルク)だった時代の伝説をもとにしている。 → オーストリアの形成

オーストリア国家条約

 国際社会におけるオーストリア共和国のあり方を規定するオーストリア国家条約は1947年から国際連合理事会や外相会議で検討がつづけられていた。東西冷戦が深刻となり、ソ連と米英の対立でなかなか結論が得られなかったが、ようやくスターリンの死去を受けて合意に達し、1955年5月15日に締結された。このオーストリア国家条約でオーストリアは正式に独立を回復、同時に永世中立となることを宣言した。また同時に国際連合に加盟が認められた。
NATOへ非加盟、EUへ加盟 オーストリアは国家条約で永世中立を宣言し、国内法の中立法でいかなる軍事同盟にも属さず、外国の軍事基地を置かないことを定めているので、集団的自衛権を掲げるNATOには現在も加盟していない。ヨーロッパ経済統合の動きに関しては、1957年のヨーロッパ経済共同体(EEC)には加盟せず、1959年にイギリスが主導したヨーロッパ自由貿易連合(EFTA)に加盟した。しかし、EECがヨーロッパ統合の主導権を握るようになってからは加盟交渉を行い、1995年にヨーロッパ連合(EU)に加盟した。
南チロル問題 戦後のオーストリアにとって、第一次世界大戦でイタリア領となった南チロルの返還は唯一残された国境問題であった。南チロルの北部ボルツァーノ周辺はドイツ系住民がほとんどであったので、オーストリアへの編入を求める声が強かったのである。速くも1946年から両国間の協議が始まったがイタリアは譲らず、60年代にはオーストリアはたびたび国際連合に持ちだしたが決着はついていない。イタリア側は南チロル全域を特別州として自治県を与えることにしたが、国境変更には応じていない。

極右政党の台頭

 現在のオーストリアはかつてのオーストリア帝国のような大国意識は無いが、それでも戦後かなりたった1990年代に右派の国家主義者が台頭し、オーストリアの栄光と「中欧」での覇権の回復を主張するような政治家が人気を集めてきたことが注意される。その背景には、ユーゴスラヴィアの解体などバルカン情勢が悪化して、多数の不法移民が入り込みんで治安が悪化したこと、また低賃金労働者の流入によって職を失った若年層の不満がある。そのような中で、移民受け入れ反対を主張したハイダー党首の率いる自由党が1999年の選挙で躍進し、自由党は連立政権入りを果たした。ハイダーはヒトラー礼賛(ヒトラーはオーストリア出身)を公言するような人物だったので、他のEU諸国が反発し、政治的交渉を凍結する処置に出る騒ぎとなった。その後、自由党は内部分裂したので一時の勢力が無くなり、現在は社民党と国民党の連立内閣となっている。
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書籍案内

リケット/青山孝徳訳
『オーストリアの歴史』
1995 成文社

大津留厚
『ハプスブルク帝国』
世界史リブレット 30
1996 山川出版社

加藤雅彦『ドナウ河紀行―東欧・中央の歴史と文化』
1991 岩波新書

河野純一
『ハプスブルク三都物語
ウィーン、プラハ、ブタペスト』
2009 中公新書

南塚信吾編
『ドナウ・ヨーロッパ史』
世界各国史19
1999 山川出版社