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産業革命(第1次)

18世紀中頃から19世紀初頭まで、イギリスに始まる機械制工場と蒸気力の利用を中心とした技術革新とそれに伴う社会の変化。

 産業革命(Industrial Revolution)は、18世紀後半のイギリスに始まる、綿工業(木綿工業)での手工業に替わる機械の発明、さらに蒸気機関の出現とそれにともなう石炭の利用という生産技術の革新とエネルギーの変革をいう。木綿工業から始まった技術革新は、機械工業鉄工業石炭業といった重工業に波及し、さらに鉄道蒸気船の実用化という交通革命をもたらすこととなる。このような工場制機械工業の出現という技術革新が産業革命の一面であるが、それは激しい社会変動を生みだし、資本家と労働者という社会関係からなる資本主義社会を確立させた。このような技術革新から社会変動に至った一連の変動を、産業革命と言っている。 → 大西洋革命  二重革命
 イギリスの産業革命  産業革命の波及  ベルギー  フランス  ドイツ  アメリカ  ロシア  日本

産業革命の時期

 産業革命の始まりの時期については諸説ある。技術革新はすでに18世紀初めのニューコメンの蒸気機関や、1730年代のジョン=ケイの飛び梭の発明、ダービー父子のコークス製鉄法などで始まっているが、最も一般的な開始時期とされるのは1760年代ハーグリーヴズアークライトの紡績機が現れ、ワットが蒸気機関の改良に成功した時期から、というものである(A.トインビー、アシュトンなど)。
 さらに、クロンプトンのミュール紡績機を経て、蒸気力を機械の動力に応用したカートライトの力織機によって工業生産が飛躍的に増大した1780年代を産業革命という「離陸(テイクオフ)」した時期とする考えも出されている(ロストゥ、ホブズボームなど)。
 そして、1830年代スティヴンソンの蒸気機関車の実用化によって鉄道が急激に普及した時期までを産業革命の時代とすることが多い。なお、この軽工業での機械の出現と石炭エネルギーの使用の開始(第1次エネルギー革命)をもって第1次産業革命というのに対して、19世紀末から20世紀初頭に起こった、重化学工業の成立と石油エネルギーへの転換を第2次産業革命という。
 なお、イギリス産業革命の意義とその時期については、現在までにさらに修正的な見解も出されているので、下のイギリス産業革命の再評価を参照して下さい。

技術革新の進展

 産業革命における工業生産技術の革新は、まず18世紀後半に軽工業の綿工業(木綿工業)から始まり、紡績(綿花から綿糸を紡ぐ技術)と織布(綿糸を織って綿布を製造する)の部門で競合しながら進んだ。同時に新しい動力として蒸気機関が生まれた。綿工業に必要な機械や製鉄業が次に発展した。また原料としての鉄、燃料としての石炭の採掘が平行して開発され、それらの原料や製品を市場に運ぶための交通機関の改良が行われた。産業革命初期には運河が盛んに建設されたが、次いで蒸気機関の交通手段への応用が開発され、1807年にはアメリカ人フルトン蒸気船を発明して帆船から蒸気船への転換をもたらし、さらにスティヴンソンが蒸気機関車(汽車)を実用化して1830年代に鉄道が普及、交通革命が起こった。これらが第1次産業革命の技術面での推移である。

産業革命の影響

 18世紀中ごろのイギリスでは、すでに資本主義社会は一定の成長を遂げており、世界市場も成立していたが、産業革命はそれらを確立させ、時代を近代へと推し進めた。産業革命は資本主義生産様式を確立させ、基本的な生産基盤を農業社会から工業社会へと転換させた。それに伴って人口の都市集中が起こり、イギリスではマンチェスターバーミンガムリヴァプールなどの新興都市を誕生させた。同時に労働者は無権利であったため、工場や鉱山でさまざまな労働問題が生起し、都市では貧困と不健康な状態が深刻な社会問題を発生させるようになった。そのような社会矛盾の進行に対して労働者自らが団結して権利を守ろうとして労働組合が結成され、労働者の地位の向上、あるいは解放を目ざす社会主義運動も起こってくる。

産業革命と植民地

 産業革命はイギリスをはじめとして西欧諸国から始まったが、そこで成立した企業は次第に資本の淘汰が進んで巨大化し、さらに大規模な原料供給地と市場を求めて、植民地獲得に向かうこととなった。これらの諸国の植民地獲得はすでに17世紀から進んでいたが、重商主義段階の特権会社による金銀や貴重な奢侈品、嗜好品の獲得と言った活動から、企業の自由競争のもとで、自国工業の原料を安価に獲得し、さらに自国工業製品を独占的に売りつける市場としての植民地の獲得をめざし、各国が競争する時代となっていく。南北アメリカ大陸、アフリカ、日本を含むアジアがその標的となったため、これらの地域にとっても大きな変動をもたらすこととなった。特に当初はインド産綿布がイギリスにもたらされていたが、イギリス産業革命によってその関係は逆転し、19世紀にはイギリスの工場制綿織物がインドに輸入されるようにインド農村の家内産業は破壊され、農村は綿花の生産に特化したモノカルチャーとなって貧困化が進むという大きな影響を受けた。 → イギリスの産業革命とインド

