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オーストリア

ヨーロッパ中央部のドイツと同じゲルマン系国家。ハプスブルク家神聖ローマ帝国の本拠であり、首都ウィーンを中心にオーストリア=ハンガリー帝国を形成、中欧の大国の多民族国家となった。第一次世界大戦で敗北し、支配下のハンガリー、チェコなどが独立したため、領土を縮小させ共和国となる。ナチス=ドイツに併合された後、永世中立国として再出発した。

 ヨーロッパの中央部、ドナウ川中流域にある国家。ゲルマン人のフランク王国がこの地にいた辺境伯(オストマルク)に由来する国名をもち、住民はドイツ人と同じでドイツ語を話す。現在はオーストリア共和国で、中欧の小国であるが、世界史上はハプスブルク家の本拠地であったところから、神聖ローマ帝国を構成する有力諸邦の一つであり、ハンガリー、チェコ、スロヴァキア、ポーランドの一部、さらにスペイン、ネーデルラントの一部や北イタリアにも領地をもつ大国であった。
 また19世紀初頭の神聖ローマ帝国消滅後は、オーストリア帝国となり、ウィーン体制の中心勢力の一つとなったが、領内の民族運動に押されて苦悩が続いた。1866年の普墺戦争に敗れた後はオーストリア=ハンガリー帝国となった。そのバルカン半島への進出が一因となって第一次世界大戦が勃発、結局敗北してパプスブルク家皇帝も退位し、オーストリアは共和国となり、その領内の諸民族が独立して領地の多くを失った。またドイツとの合併は永遠に禁止されることとなった。
 ナチス=ドイツのファシズムが台頭するとその指導者ヒトラーはオーストリア出身だったのでその併合を狙い、1938年に実現させた。第二次世界大戦後はドイツと同じく連合国によって分割占領された後、1955年に永世中立国として独立を承認された。東西冷戦期には東側と接するところから微妙な情勢が続いたが、東欧社会主義圏の崩壊によって1995年にはヨーロッパ共同体に加盟した。中欧の中心に位置する首都ウィーンは、ウィーン会議の開催など政治的に重要な存在出会ったばかりでなく、音楽をはじめとする芸術学問の中心としても西欧のパリに並ぶ存在である。
 → (1)オーストリアの形成  (2)オーストリアの大国化  (3)神聖ローマ帝国の消滅とオーストリア帝国  (4)多民族国家としての苦悩  (5)オーストリア=ハンガリー帝国  (6)バルカン問題の深刻化  (7)第一次世界大戦へ  (8)ナチスドイツへの併合と第二次世界大戦  (9)永世中立国 オーストリア共和国

(1) オーストリアの形成

ハプスブルク家の支配の中心。神聖ローマ帝国の中の有力な領邦であるが三十年戦争で縮小。

 ドナウ川中流域はヨーロッパのほぼ中央に位置し、古代にはローマ帝国の支配が及んでその最前線となり、その軍団都市として建設されたウィンドボナが現在のウィーンであり、その周辺の経済の中心ともなった。古来から交通の要衝であったので、ローマ帝国衰退後もゲルマン系、スラブ系、アジア系など多くの民族が行き来するところであった。

オストマルクからオーストリアへ

 8世紀末、フランク王国のカール大帝が進出してアヴァール人を撃退、当方支配の拠点として東方辺境伯オストマルクを置いた。9世紀末にはアジア系のハンガリー人が進出したが、フランク王国分裂後の東フランクのオットー1世(神聖ローマ帝国初代皇帝)がハンガリー人を破り、次のオットー2世がオストマルクを再建し、976年にバーベンベルク家のレオポルドを東方辺境伯に任命した。このバーベンベルク家のもとでドイツ人の居住する最東端の地域として定着し、オーストリア(これは英語読み。ドイツ語ではエステルライヒという)と言われるようになり、1156年神聖ローマ帝国の中の独立の公国となった。
オーストリア国旗の起源 辺境伯バーベンベルク家のレオポルト5世は、1190年に第3回十字軍に参加した。そのとき大きな働きをしたレオポルト5世は敵との激しい戦闘で返り血を浴び、服が真っ赤に染まってしまった。戦いの跡で幅広いベルトをはずすと、ベルトの部分だけが白く残っていた。そこで赤白赤の色がオーストリアの国旗や紋章となったという伝承がある。現在のオーストリア共和国でも赤白赤のを横に並べた国旗が使われている。<河野純一『ハプスブルク三都物語 ウィーン、プラハ、ブタペスト』2009 中公新書 p.10>

