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ギロチン

ギロチン

フランス革命で、ギヨタンが発案した新しい処刑施設である断頭台のこと。1792年にはじまり、ルイ16世やマリー=アントワネットの処刑にも用いられ、特にジャコバン派独裁の時期に多用されて恐怖政治の象徴となった。その意図は身分にとらわれない平等な方法と、人道的で迅速な処刑とにあった。フランスでは革命後も20世紀まで処刑方法として用いられていた。

 発案者とされるギヨタン Guillotine (英語読みでギロチン)は医学博士で、衛生問題に詳しく、フランス革命がはじまって発足した国民議会(憲法制定議会)の議員であった。人権宣言が発布されたことを受け、それまで貴族は斬首、平民は縛り首というように身分によって異なっていた処刑方法を平等にし、あわせて苦痛を伴わず、迅速に処刑できる方法の採用を訴え、新しい断頭施設を考案した。1792年に立法議会はその処刑法を採用、広く行われるようになって、その断頭台はギロチンと言われるようになった。この方法は手間がかからず、即死させることができるので盛んに行われるようになり、1793年1月のルイ16世の処刑や、同年10月のマリ=アントワネットの処刑もギロチンが用いられた。特にジャコバン派の恐怖政治では多用された。ギロチンによる死刑の執行は、フランス以外でも行われるようになり、さらにフランスでは革命後もギロチンによる公開処刑が続いた。次第にその残忍さが認識されるようになり、公開処刑は行われなくなったが、フランスでは非公開のギロチンによる処刑は、1970年まで行われており、1981年の死刑廃止まで存在した。

処刑法の平等化が目的

 1789年8月26日に発布された人権宣言は、第1項で「人間は自由で権利において平等なものとして生まれ、かつ生きつづける」と宣言した。それを受けて、10月9日、国民議会(憲法制定議会)議員のギヨタンは、社会的地位の如何にかかわらず、処刑の方法は万人に共通であるべきであるとの提言を行った。
ギヨタンの提言 革命前は罪人の処刑方法は封建的身分によって異なり、貴族などの高位者は斬首刑、平民・女性は縛り首で行われていた。斬首されることは貴族の特権の一つだったわけだが、専門で世襲の首切り役人によって斧で行われたといっても、しばしば一撃で斬首できず、また平民に行われた縛り首は絶命するまで数十分がかかることもあり、いずれも被処刑者は即死とならなかったので多大な苦痛を与えていた。ギヨタンの提言は刑の平等に関するだけでなく、処刑された人の汚名はその家族にまで及ぼすべきではないこと、罪人の資産をすべて国が没収することは許されるべきでないこと、死者の遺体は遺族の要請があれば引き渡されるべきであること、遺族の戸籍には死刑の記録を残さないことなどを含んでいた。そしてその最後に、迅速かつ無痛の死刑の方法を見つけ出すべきであるとも主張した。
ギロチンの発案 ギヨタンはそれ以前の機械装置による処刑法を調べるとともに、世襲の死刑執行人でムッシュ=ド=パリと言われていたシャルル=アンリ=サンソンの意見を聞いた。二人は研究を重ね、刃を落下させて首を斬るのが良いと考え、その機械の設計と製作をドイツ人のクラブサン(ピアノの前身となった楽器)制作者のトビアス=シュミットに依頼した。優れた機械工であり製図工であったシュミットは、処刑台の上に溝のついた二枚の直立材に刃をつけ、取り付けた錘(おもり)をはずすと刃が落下し、下方の二枚の半円形の板にはさまれた罪人の首を切り落とすという処刑具を考案した。これがギロチンの原型であり、つまりその発明者はシュミットということになり、事実、シュミット(とその設立した楽器会社)はギロチンの製造権を独占し、フランスで作られるギロチンのすべてを製造している(今もギロチンの製造特許はシュミット社が持っている)。

ルイ16世、ギロチン設計に意見?