産業革命論争

 「産業革命」という用語は、1880年代にイギリスのアーノルド=トインビー(20世紀の有名な歴史家トインビー-『歴史の研究』で知られる-ではなく、同名のその叔父さん)が用いたのが最初とされている。それ以来、歴史概念として定着してきたが、近年はその変化を「革命」と捉えるほど急激で断絶的なものではなく、それ以前の遺産を受け継いだ「加速的な変化」という程度のものであったとか、18世紀末のイギリスの経済成長率はそれほど高くなかったとか、イギリス以外の上からの保護によるものまでも産業革命に含めるべきではない、などの「産業革命」否定論が出ている。しかし、同時に展開されたフランス革命とともに、近代市民社会を生み出した両輪として革命的な役割を果たしたことは否定できないと思われる。 →  参照 イギリス産業革命の再評価

産業革命と環境問題

 産業革命からほぼ200年近くが経過する過程で、化石燃料が新たなエネルギーとされたことによって、二酸化炭素の排出が増加し、地球的な規模での環境の悪化が明白になってきた。1970年代には環境問題が人類共通の課題として意識されるようになり、国連人間環境会議が開催された。その歩みは石油ショック後の低成長期に停滞したが、1992年に国連環境開発会議が開催され、地球温暖化砂漠化に対する国際的な取り組みが始まった。しかし、工業化を推進してきた先進工業国と、これから工業化を遂げていこうという開発途上国の間には、南北問題という、認識のずれと対立があり、まだ有効な共通する対策を講じるところまでは至っていない。

イギリスの産業革命

1760年代に世界で最初の産業革命がイギリスで展開された理由、背景、およびその影響についての従来の説明はつぎのようなものであった。

イギリスで始まった理由と背景

 産業革命がなぜ最初にイギリスで起こったかについては、次のような諸条件が考えられる。
  1. 海外植民地をすでに広く所有し、工業製品の市場をすでに持っていたこと。
  2. 農村毛織物工業、三角貿易(その中の黒人奴隷貿易)などによって、すでに資本の蓄積が進んでいたこと。<
  3. 囲い込み運動農業革命の進行によって、賃金労働者が生まれる素地が出来ていたこと。
  4. イギリス革命以来、議会制度が定着し、市民の自由な活動が認められる社会であったこと。
 また、イギリス産業革命の背景となったこととして、次の3点が考えられる。
  1. 石炭鉄鉱石という資源に恵まれていたこと。(ただしイギリスだけが地下資源に恵まれていたわけではない。)
  2. イギリス経験論哲学の系譜の中で、科学的知識が普及していたこと。(ただし多くの発明家は学者ではなく、職人から生まれた。)
  3. 重商主義時代以来のロンドンのシティイングランド銀行などの金融市場が発達していたこと。
 これらの条件と背景のもとでイギリスは18世紀後半から産業革命の段階に入り、19世紀中葉までには、「世界の工場」と言われて、世界の工業生産力の中で大きな地位を占めることとなった。 → イギリス(6) 
注目すべき技術革新 高校教科書でイギリス産業革命の技術革新として定番となっている著名な発明以外にも、重要で興味深いものも少なくない。定番以外の技術革新で知っていた方が良いのは次のようなものがある。
・1759年 ウェッジウッド 陶磁器の製造所を開設。
・1761年 ブリンドリー ブリッジウォーター運河を開削。
・1789年 ボールトン、ワットに協力し最初の蒸気力紡績工場を作る。
・1807年 モーズリー 卓上蒸気機関を考案。
・1815年 マクアダム 馬車用の有料高速道路を建設。
・1825年 リチャード=ロバーツ 自動ミュール紡績機を考案。
 その他、技術革新には「マクロの発明」だけではなく、「ミクロの発明」とも言うべき多数の無名の職人の関わりがあったことも忘れてはならない。<参考 長谷川貴彦『産業革命』2012 世界史リブレット 山川出版社 p.3 p.44~>

産業革命期のイギリス社会

 産業革命についての古典的著作である、T.S.アシュトン『産業革命』では、18世紀後半のイギリス社会の変貌を次のように説明している。
(引用)ジョージ3世の即位(一七六〇年)からその子ウィリアム四世の即位(一八三〇年)に至る短い年月の間に、イングランドの相貌は一変した。幾世紀もの間、開放耕地(open field)として耕され、共同牧地(common pasture)として放置されていた土地は、すっかり囲い込まれてしまった。小さな村々は人口豊かな年に成長し、古い教会の尖塔は、林立する煙突の中で、もはやチッポケな存在でしかなくなった。……(道路は堅固で幅広いものになり、諸河川は運河で結ばれ)……北部では、新しい機関車が走るために最初の鉄製軌道が敷かれ、河口や海峡には定期蒸気船が通い始めた。
 それに平行して、社会の構造にも変化が生じた。人口は著しく増大し、児童や青年の占める割合が増加したように思われる。新しい社会の成長は、人口密度の重心を南東部から北部およびミッドランドに移行せしめた。企業心に富んだスコットランド人を先頭に、いまなおつづいているあの移入民の行列がやってきた。工業的熟練には乏しいがしかしたくましいアイルランド人の洪水のような流入は、イギリス人の健康や生活様式に影響を与えずにはおかなかった。農村に生まれ、農村に育った男女が、……工場における労働力の単位として、そのパンを稼ぐようになった。作業は一層特殊化され、新しい型の熟練が陶冶され、若干の旧い型の熟練は失われていった。……
 それと同時に、新しい原料源が開発され、新しい市場が開かれ、新しい商業手段が考え出された。資本の量も、その流動性も増大し、通貨は金をその基礎におくようになり、銀行制度が誕生した。多くの旧い特権や独占が一掃され、企業に対する法律上の制約は除去された。国家の果たす役割はますます消極的なものとなり、個人や任意団体がより積極的な役割をつとめるようになった。革新と進歩の思想が、伝統的諸観念を掘り崩した。人々は過去よりもむしろ未来に眼を注ぐようになり、社会生活に関する彼等の考え方はすっかり変わってしまった。……<アシュトン/中川敬一郎訳『産業革命』岩波文庫 p.9>