ハプスブルク家領となる

 バーベンベルク家は1246年に断絶し、オーストリアはベーメン王の支配を受けることとなったが、1278年ハプスブルク家のルドルフがマイヒフェルトの戦いでベーメン王オタカル2世と戦って勝利し、ハプスブルク家の所領となった。それ以後、ハプスブルク家は1438年以降は神聖ローマ皇帝位を独占して、ドイツ諸侯をも従える立場となり、オーストリア以外にも、いわゆる婚姻政策によって、ネーデルラント、スペインなどの広大な領土を有することとなる。オーストリアの君主としては1918年まで続くこととなる。

ハプスブルク家領の東方拡張

 カール5世の時にハプスブルク帝国は全盛期となったが、その内部には宗教改革の嵐が起こり、オーストリアの地では、オスマン帝国の侵攻が激しくなっており、実は危機の時代だった。カール5世は対オスマン帝国戦はもっぱら、ウィーンにいた弟フェルディナントにまかせていたが、1526年にはモハーチの戦いで戦死した義理の弟ラオシュ2世に代わって、ベーメン王国(チェコ)とハンガリー王の地位を継承し、ハプスブルケの領地はさらに東に拡がった。しかし、ハンガリーはオスマン帝国の支配することとなり、さらに1529年の第1次ウィーン包囲を受けて、大きな脅威となったが、スレイマン1世が退却したため、オーストリア喪失の危機は去った。
ドナウ帝国 この16世紀以降のオーストリアを中心にボヘミア、ハンガリーを含むドナウ川中流域のハプスブルク家の支配する国家を「ドナウ帝国」ととらえる見方がある。ドナウ帝国はオスマン帝国と対峙するかたちで存在し、また17世紀以降はドイツ、フランス、ロシアと肩を並べる大国となっていく。<南塚信吾編『ドナウ・ヨーロッパ史』世界各国史19 1999 山川出版社>

オーストリア=ハプスブルク家

 1556年、カール5世は帝位引退に際して弟のフェルディナンドにオーストリア領を、子のフェリペにスペイン領を相続させた。ここにオーストリア=ハプスブルク家が成立し、神聖ローマ帝国皇帝はフェルディナンド1世が継承した。この間、ハプスブルク家は広義のイタリア戦争などでフランス王家と対立を続け、北イタリアへの支配権を維持した。
 17世紀、ハプスブルク家の神聖ローマ皇帝フェルディナンド2世のベーメン(ボヘミア)へのカトリック強制に対する新教徒の反発から、三十年戦争(1618~48年)が起こると、スウェーデンやフランスが介入、長期戦の末にウェストファリア条約でオーストリア以外の西ヨーロッパの領土の大半を失い、ドイツに対する統治権も無くなって神聖ローマ帝国は事実上終わりを告げた。その後はハプスブルク家はオーストリア皇帝としてのみ存続する。

(2)オーストリアの大国化

東方ではオスマン帝国からハンガリーを奪い、18世紀、中欧に領土をもつ大国となる。しかし同じドイツ系のプロイセンが急成長し、中欧の主導権を巡って競合することとなる。

ハンガリーなどを領有

 1683年の第2次ウィーン包囲というオスマン帝国の脅威をはねのけ、1699年のカルロヴィッツ条約でオスマン帝国からハンガリートランシルヴァニアスロヴェニアクロアティアを獲得し、支配領域を中欧(ドナウ地域)全域にひろげた。さらに1718年のパッサロヴィッツ条約ではハンガリーの残部とワラキア、北セルビアを獲得した。 → オスマン帝国領の縮小

スペイン継承戦争

 18世紀初頭のスペイン継承戦争(1701~14年)ではラシュタット条約によって、南ネーデルラント(後のベルギー王国)・ミラノナポリ王国サルデーニャ(1720年にシチリアと交換)などを手に入れた。
 このように18世紀初めには、本国のオーストリアのみならず、現在のベルギー、イタリア半島からチェコ、ポーランド、ハンガリーなどに及ぶ、ヨーロッパ大陸の西から東に点在する広大な領土を支配する大国となった。しかし、これらの領土は地理的に離れているだけでなく、多くの民族・言語・文化を含むことになったので、その統治には大きな困難が伴うこととなった。
 またスペイン継承戦争でプロイセン公国はオーストリアを支援して戦ったことによってプロイセン王国に昇格し、次第に有力となって、オーストリアの新たな脅威となっていく。