 1791年6月、議会は、これ以後、あらゆる死刑囚は斬首刑とすること、および拷問は一切禁止するとの布告を出した。ギヨタン、シュミット、サンソンの三名は彼らの最終的設計図を、ルイ16世の侍医でフランス外科学士院長官のアントワーヌ=ルイに提出した。アントワーヌ=ルイがチュルリー宮殿の事務室でサンソンとこの設計図を検討しているとき、ルイ16世が偶然部屋に入ってきて、注意深く図面を眺め、刃の形は三日月型ではなく三角形で斜めにした方が良いと言って、自らその図を書いたという。ルイ16世の趣味は鍵造りで、機械マニアだったらしい。この話はアレクサンドル=デュマの『93年のドラマ』に出てくるが、事実かどうかは疑わしい。ギロチンの刃は事実、三角形型が採用され、後にルイ16世自身がそれによって斬首されることになる。
革命での正式採用 1792年3月7日、アントワーヌ=ルイは彼の最終案を立法議会に提出した。ルイ、ギヨタンらが立ち会い、シャルル=アンリ=サンソンとその息子、弟たちによって死体を使ったデモンストレーションが議員たちの前で行われ、ギヨタンはこの最も人道的な処刑法を設計し装置を建設したのはアントワーヌ=ルイであると演説した。彼の名が当時最も良く知られていたからで、彼の名と評判で議員が納得することを計算に入れたのだった。この演説は非常に効果があり、革命政府がこの処刑法を採用すると、ルイがその創始者であるされて「ラ=ルイゾン」または「ラ=ルイゼット」というあだ名がついた。世間一般がギヨタンがその発明家であることを知ったのは数週間後だった。この装置による最初の処刑は、4月25日の午後三時にグレーヴ広場で、窃盗罪のジャック=ベルティエという男に対して執行された。
ギヨタンという人物 ジョゼフ=イニャース=ギヨタンは初審裁判所の検察官の息子で、サントに生まれ、イエズス会修道士から初等教育を受けた。聖職に就くつもりでボルドーの修道院に入ったが、まもなく神学をしてて文学修士の予備学位を取り、続いて医学博士号を取った。1789年にはパリの医師会の理事であり、首都におけるもっとも繁昌し、治療費の高い医者となっていた。国民議会の議員となり、平等で人道的な処刑の必要を主張し、彼の発案したことがシュミットの設計・製造、ルイの名での正式な提案によって結実した。やがてそのことを知った人々は、この処刑具を「ギヨタンの子供」と言ったような意味でギヨティーヌ(その英語発音がギロチン)と呼ぶようになった。ルイ16世やマリー=アントワネットの処刑、そして連日の反革命容疑者がギロチンで命を落としていくと、ギロチンということばに人々は震え上がるようになった。ギヨタンはこの断頭台をギロチンと呼ぶことに再三異議を申し立てたが、結局聞き届けられず、自ら改姓することで諦めた。なお、彼自身がギロチンに掛けられたという話があるが、事実では無く、彼は病死している。<以上、レヴィ『パリの断頭台』旧版 p.87-94 解説 p.279-280 などによる>
ギロチンの発明者とその意義 ギヨタンはギロチンの発明家ではない、と言われることもあるが、「発案者」であることは間違いない。機械的な設計・製造はトビアス=シュミット、議会への提案名義人はアントワーヌ=ルイ、そして実際の操作はシャルル=アンリ=サンソンによって行われており、彼らの合作と言えるが、ギヨタンの発案からことがはじまっているので、事実上彼を発明者と言っても大筋で間違いないだろう。それよりも、彼がギロチンを発案したのは、処刑の迅速と無痛だけでなく、平等な処刑の実施がその主眼であり、罪人の家族の保護などの提言も含まれていたこと、そしてフランス革命で同時に拷問の禁止が決められていることも見逃さないでおこう。
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ノートの参照
第11章3節 ウ.戦争と共和政
書籍案内

バーバラ・レヴィ
喜多迅鷹・元子共訳
『パリの断頭台―七代にわたる死刑執行人サンソン家年代記』(新装版)
2014 法政大学出版局