産業革命観の変化

 最近の「産業革命」研究の動向の一つとして近刊の川北稔『イギリス近代史講義』(2010 講談社現代新書)から抄録しておきます。
何故イギリスが最初だったか  世界で最初の工業化が、なぜイギリスで起こったか。この古典的な問題には、生産活動の観点から、技術革新や資本形成、労働市場の問題などとして論じられてきた。しかし、つくられたものが誰に、なぜ買われたのか、という消費の観点から見る必要があるのではないか。本格的な産業革命のはるか前に、庶民の生活基盤が農村から都市に移っており、生活用品である綿織物や食器(陶磁器)の需要が急増していた。当初はそれらをアジアから輸入していたが、需要が増えたことから国内生産が行われるようになった。つまり輸入代替過程で産業革命がおこったと言える。また鉄は16世紀まで木炭を燃料に盛んに作られていたが、木炭の原料とされた森林が伐採され尽くしてイギリスでは作れなくなり、スェーデンやロシアから輸入した。しかし鉄の需要はさらに増しマーケットが拡大したため国内での生産の必要が高まり、コークス法の出現の背景となった。<川北稔『イギリス近代史講義』2010 講談社現代新書 p.158-166>
イギリス産業革命と奴隷制 イギリス産業革命の背景には西インド諸島・アフリカ西海岸を結ぶ黒人奴隷貿易と密接な関係があった。産業革命の始まりである綿工業の機械化は、綿織物の需要の急増を要因としていた。当初はインド産の綿織物を輸入していたが、需要が増大したため、綿織物の国内生産が始まる。その時、原料の綿花はまず、西インド諸島からもたらされた。その西インド諸島の綿花生産は黒人奴隷労働によるプランテーションで行われたので、黒人奴隷労働力がさらに必要となり、黒人奴隷貿易がさらに盛んになった。このようにイギリス産業革命は黒人奴隷貿易と不可分に結びついていた。イギリス産業革命を単なる技術革新の歴史としてみるのではない、このような視点は、西インド諸島のトリニダード=トバゴ出身の歴史家エリック=ウィリアムズが『資本主義と奴隷制』で示したもので、現在ではウィリアムズ=テーゼとして重視されている。なお、ウィリアムズはトリニダード=トバゴ独立運動の指導者で、独立後も首相を長く務めた人物であった。<同上 p.167-171>
イギリス産業革命の資金源 イギリス産業革命は黒人奴隷貿易と密接に関係するが、奴隷貿易で蓄積された資本が産業革命の資金になったとはいえない。奴隷貿易業者が綿織物製造業に転身したり、資金を提唱したという実例はない。また従来言われていたような毛織物業者が資本を蓄積し綿織物業者になったと言うことも実証することは困難である。ロンドンのシティジェントルマンの金融資本が綿織物業に乗り出したとか出資したと言うこともない。ジェントルマンは製造業に直接関わることは原則としてなかった。それでは資金源は何であったか。結論は、産業革命当初は莫大な資本は必要が無く、機械を発明した人がパートナーシップによって集めた自己資金で十分であった、ということである。工場用地はジェントルマン(地主)から安く借りた。なお、当時は株式会社は禁止されていた(1720年の南海泡沫事件でバブルがはじけて以来、一般の株式会社は認められなかった)、そのような資金調達もなかった。<同上 p.171-176>
産業革命におけるジェントルマンの役割  では、イギリスが他の地域よりも早く産業革命を達成できたのは、資金関係ではどのような条件があったのか。それは他の国に先駆けて一国単位での社会的間接資本が整備されたこと、特に道路、河川、運河が整備されたことである。道路・河川・運河はいずれも通行料を徴収したから収益を産む。そのような道路整備や河川改修、運河開鑿に出資したのは地主ジェントルマンであった。つまり、ジェントルマンの資本は交通事業という公共事業に投資され、それが原料や製品、労働者の移動などを円滑に行えたという側面があった。産業資本家自身は道路や運河には出資しなかった。それは投資した資本の回収に時間がかかり、また公共性があるところから21年たつと無料にしなければならなかったからである。ジェントルマンはステイタスとして道路や運河の建設に積極的だった。<同上 p.177-179>
悲観説と楽観説 「産業革命」と言う概念を最初に用いたとされるトィンビー(『歴史の研究』で有名な歴史家ではなく、その叔父の方)は、この革命によって農村の家族を書くとしたコミュニティーは崩れ、ドライな人間関係の中で、労働者の貧困は増大していく、という悲観論を転化した。またこのようなイメージは産業革命の影響として労働問題や都市問題の発生を取り上げるように、常識化している。それに対して、産業革命機の賃金や物価の変動を数量的に研究して、生活の困窮やスラム化が実証できるか、という研究が進んだ。それによると賃金はむしろ上昇し、生活状態も一概に悪化したと言えないという、楽観論も出てきた。たしかに産業革命→都市化→スラムの発生という単純な図式は成り立たない。例えば、スラムが発生したのは産業革命の起こったマンチェスターではなく、消費地のロンドンだった。悲観論、楽観論の論争は現在も尾を引いているが、図式的な悲観論、数量依存の楽観論にはいずれも限界があるのではないか。<同上 p.186-188,213>