オーストリア継承戦争

 18世紀中期にオーストリア=ハプスブルク家の神聖ローマ皇帝カール6世は男子後継者がないままに死去し、オーストリア大公の地位とハプスブルク家の家督を娘のマリア=テレジアに継承させた。これに対して、プロイセン王国フリードリッヒ2世シュレジェンの相続権を主張し、また神聖ローマ皇帝(形の上では選帝侯による選挙で選ばれる)の地位を狙うバイエルン公などがその相続を認められないとして介入た。フランスはプロイセン・バイエルンに同調し、植民地でフランスと対立しているイギリスはオーストリアを支援した。こうしてオーストリア継承戦争が勃発した。オーストリアはマリア=テレジアのオーストリア大公の地位と家督相続、その夫のフランツ1世の神聖ローマ皇帝選出ははたしたが、プロイセンのシュレジェン占領を許してしまった。

外交革命と七年戦争

 マリア=テレジアは国力の挽回に努める傍ら、外交革命によって仇敵フランスと結び、プロイセンを孤立化させ七年戦争(1756~63年)を戦った。戦いは有利に進んだが、ロシアがプロイセン支持に転じたことと、植民地で戦っていたフランスとイギリスのフレンチ=インディアン戦争がイギリス優位に進んだことから、英仏はパリ条約で講和したために、オーストリアも同年のフベルトゥスブルク条約でプロイセンのシュレジェン領有を承認した。マリア=テレジアはその後もフランスとの提携を続け、1770年には娘マリ=アントワネットをフランスの王子ルイ(後のルイ16世)に嫁がせ、両国の提携の強化を図った。

ヨーゼフ2世の啓蒙専制政治

 七年戦争で領土回復はできなかったもののヨーロッパにおける強国としての立場を維持し、領土拡張を開始した。次のヨーゼフ2世は啓蒙専制君主政治を行って上からの改革に努め、1781年に宗教寛容令農奴解放令などを発布したが、改革は不十分なまま終わった。1772年にはロシア、プロイセンとともに第1回ポーランド分割に参加し、ガリツィア地方に領土を拡張した。しかし、多国籍国家という最大の問題はハンガリーやチェコの民族運動が活発になることによってより深刻になっていった。

(3)神聖ローマ帝国の消滅とオーストリア帝国

19世紀のオーストリアは、フランス革命・ナポレオン戦争に巻き込まれ、啓蒙専制君主政治が行き詰まり、多民族国家として困難続く。

フランス革命とオーストリア

 フランス革命が起きるとレオポルト2世(マリ=アントワネットの兄)はピルニッツ宣言を発してフランス王権の復活を策したが失敗した。1792年4月、フランスのジロンド派政府は対オーストリア開戦に踏み切り、オーストリアはプロイセンと同盟してフランスに侵攻したが、1792年9月、ヴァルミーの戦いでプロイセン軍が敗れ、干渉は失敗した。その後フランス革命が進行し、ジャコバン独裁政権の下で徴兵制が敷かれて国民軍が形成され、フランス軍を率いたナポレオンイタリア遠征を敢行すると、オーストリア軍は敗北し、カンポ=フェルミオの和約で北イタリアを放棄して講和した。このとき、1793年の第2回ポーランド分割が行われたがオーストリアはフランスとの交戦していたため参加せず、1795年の歳3回分割には加わり、ポーランドを消滅させた。
 その後、ナポレオンはナポレオン戦争といわれる征服戦争を展開、ドイツ諸侯を支配下に収めてライン同盟を結成したため、1806年に神聖ローマ帝国は消滅した。ハプスブルク家は神聖ローマ皇帝の地位を失い、オーストリア皇帝の地位のみを維持し、これ以後はオーストリア帝国とされる。

