印刷 | 通常画面に戻る |

ジョン=ケイ

イギリスで1733年、織布用の飛び杼を発明し織機の能力を上げるのに成功した。しかし織工の反発を受け、不遇だった。

 ジョン=ケイ(1704~1764?)は、イギリス産業革命の初期の1733年頃、綿工業の織布工程で、飛び杼を発明し、織機の能力を大幅に改良した。
(引用)1733年、ランカシャーの時計師ジョン・ケイ(註)は、織機について簡単なしかし重要な改良を行い、それにより、車の上にのせられた杼(ひ)が弾機で叩かれて経糸の間を駆け抜けるようになった。この飛杼(fly shuttle)は労働力節約のための工夫であった。すなわちそれにより、織機の前に坐し弾機に結びつけられた紐を手にした一人の職工が、以前は男二人の働きを必要とした広幅の布を織りうるようになった。しかしこの考案はランカシャーの職工たちの反抗に遭った。それにおそらく、徐々にしか克服できない機会上の難点もあったのであろう、飛杼が一般的に用いられるようになったのは漸く1760年代以後のことであった。<アシュトン『産業革命』 岩波文庫 p.44>
(註)同一人物に注意 飛び杼を発明したジョン=ケイを時計職人とするのはアシュトンの誤り。このジョン=ケイより約30年後のランカシャーにいた同姓同名の時計職人ジョン=ケイと混同した。こちらのジョン=ケイは時計職人であったが紡績機械の改良に取り組み、1768年にアークライトに協力して水力紡績機を発明した。二人のジョン=ケイは織機(飛び杼)と紡績という違いはあるが、同じランカシャー出身、わずか30年の差なのでよく混同されるという。この件、iji kanbe さんからご指摘を受けました。ありがとうございます。参考 Wikipedia ジョン=ケイの項

Episode 発明家の不遇

 ジョン=ケイは、自分の発明した飛び杼の特許を1733年に取得した。これは織布工の生産効率を一挙に三倍にすると言われたが、織工たちには不評だった。かんたんに、しかも幅広の布を大量に織れるとなれば、熟練工が必要とされなくなるからだ。失業を恐れた彼らの反発を避け、ジョン=ケイはリーズの町に引っ越した。しかしそこでも織元が特許料を払ってくれないため困窮し、53年に帰郷したが、今度は暴徒に襲われ、危うく死を免れてフランスに渡った。ジョン=ケイは不遇のままフランスで死んだらしいが、その没年に?が付いているのは、最後はどうなったか判らないからだ。

飛び杼

イギリスのジョン=ケイが1733年に特許を取った、織機の横糸を通す装置。その発明によって織機の効率は倍増して糸の不足がもたらされ、紡績技術の改良を生んだ。

 ジョン=ケイが発明した「飛び杼」の杼(ひ)とは、綿織機の縦糸に横糸を通す道具。飛び杼は杼の内部に糸を巻き付けて、自動的に縦糸の間を通すように工夫したもの。この飛び杼の発明によって、布を織る速度がそれまでの2倍になったという。そのために綿糸が不足し、糸の生産(紡績)能力の向上の必要が出てきて、紡績機の改良を促し、1760年代のハーグリーヴズのジェニー紡績機の発明が生まれ、産業革命は本格化することとなる。

飛び杼(ひ)とは

 布を織るには、たて糸(経糸)とよこ糸(緯糸)を組み合わせていくが、そのときたて糸をうえ糸と下糸に分けて交差させて隙間を作り、その間によこ糸をわたす必要がある。そのよこ糸の先につけるのが杼(ひ)という道具で、シャトルという。手織機ではこの杼を投げ込んでくぐらせ、そのよこ糸を筬(おさ)という棒で押しつける。次に上糸と下糸を入れ替え、反対側から杼を投げ入れてよこ糸をくぐらせる。この作業をつづけていくが、杼を投げ入れる動作は織布の時間がかかる要因になっていた。
 ジョン=ケイが考案した飛び杼は、一種のバネのようなものを取り付け、ひもを引くと杼がはじかれて飛びだし、またひもを引くと戻ってくると言う装置であった。バッタンと呼ばれたこの装置によって、織手は杼を投げ込む動作をしなくともよくなり、空いた手をもっぱら筬打ちに使うことができたので、織布能率は大幅に向上し、さらに誰でも均一な布を織ることが可能になった。しかしそれは熟練した織工にとっては仕事がなくなることなので、歓迎されなかった。その後、1785年にカートライトが手回し動力でよこ糸を通す力織機を発明(4年後に蒸気機関によって動かされるようになる)するまで使われた。
印 刷
印刷画面へ
ノートの参照
10章1節 イ.機械の発明と交通機関改良