第1次産業革命と第2次産業革命  19世紀終わりになると、アメリカとドイツで重化学工業を中心とした第2次産業革命が始まる。第2次産業革命にイギリスが乗り遅れたのは、第1次産業革命があったため、出来上がってしまったシステム、産業構造にしばられたためだ、という議論があるが、それは間違っている。まず産業革命の時期を各国毎に第1次、第2次があったとするのは意味がない。高校世界史で、ドイツやアメリカの第1次産業革命がイギリスに続いて起こったと説明されているが、実はこの両国での第1次産業革命(軽工業の機械工業化)は存在していない。ドイツとアメリカの二国は最初から重化学工業の産業革命から始まった。一国発展史として理解するのではなく、世界システムとして捉え、第1次産業革命はイギリスが中心となって展開され、第2次産業革命はアメリカ・ドイツが主となって起こり、イギリスは目立たなかった、と理解した方がよい。<同上 p.216-218>
早すぎた産業革命とイギリス衰退論  第二次世界大戦後の1960年代から、ドイツ・日本のめざましい復興や第三世界の台頭に比べてイギリス経済の停滞、国際的プレゼンスの後退が目立ち始め、「イギリス衰退論」(イギリス病)が盛んに論じられるようになった。歴史学の面ではその答えとして、「早すぎたブルジョワ革命」、「早すぎた産業革命」という考え方が出てきた。前者はブルジョワ階級が十分成長していない段階のブルジョワ革命が不徹底に終わったという考えであり、後者は第1次産業革命が早すぎて産業構造も、技術も、教育も、陳腐化した古いシステムに縛られてしまい、その後の制度の改変や技術の開発がなおざりになってしまった、という考えである。固定化したイギリス社会では地主つまりジェントルマンの価値観(労働や生産よりも文化や社会奉仕に価値を見いだす)が色濃く残ってしまっている、という議論であった。<同上 p.186-188>232,235
ジェントルマン資本主義論  イギリスでは名誉革命を境に、イングランド銀行が創設され、金融市場が成立して、国債の発行が容易となり「財政革命」が達成されると、しだいに国債や抵当証券などの証券投資をする者がふえはじめ、国債で戦争し、国債の償還を重税でまかなうという「財政・軍事国家」となっていった。戦争が勝ち続ければ貿易商、植民地関係者、国債保有者は政府を支持し、重税への不満は抑えられてしまう。こうして証券投資を主な収入源とする富裕層が出現、彼らは「マネド・マン」(金貸し)とよばれて、ほんとうのジェントルマンではなかったものの、産業革命を経た19世紀中ごろからロンドンのシティのマネド・マンたちこそがジェントルマンである、とみなされるようになった。こうしてジェントルマン資本主義がシティの金融界に体現されるようになった。田舎で狩りをしているのがジェントルマンではなく、シティで山高帽と黒い服を着てステッキをもって闊歩するのがジェントルマンである、となったわけである。そしてシティのジェントルマンは圧倒的に強い政治力を持っていた。<同上 p.241>
ジェントルマン資本主義の功罪  イギリス資本主義を支えたのは産業革命や製造業などの産業資本家ではなく、初めは土地という資産を貸し付けて利益を得、後にはシティで金融業や海運などのサービス業に従事していたジェントルマンであった、というのがジェントルマン資本主義論である。彼らは自由貿易主義を貫き、国内の製造業の保護、育成に熱心でなかった。帝国主義段階になってドイツの工業化が進んだことから、チェンバレンが特恵関税を導入したときもシティは強硬に反対し、実現しなかった。そのことが、後のイギリス産業の停滞、いわゆるイギリス病の一因だと指摘する説もある。ウィーナーというアメリカの学者は、ジェントルマン精神として、製造業の軽視を挙げているが、事実オクスフォードやケンブリッジを卒業した人はメーカーに就職せず、証券会社、保険会社、銀行が就職先では最も良しとされている。ウィーナーはそのようなジェントルマンの価値観がイギリスの衰退の要因であると指摘し、労働組合保護や社会保障に力を入れる戦後のイギリスの基本政策も、チャリティー精神を重視するジェントルマン精神から来ていると論じた。このようなイギリス衰退論は、サッチャー政権に影響を与え、規制緩和や民営化というブルジョワ革命をやり直すのだという新自由主義政策が実行された。そしてサッチャーの登場と、金融ビックバンによってシティのジェントルマン資本主義は終わりを告げ、新自由主義の拠点へと変質した。<同上 p.237-246>
衰退観・成長パラノイアからの脱却  しかしサッチャーの新自由主義でイギリスの工業は回復することはなかった。サッチャー後の現在の歴史学の見方では、果たしてイギリスは衰退していたのか、という反省がなされているが、そもそも衰退を意識するのは、近代以降の我々が経済成長こそが目的であると信じて疑わない「成長パラノイア」に罹っているためではないか。世界史の実態を学ぶことによって、そのような衰退観や成長パラノイアから脱却することが可能になるのではないだろうか。<同上 p.84,248-250>