ウィーン体制の成立

 ナポレオンのエルバ島流刑の後、1814年9月からオーストリアの首都ウィーンで、外相メッテルニヒが主催してウィーン会議が始まり、翌15年6月、ウィーン議定書が成立した。フランスやスペインなどでは王政が復活したが、神聖ローマ帝国は復活することなく、ドイツ人の諸国・都市は新たにドイツ連邦を構成することとなった。オーストリアは連邦議会(国民の選挙によるものではなく連邦国の公使会議)の恒常的議長の地位についた。
宰相メッテルニヒ フランス革命前の絶対王政国家による秩序を復活させた反動体制であるウィーン体制が成立し、オーストリアはその中心的存在となった。宰相となったメッテルニヒが国際政治をリードし、ロシアと共に保守勢力の要の存在となった。

(4)多民族国家としての苦悩

19世紀前半、ウィーン体制の保守反動体制の中心として存在したが、ドイツ人の国民国家形成の動きと多民族国家維持との間で帝国は大きく揺らいだ。

ウィーン体制の動揺

 しかし、ウィーン体制下で自由主義ナショナリズムの運動が盛り上がり、ドイツ圏ではブルシェンシャフトの蜂起、オーストリア支配下の北イタリアではカルボナリの反乱が起こった。1830年のフランスの七月革命の影響を受け、ポーランドの反乱ドイツの反乱イタリアの反乱が相次いだが、メッテルニヒ政府はこれらの運動を、「ヨーロッパの憲兵」ロシアの軍事力に助けられながら弾圧し、帝国を維持していた。しかし、フランスの二月革命に始まる1848年革命がウィーンにも及び、ウィーン三月革命が勃発して、メッテルニヒが失脚した。

三月革命とフランクフルト国民議会

 1848年の三月革命でメッテルニヒは失脚し、自由主義的な「三月内閣」が作られ、憲法の制定を約束、農民の解放などの改革も実施された。さらにオーストリアを含めて、ドイツ人の国民国家を建設する声が強まり、同年5月にフランクフルト国民議会が開催された。この議会ではドイツ人の国家統一と全ドイツ憲法の制定が話し合われ、国民の基本的権利を確立させる一方、国家形態は共和政ではなく立憲君主政が志向された。しかしドイツ統一問題では、大きな対立が生じた。ドイツ人居住地をドイツ国家とした場合、チェコやハンガリーは含まれなくなる。ところがオーストリア帝国はドイツ人居住地だけでなく、チェコ・ハンガリーさらに北イタリアやポーランドの一部を支配している。ドイツ人居住地すべてをドイツ国家とすべきであるという大ドイツ主義は、必然的にオーストリア帝国を分解させることになる。

諸国民の春

 オーストリアで懸念されたような民族運動に直面していた。諸国民の春と言われるハンガリーの民族運動(マジャール人)、ベーメンのチェコ人を中心としたスラヴ民族会議開催、ロンバルディアのイタリア人の分離独立であるミラノ蜂起などが次ぎつぎと起こってきたのである。国家崩壊の危機を迎えたオーストリア帝国は、ドイツ人の国民国家ではなく、多民族国家を維持する道を選んだ。

オーストリアの反動化

 しかし、パリの六月暴動が臨時政府によって鎮圧されたことから、革命運動・民族独立運動は後退期に入った。オーストリアの皇帝政府は6月にはプラハのベーメン民族運動を制圧し、8月には北イタリアのロンバルディア独立を支援するサルデーニャ王国を破り(このとき行進曲で有名なラデツキー将軍がオーストリア軍を指揮した)、自信と体制を立て直した。10月にはハンガリーへの軍隊派遣に反対するウィーンの民衆蜂起が起こったが、それも鎮圧された。11月オーストリアの新政府は「オーストリア帝国の不分割・一体性」を宣言した。

ドイツ国民国家からの離脱

 フランクフルト国民議会では「大ドイツ主義」が優勢であったが、こうしてオーストリア自身がそれを拒否したことによって、オーストリアのドイツ人居住地を除いたドイツ国家とという小ドイツ主義が現実的な案として出てきた。ドイツ国家からオーストリアを除外すればプロイセンが中心になることが予測された。議論は年を越して継続したが、49年3月、オーストリア帝国憲法が制定され、帝国の不分割が改めて規定されて大ドイツ主義を否定したため、フランクフルト国民議会は小ドイツ主義を結論とし、オーストリアを含まない「ドイツ帝国憲法案」を作成した。この憲法案ではプロイセン国王をドイツ皇帝に予定していたが、肝腎のフリードリヒ=ヴィルヘルム4世がそれを辞退した。「議会の恩恵による帝位」につくことを拒否したのである。こうしてドイツ統一憲法は宙に浮き、国民議会も為す術無く解散し、結局ドイツ統一を果たすことができずに失敗に終わった。