イギリス産業革命の再評価

 山川出版の詳説世界史(2013版)は、産業革命について、欄外の注で
「ただし、1780~1801年になっても、イギリスの国民生産の年成長率は1.3%程度しかなかったとされている。」
としている。これは1980年代に学会で盛んになった「産業革命神話の否定」という論調を受けている。その論調が高校教科書に影響を及ぼしている(他社の教科書ではあまり見かけないが)ということであるので、知り得た限りで紹介しておこう。手頃な解説が近藤和彦氏が同じ山川出版社から出している『文明の表徴 英国』(1998)にある。以下、その抜粋。<近藤和彦『文明の表象 英国』1998 山川出版社 p.152-160>
(引用)古い教科書は、1760年代に内部発生的に、かつダイナミックに「産業革命」なるものがはじまり、ただちにイギリス全国を「悪魔のごとき工場」と煤煙と産業資本主義がおおったかのように描いていた。こうした産業革命の古典的神話のイメージ形成に寄与したK.マルクスもA.トインビもP.マントゥーも、じつは革命的な変貌ばかりをとなえたのではなく、その「前史」「原始的蓄積」を重視していた。だが、その前史は国内要因の発達だけで説明されることがあまりに多く、また近代史の画期という点が、イギリスの景観と社会構造の一変と結びつけて強調されていた。<近藤『文明の表象 英国』p.156>
産業革命否定説 古典的神話に対する実証的な批判は、戦後の計量史学における二波にわたる修正によってすすんだ。第一波の1962年のP.ディーンとW.コール共著の『イギリスの経済成長』では、国民経済の成長率は1770年代にいたるまで年0.65%前後を低迷し、80年代にようやく2%をこえ、19世紀に3%に達したとした。それによれば成長の画期は60年代ではなく80年代とみなさざるをえなかった。さらに第二波にあたる1983年のN.クラーフツは、論文で1780年から世紀の終わりまでについても成長率は年1.3%を越える程度であり、一人あたりなら0.35%で、19世紀の最初の30年間にようやくそれぞれ1.97%、0.52%という実に低い数字をあげた。この数字を根拠としてイギリスにおける産業革命という概念じたいを否定する説が一定の説得力を持つようになった。
産業革命論の再構築 近藤氏は産業革命神話を克服するには、第一に自生的な生産力(技術革新による供給増)が歴史を変えたという生産力史観から自由になることを提唱する。教科書にはよく「技術革新の一覧表」が載っているが、需要がなければ発明も技術の普及もない。第二には、産業革命はイギリス一国のなかで発生したのではなく、世界のしくみの画期とみるべきであるという。そしてイギリス産業革命の前提としてその国の市民革命を想定する「講座派・一国段階論」は避けたい(講座派・一国段階論とは大塚久雄氏に代表される見解)としたうえで次のように提唱する。
(引用)産業革命とよばれてきた現象は、一国民経済の出来事と言うよりも、ヨーロッパや東アジアといった一定の広域で、諸国家が競合しつつ産み出されたものである。あらためて言うまでもなく、前提にあった18世紀世界も、結果として生まれた19世紀世界も、けっして単層的な世界ではない。世界資本主義は重層的に出来上がった。<近藤『文明の表象 英国』p.158>
19世紀世界の三層構造 重層的な19世紀世界とは次のようにまとめることができる。
(1)イギリスと西欧の都市部 世界経済の中心としてイギリスが「世界の工場」を形成する。都市は大変貌を遂げたが田園の景観は維持された。産業と金融、地主階級の結合が経済の動因であり、19世紀半ばにパクスブリタニカが現象し、中核に自由主義が根付いた。
(2)フランス・ドイツ・アメリカ合衆国はイギリス工業製品の洪水と自由主義の威力を感じながらそれに対抗し、関税その他によって国民経済の保護育成に努めた。これら「対抗群」資本主義国ではイギリスあるいは「啓蒙」をモデルにした近代派と、文明の普遍性と進歩への疑念から国民文化の保守をうたう浪漫派が力を持つようになった。
(3)周辺の諸地域はイギリスやこれと競合する資本主義の需要に左右され、モノカルチャないし従属経済を強いられた。二重革命の時代に国家主権を確立できなかった地域は植民地として従属し、イギリス工業と競合した部門は解体された。クレオール革命によって独立したラテンアメリカ諸国は国家主権を維持したが経済的には原料供給地、製品市場と化した。
(引用)かくしてイギリスを中心として、18世紀よりもさらに広大にして緊密な世界の三層構造ができた。19世紀の近代世界とは、そうしたイギリスの資本主義を頂点とするグローバルな支配・従属の構造化である。二酸化炭素の大気への排出も増えてしまった。このような世界史の画期となった産業革命には、たとえ国内生産の成長率が年に1%であろうと、「革命」という名がふさわしい。ゆっくりと大きく、かつ不可逆的に人類史が転換したのである。<近藤『文明の表象 英国』p.160>

エネルギー革命としての再評価

 近年、産業革命の中心にエネルギー革命を位置づける説が急速に支持を集めている。それによれば、産業革命以前にあっては、人口と産業の成長は天然資源と土地によって制限され、衣食住・燃料・動力という経済活動の基本的要素が主として植物や動物に依存し、土地の生産性に製薬されていた時代であり、「有機物依存経済」であった。それに対して産業革命は、薪炭にかわって石炭コークス、人力や畜力、水力、風力にかわって蒸気力という「鉱物依存経済」への移行の画期となった。その結果、人口と産業の成長の足かせとなっていた要因(いわゆる「マルサスの罠」)が除去され、「人口の増大と経済成長を調和的なかたちで進行させることが可能になった」エネルギー革命こそが産業革命のもたらした最大の変化であったととらえる。ポメランツは産業革命とは「協業化以前の停滞した定常状態を、予期しないかたちで突然に脱したできごと」と主張し、人類史の大きな分水嶺ととらている。
有機物依存経済から鉱物依存経済へ 16世紀のロンドンでは家庭内暖房のため利用されていた木材価格が上昇し、代替エネルギーとして石炭が注目されるようになった。イギリスでは豊富な石炭資源があったため、1700年から1870年まで急速に増加したエネルギー消費量はほとんど石炭によって供給された。しかし、18世紀段階のイギリスの工業化は繊維産業における水力紡績機にみられるように、まだ「有機物依存経済」の枠組みにとどまっていた。また交通でも運河は開削されたが、船を引くのは馬力が利用されていた。それに対して、蒸気機関を中心とする一連の技術革新が進んだ結果として起こった19世紀初頭の工業化の急速な進展は、鉄道と蒸気船の登場(交通革命)とともに、「鉱物依存経済」への転換を告げるものであった。<長谷川貴彦『産業革命』2012 世界史リブレット 山川出版社 p.3-4、p.55~62>

産業革命の波及

1830年代以降、産業革命はイギリス以外にも波及していった。それぞれの地域による質の違いはあるが、工業化を達成した諸国と非工業化地域の格差が広がった。

イギリス以外の産業革命

 18世紀後半、一般的に60年代から進展したとされるイギリスの産業革命は、さまざまな条件の下でいち早く技術革新を成し遂げ、工業社会への転換を際最初に図った。当初イギリス政府はその技術が他国に流出することを喜ばず、1774年には機械輸出禁止令を出し、他国や植民地への機械輸出と技術者の渡航を禁止した。翌年アメリカ独立戦争が勃発、続いてフランス革命ナポレオン戦争という激動の時代を経て、1825年にその一部を解除し、43年には全面廃止した。
 これによってほぼ1830年代からヨーロッパの他の国での産業革命が開始され、まず1830年に独立を達成したベルギーの産業革命が産業革命の段階に入った。さらに七月王政時代のフランスの産業革命が続き、ついで40年代にドイツの産業革命が、60年代にアメリカの産業革命が産業革命期を迎えた。ドイツとアメリカの産業革命は、当初から重工業部門を中心としており、はじめから第2次産業革命としての性格を有していた。
 ロシアの産業革命はようやく1960年代に農奴解放によって社会の近代化をはかり、先進国の技術を採り入れて上からの産業革命を進め、1890年代に工業化が進んだ。日本の産業革命は1868年の明治維新で近代化の歩みを始め、西洋諸国に学びながら工業化を進めたが、一挙に産業革命段階にはいるのは、やはり90年代以降の日清戦争・日露戦争の時期であった。このように、イギリス以外の国では、内在的に行われたのではなく、イギリスの技術を学びながら国家的な事業として展開されたということができる。

ベルギーの産業革命

イギリスに次いで早く、独立とともに1830年代に始まった。

 ベルギーはかつてのネーデルラントの南部諸州のこと。北部ネーデルラントがスペインから独立した後もスペイン領としてとどまった。1815年、ウィーン会議の結果、オランダに併合され、ウィーン体制下で独立運動が始まり、フランスの七月革命の影響のもと、1830年にベルギーの独立を達成し、翌年国際的に承認され、立憲君主国となった。
 独立を達成したベルギーはフランドル地方の北部を含んでおり、その地は中世以来の毛織物産業の中心地であり、アントワープ(現在のアントウェルペン)やガン(現在のヘント)、ブリュージュ(現ブルッヘ)などの商業都市が発達し、資本の蓄積が進んでいた。また南部のリエージュ付近は石炭などの資源も豊富であったので、独立と同時にイギリスに次いで産業革命を達成することができた。これらはベルギーがイギリスに最も近く、経済的関係が密接であったこととともに、ヨーロッパの大陸諸国に先駆けて産業革命を達成した理由であった。1840年代には鉄道が普及し、これもヨーロッパ大陸国家で最も早い普及を達成した。
 現在もベルギーは小国ながらヨーロッパ有数の工業国となっている。また、19世紀には、レオポルド2世によるアフリカのコンゴに対する植民地支配(ベルギー領コンゴ)が行われ、帝国主義政策を推進する。 → ベルギー(3)