新絶対主義

 「諸国民の春」の民族運動を弾圧し立憲制や議会制は棚上げして、帝国としての一体性を維持したオーストリア帝国は皇帝フランツ=ヨーゼフによって「新絶対主義」と呼ばれる抑圧体制をとった。しかし、かつてのような強権的支配は不可能であっので、各民族の経済活動には一定の自由を認める方針を打ち出した。特にベーメン(ボヘミア=チェコ西部)はすでに帝国内で最も進んだ工業力を有していたので、繊維工業や鉄工業、機械工業が盛んになった。

イタリア統一戦争

 イタリアではイタリア統一運動が進んできた。1859年にはサルデーニャ王国カヴールがフランスのナポレオン3世との連合によってオーストリアに攻撃を仕掛け、イタリア統一戦争が起こった。この戦争ではオーストリアは北イタリアのロンバルディアを放棄することとなった。イタリアでは翌1861年、ガリヴァルディが征服した南イタリアをサルデーニャ王に献上することによってイタリア王国が成立した。イタリア王国はオーストリア支配下に残るイタリア人居住地ヴェネツィアや南ティロル、トリエステなどの併合をさらに求めることとなる。

(5)オーストリア=ハンガリー帝国

19世紀後半、普墺戦争に敗れ、ハンガリーの自治を承認、オーストリア=ハンガリー帝国(二重帝国)となる。

 中欧に大きな勢力を持っていたハプスブルク家のオーストリアは、ドイツ統一を巡るプロイセン王国との主導権争いで、大ドイツ主義が宙に浮いたために後退し、軸足をドイツよりもハンガリー、チェコなど中欧支配に向けるようになった。また、バルカン半島への汎スラブ主義を採るロシアの進出に神経をとがらすようになった。

普墺戦争での敗北

 そのようなときプロイセン首相となったビスマルクは「鉄血政策」といわれる軍事国家化を進め、オーストリアとの対決姿勢を強めた。デンマーク戦争では共同歩調をとったものの、その戦後処理を巡って対立した両国はついに1866年に普墺戦争(プロイセン=オーストリア戦争)として衝突した。オーストリア軍は近代化を進めていたプロイセン軍にわずか6週間で降伏するという大敗北を蒙った。

アウスグライヒ

 普墺戦争の敗北により、帝国内の諸民族の独立運動がますます強まったため、翌67年、ハンガリーの独立運動を懐柔しようとしてその形式的な独立を認めた。これをアウスグライヒ(妥協の意味)という。
 その体制は、ハンガリー王国の王位はオーストリア皇帝フランツ=ヨーゼフ1世が兼ね、その下で二国がそれぞれ別な政府と国会を持つというもので、二重帝国といわれるものであった。この国家をオーストリア=ハンガリー帝国という。したがってハンガリー王国は形式的には独立したが、外交・軍事・財政ではハプスブルク家のオーストリア皇帝に実権をにぎられていた。実質的には「ハプスブルク帝国」であった。その領域には、現在のチェコとスロヴァキア、スロベニア、クロアチア、を含み、南チロル地方とトリエステも入っていた。

多民族国家としての弱点

 オーストリア=ハンガリー帝国のハプスブルク家支配の最大の問題は、この国が巨大ではあるが多民族国家であるという点であった。オーストリアはドイツ人(ゲルマン民族)であるが、ハンガリーはマジャール人であり、またその領内にチェコ人、クロアチア人など多数のスラヴ系民族を含み、また北イタリアはイタリア系住民の地域であった。

イタリア統一と「未回収のイタリア」

 1866年の普墺戦争の敗北によって、オーストリアはプロイセンを支援したイタリアに対してヴェネティア併合を認めた。こうしてオーストリアは北イタリアからほとんど撤退し、イタリアの半島統一はほぼ達成されたが、イタリアはオーストリア領に残るイタリア人居住地として南チロルトリエステを「未回収のイタリア」と称して併合を要求し、両国間の対立点として続くことになる。

三国同盟の形成

 1871年のドイツ帝国成立以後は、皇帝フランツ=ヨーゼフ1世は、ビスマルクの対フランスを軸とした外交に協力し三帝同盟(1873年)に加わった。しかし、ロシアがパン=スラヴ主義を掲げてバルカン半島に侵出すると、対抗してパン=ゲルマン主義を唱えてロシア及びスラヴ民族のとの対立を深めた。1877年ロシアが、露土戦争でオスマン帝国を破り、翌年のサンステファノ条約で大ブルガリアを成立させて大きな脅威となると、イギリスと共にその条約の破棄をロシアに迫り、ベルリン会議でビスマルクの調停が成立しベルリン条約ボスニア=ヘルツェゴヴィナの統治権(行政に関する権利のみを持つ)を認められた。1879年にロシアが三帝同盟を離脱、一旦再結成されたものの1887年には三帝同盟が消滅、以後ロシアとは明確な敵対関係に入った。一方79年には独墺同盟を結成、1882年にはイタリアを加えて三国同盟を締結した。

(6)パン=ゲルマン主義をかかげバルカン半島に侵出

オーストリア=ハンガリー帝国は、パン=ゲルマン主義を掲げバルカン半島に侵出を積極化し、ロシア・セルビアとの対立からバルカン問題が深刻化し、第一次世界大戦の誘因となった。

 世界史上、オーストリア帝国と現在のオーストリア共和国はまったく領土の広さが違うので注意を要する。オーストリア帝国は依然としてハプスブルク家を皇帝とするいわゆる「ハプスブルク帝国」であるが、第一次世界大戦の時期には正式には「オーストリア=ハンガリー帝国」であった。これは1867年のアウスグライヒの結果として成立したもので、領土的にはヨーロッパの中部からバルカン半島まで、現在の北イタリア、スロベニア、クロアチア、ハンガリー、チェコ、スロヴァキアに及ぶ広大な領土を有していたが、その域内に多数の民族を含む多民族国家であって、その運営には困難があった。

バルカン半島への侵出

 オーストリア=ハンガリー帝国は大国ではあったが海港はアドリア海に面したトリエステしかなかった。しかしその地の住民はイタリア人で、イタリアの回復要求も根強かったため、帝国はその地に代わる海港を求めた。それがバルカン半島南部、エーゲ海に面したサロニカ(英語読み。現地ではテッサロニキ)であり、「サロニカへの行進」と称してバルカン半島への侵出を進める国策を採った。この膨張政策はオスマン帝国の弱体化に乗じたパン=ゲルマン主義の主張のもとで展開され、ロシアやスラヴ系民族のパン=スラヴ主義との対立を激しくして行き、バルカン問題を深刻化させた。

ボスニア・ヘルツェゴヴィナ併合

 1908年にオスマン帝国で青年トルコ革命が起こって混乱すると、オーストリアはそれに乗じてボスニア・ヘルツェゴヴィナ併合を強行した。この地域にはセルビア人が多数居住していたので、セルビア王国の反発が強くなり、1914年6月にサライェヴォ事件が勃発、第一次世界大戦に突入することとなる。

(7)第一次世界大戦とオーストリア共和国の成立

オーストリア=ハンガリー帝国は第1次世界大戦でドイツとともに敗戦国となり帝国は解体される。戦後、オーストリア共和国となる。

 1914年6月、オーストリア=ハンガリー帝国の皇位継承者フランツ=フェルディナント夫妻が、セルビア人青年によって殺されるというサライェヴォ事件が起きると、オーストリア=ハンガリー政府はその背後にセルビア政府があると断定して、7月28日に宣戦布告した。同盟関係にあるドイツが同調し、セルビア側にはイギリス・フランス・ロシアの三国協商がついて宣戦し、第一次世界大戦に突入した。

帝国の解体 オーストリア共和国の成立

 しかしドイツの敗北に伴ってオーストリアも敗れ、1918年11月、オーストリア=ハンガリー帝国は解体し、ハプスブルク家の最後の皇帝カール1世は退位してスイスに亡命し、ハプスブルク帝国は終わりを告げた。旧帝国領から、ハンガリーチェコスロヴァキアポーランドセルブ=クロアート=スロヴェーン(後のユーゴスラヴィア)がそれぞれ分離独立を宣言し、それぞれ別個の国家を作った。これによってオーストリア共和国が成立したが、その領土は旧帝国の26.6%にすぎなかった。