フランスの産業革命

1830年代の七月王政の時期に進行し、60年代に完成した。

 フランスの産業革命は、1830年代の七月王政の時期に始まり、60年代のナポレオン3世の第二帝政の時期に完成した。イギリスで産業革命が展開された18世紀末から19世紀初頭、フランスはフランス革命からナポレオン時代という革命の時期であったが、この間フランスはイギリスの工業製品に関税をかけて流入を防ぎ、自国の産業の発展を図ったが、フランス革命で自立した小農民はイギリスのように賃金労働者化することが無く、また商業資本の蓄積も進んでいなかったので、産業革命は遅れることとなったと、考えられている。フランスで産業革命が始まるのは、1830年に復古王政が倒され、ルイ=フィリップ(株屋の王と言われた)のもとで七月王政が成立して商業資本の育成がはかられた時期からである。

フランス産業近代の遅れ

 フランスの産業革命は1830年代から始まり、40~50年代に一定の進行をみたが、イギリスと比較すれば、技術的にも大きく遅れており、大部分は手工業的小企業にとどまっていた。蒸気機関を備えた工場も少なく、依然として木材燃料が主力だった。このようなフランス工業化の停滞の原因は、国内産業が政府の保護貿易政策に守られ、輸入品との技術か閣僚面での競争がなかったこと、フランスに固有な小土地所有農民を主体とする農村の未分化と保守的体質にあったと考えられている。

ナポレオン3世による自由貿易への転換

 このような遅れの解消の必要は早くから指摘されていたがナポレオン3世だった。第二帝政の前半の50年代にクリミア戦争の勝利などで国民的な人気を博したナポレオン3世は、彼自身が古典派経済学やサン=シモン主義の影響を受け、フランス産業の発展には保護貿易から自由貿易主義への転換が必要と考えていたようで、腹心のサン=シモン主義者シュヴァリエをイギリスの自由貿易主義者コブデン(下院議員)と交渉させ、1860年に議会に反対されることを見越して、皇帝大権で英仏通商条約を締結した。これによって、フランス産業はイギリス工業と競争を余儀なくされ、技術革新とエネルギーの転換、賃金労働の創出、銀行の整備(フランス銀行の統制のもとでクレディ=リヨネなどの預金銀行が成長した)、フランスの鉄道・通信網の整備などが進み、60年代はフランス産業革命の完成期となった。一方、一部の伝統産業を除き、特に綿工業などでの手工業的小企業は淘汰され、姿を消した。

ドイツの産業革命

1840年代にラインラント地方を中心に、重工業部門から産業革命を進行させた。

 19世紀前半のドイツ連邦は各邦国が主権国家として独自の政治と経済政策を持ち、相互に関税を掛け合うなど、統一的な経済圏として発展する基盤に掛けていた。そのため、産業の発達、工業化も遅れ、イギリス工業製品を一方的に輸入し、輸出は依然として小麦などの農作物であるという状態が続いていた。連邦の中でオーストリアと主導権を争っていたプロイセン王国は、1834年にドイツ関税同盟を結成して、同盟国間の関税の廃止、自由通商に踏み切り、ようやく工業化の端緒をつかんだ。それによって、1840年代にラインラントを中心に工業化が進み、産業革命の段階となった。ドイツの鉄道も1835年に始まり、40年代に急速に普及した。その結果、鉄鋼・石炭の需要が急増し、同時に工業の中心地が東部のシュレジェンから西部のラインラント、ルールやザールに移った。
ドイツの産業革命の特色 綿織物などの軽工業はすでに高度な工業化を遂げていたイギリス製品に太刀打ちできなかったので、最初から製鉄、機械などの重工業に力を入れ、また鉄道や道路建設を私企業ではなく国家的事業として推進したことであった。つまり、ドイツは第1次産業革命を経ることなく、重工業部門を中心とした第2次産業革命から始まったと言える。このような国家的な工業化路線は、ドイツ連邦の分裂した政治体制のもとでは困難であったので、プロイセンを中心としたドイツ国家の形成と並行して進められた。プロイセンの優位が確立したのは1866年の普墺戦争であり、さらにビスマルクのもとで軍国主義路線を明確になった。ビスマルクはフランスを普仏戦争に巻き込んで、アルザス・ロレーヌの工業地帯・資源を獲得し、ドイツ重工業の基盤を拡充した。