サン=ジェルマン条約

 オーストリアは1919年9月、連合国諸国との講和条約としてサン=ジェルマン条約を締結し、南チロル地方とトリエステのイタリアへの編入を認め、さらにドイツとの合併は禁止されることとなった。同年10月、憲法制定議会は国号を「オーストリア共和国」とすることを決定した。

(8)ナチスドイツへの併合と第二次世界大戦

オーストリアでもナチスが台頭し、1938年にドイツに併合された。ドイツ第三帝国の一員として第2次世界大戦を戦い、敗れる。戦後は米英仏ソの4ヵ国の分割管理下に置かれ、1955年に主権を回復した。

ファシズムの台頭

 ヴェルサイユ体制を否定するオーストリア出身のヒトラーが、ドイツでナチ党を結成、1933年に政権を獲得すると、オーストリアでもファシズムが台頭した。当初、オーストリアのファシストはムッソリーニのイタリアに近かったが、1938年3月にヒトラーの脅迫に屈してドイツに併合された。

ドイツに併合される

 ドイツ第三帝国に組み込まれたオーストリアでは、ドイツと同様に国民の基本的人権と自由は奪われ、軍事優先の経済政策によって国民生活は圧迫され、また多数のユダヤ人が逮捕されてポーランドの強制収容所に送られた。

敗北と分割管理

 第二次大戦の末期、東部からソ連軍が侵攻し45年4月にウィーンを解放、また西部には米英軍がドイツ軍を追って侵攻した。こうしてオーストリアはドイツの支配から解放され、分離したが、ドイツと同じく米英仏ソの連合国4ヵ国によってオーストリア分割管理され、共同管理下に置かれることとなった。1955年、連合国諸国とオーストリア国家条約を締結して主権回復を認められるとともに永世中立を宣言した。

(9)永世中立国 オーストリア共和国

1955年、独立を回復し、永世中立国となる。1995年にはEUに加盟した。

 1955年にオーストリア国家条約で独立を回復、同時に永世中立となることを宣言した。同時に国際連合に加盟が認められた。また1995年にはヨーロッパ連合(EU)に加盟した。しかし、永世中立を宣言しているので、集団的自衛権を掲げるNATOには現在も加盟していない。
 現在のオーストリア国旗は右のような赤白赤が上から並んだものであるが、これは12世紀の辺境伯(オストマルク)だった時代の伝説をもとにしている。 → オーストリアの形成

極右政党の台頭

 現在のオーストリアはかつてのオーストリア帝国のような大国意識は無いが、それでも戦後かなりたった1990年代に右派の国家主義者が台頭し、オーストリアの栄光と「中欧」での覇権の回復を主張するような政治家が人気を集めてきたことが注意される。その背景には、ユーゴスラヴィアの解体などバルカン情勢が悪化して、多数の不法移民が入り込みんで治安が悪化したこと、また低賃金労働者の流入によって職を失った若年層の不満がある。そのような中で、移民受け入れ反対を主張したハイダー党首の率いる自由党が1999年の選挙で躍進し、自由党は連立政権入りを果たした。ハイダーはヒトラー礼賛(ヒトラーはオーストリア出身)を公言するような人物だったので、他のEU諸国が反発し、政治的交渉を凍結する処置に出る騒ぎとなった。その後、自由党は内部分裂したので一時の勢力が無くなり、現在は社民党と国民党の連立内閣となっている。
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ノートの参照
8章4節 キ.東ヨーロッパの新しい動き
第12章2節 カ.ドイツの統一
第14章2節 エ.列強の二極化とバルカン危機
第15章1節 ア.第一次世界大戦の勃発
書籍案内

加藤雅彦『ドナウ河紀行―東欧・中央の歴史と文化』
1991 岩波新書

河野純一
『ハプスブルク三都物語
ウィーン、プラハ、ブタペスト』
2009 中公新書

南塚信吾編
『ドナウ・ヨーロッパ史』
世界各国史19
1999 山川出版社