アメリカの産業革命

米西戦争(1812年戦争)で工業化の端緒をつかみ、南北戦争後の1860年代に工業化を急速に進行させた。

 アメリカ合衆国は、独立後もイギリス経済依存体質が続いており、工業製品は意義椅子から輸入し、綿花などの商品作物をイギリスに輸出することで経済を成り立たせていた。南部の綿花生産地帯では、1793年のホイットニーが考案した綿繰り機が使用され、大農園(綿花プランテーション)で黒人奴隷労働による綿花栽培が発達していた。また、アメリカ政府は保護貿易政策で自国の産業の育成をはかり、イギリスからの移民が新たな工業機械をもたらしたことによってボストンなどのニューイングランド地方で工業化の端緒がみられた。1807年にはイギリスから帰国した発明家フルトンがハドソン川で蒸気船を運行させることに成功し、ヨーロッパからの移民も急増し、ボストンやニューヨークは商工業都市として発展していった。

米英戦争での産業自立

 アメリカ合衆国が経済的に自立する転機となったのが、第2次独立戦争とも言われる1812~14年のアメリカ=イギリス戦争(米英戦争、1812年戦争)であった。この戦争によってイギリスとの貿易が中断し、工業製品の輸入が減少したので、自国の工業生産を増大させることに迫られ、産業の自立の端緒をつかんだ。北部の大西洋岸のニューイングランドでは南部の綿花を原料として、木綿紡績工業が起こり、ボストンはその中心地として栄えるようになった。また、イギリス海運業に対抗するための、造船業・海運業も自前で育成しなければならなくなった。

南北戦争後の工業化

 北東部では綿工業に次いで、1830年代から機械工業もおこってきた。その間、国土を西方に拡大したが工業の発達した北部と奴隷制大農園経営を維持しようとする南部の対立が深刻となり、1860年代に南北戦争という大きな試練を迎えた。南北戦争が北部の勝利で終わったことにより、工業中心の国作りを目ざすこととなり、1860年代に本格的な産業革命を展開した。アメリカ合衆国は広大な国土と資源に恵まれ、特に東海岸や五大湖地方の工業地帯が急速に発展して、鉄道建設は1869年に大陸横断鉄道が完成し、ピークを迎えた。またアメリカ議会は北部の主張であった保護貿易主義をとり、産業界を保護するためくり返し関税率の引き上げを行った。
 このような保護策のもとで、ロックフェラーによる石油産業、カーネギーによる製鉄業など、工業化が急速に進んだ。またその労働力として、はじめヨーロッパから、ついでアジア各地から大量の移民が移住し、多民族国家アメリカ合衆国を形成することとなった。その結果、東部のニューヨークを始め、中西部のシカゴ、西部のサンフランシスコ、ロサンジェルスなどの大都市が出現した。反面、大都会では金銭的利益を追求する風潮が強くなり、金ぴか時代と揶揄される面もあった。
 こうしてアメリカの産業革命はドイツと同じように最初から第2次産業革命(重工業中心)として始まり、19世紀末までにイギリスを追い抜いて世界第1位の工業生産力を持つとともに国内では資本の集中が進行して帝国主義段階を迎え、第一次世界大戦後にはアメリカ資本主義が世界を席巻することとなる。

ロシアの産業革命

農奴解放令後の近代化政策により準備され、1890年代に進行した。

 ロシアはクリミア戦争の敗北に衝撃を受けたアレクサンドル2世が1861年に農奴解放令を出し、上からの近代化が始まり、産業革命も上からの保護のもとに展開されることとなった。1890年代に産業革命期を迎え、工業化が進展したが、農民の劣悪な状態が続くなどツァーリズムとの矛盾が多く、20世紀にはいると日露戦争の敗北、第1次世界大戦の長期化などの中で革命運動が起こり、資本主義社会の十分な生育を見ないままに、1917年のロシア革命(第2次)で一気に社会主義を実現させようとした。

日本の産業革命

1890年代~20世紀初頭に日清・日露戦争によって進展した。

 日本は1854年に開国して世界資本主義のなかに放り込まれた。1868年に明治維新を達成、権力をにぎった藩閥政府は、殖産興業政策によって急速な近代化を進めた。その特徴は「富国強兵」路線と結びつき戦争とともに産業発展を実現したことであり、1894年の日清戦争での清からの賠償金などを元手に第1次産業革命(軽工業中心)を展開させ、1904年の日露戦争によって一気に第2次産業革命(重工業中心)に突入していった。しかし、その段階にいたっても農村社会は依然として封建的な地主・小作人制度が残り、国内市場は十分に成長していなかった。そのため、海外に資源と市場を求めるという帝国主義に容易に転じていくこととなってしまった。
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ノートの参照
10章1節 ア.世界最初の産業革命
10章1節 イ.機械の発明と交通機関の改良
10章1節 ウ.資本主義体制の確立と社会問題
書籍案内

アシュトン/中川敬一郎訳
『産業革命』
岩波文庫

長谷川貴彦『産業革命』
世界史リブレット 116
2012 山川出版社

川北稔
『イギリス近代史講義』
2010 講談社現代新書

川北稔・木畑洋一編
『イギリスの歴史 帝国=コモンウェルスのあゆみ』
2000 有斐閣アルマ

角山榮/村岡健次/川北稔
『産業革命と民衆』
生活の世界歴史 10
2014 河出文庫版

近藤和彦
『文明の表象 英国』
1998 山川出版社