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国民議会/憲法制定議会

1789年6月に第三身分代表が成立させた議会。フランス革命の重要な決議を行い、91年に憲法を制定し解散した。

 フランス革命の初期に、三部会から分離し第三身分を中心に発足した、憲法制定のための議会。Assemblée Nationale 1789年6月17日に成立し、封建的特権の廃止人権宣言など重要な決定を行い、立憲君主政を柱とした1791年憲法を制定した上で解散した。
 1789年6月17日、シェイエス『第三身分とは何か』の著者)の提案で第三身分部会は自らを「国民議会」Assemblee nationale となのった。6月19日には第1身分が149票対137票で国民議会に合流を決議。第2身分は拒否、国王ルイ16世に援助を求める。翌日、国王は国民議会に議場の使用を認めず、議場を閉鎖したので、議会側は球戯場に集まり、有名な「球戯場の誓い」を決めた。結局国王が譲歩して第一と第二身分の第三身分への合流を勧告、三部会は消滅し、国民議会が憲法制定の場として確定した。

憲法制定国民議会に改称

 フランス国民議会は1789年7月9日に憲法制定国民議会(略称憲法制定議会) Assemblée Nationale Constituante と改称し、憲法の制定に着手した。国民議会の党派は王政派から立憲派、共和派までさまざまであったが、主力はこの段階ではミラボー、ラファイエットら立憲君主主義者であった。

国民議会の大まかな党派

 1789年9月ごろの主な党派は次のようなものがあった。
・王政派:マルーエ、ラリ=トランダルら
・立憲派:ミラボーラ=ファイエットシェイエス、ル=シャプリエ、バレールら
・三頭派:バルナーヴ、デュポール、ラメット兄弟ら(憲法制定を主導。後に立憲君主政を掲げるフイヤン派となる)
・共和派:ロベスピエール、ペチヨン、ビュゾら
これらの党派の中から、まず10月に立憲派を中心にジャコバン=クラブを結成、それに三頭派、共和派も加わり、幅広い誠意集団を形成した。しかしジャコバン=クラブは91年7月、立憲派・三頭派からなるフイヤン派と、共和派が結成したジロンド派に分裂する。

Episode 右翼・左翼の起源

 国民議会及び憲法制定国民議会では、議員たちが政治的主張の類似性から、上記のようなグループ(党派)が形成された。特に1789年9月の国王の拒否権を認めるかどうかの論争以来、議場での“棲み分け”が始まり、議長の左側には、《愛国者》といわれた三頭派や共和派が席を占め、右側には《黒派》といわれた国王特権やアンシャンレジームと結びついた特権を認める人々が座った。中間的な立憲派は、左右両陣営の中間に席を占めていたが、彼らにはまとまりがなかった。たちは、このフランス憲法制定国民議会における党派の座席はほぼ固定され、そこから、左翼=革新派・革命派、右翼=保守派・王党派という政治用語が生まれ、現在まで続いている。

議会の成果

 7月14日のバスティーユ牢獄襲撃、続いて起こった農民暴動(大恐怖)を受けて、国民議会は8月4日に封建的特権の廃止を決定し、8月26日に人権宣言を採択した。
 当初はヴェルサイユ宮殿に議会が置かれたが、10月のパリ市民によるヴェルサイユ行進の結果、パリに移った。11月に教会財産の国有化を決議して、それをもとにアッシニアを発行した。1790年には聖職者基本法を制定して教会の統制を強めた。1791年3月のギルド廃止に続いて、6月にはル=シャプリエ法を制定して労働組合を禁止し、ブルジョワ階級の立場を明確にした。

憲法制定を終え、解散

 1791年6月にはヴァレンヌ逃亡事件が起こり、オーストリアの革命干渉も始まって危機が深まり、この間、議会では革命派であるジャコバンクラブが分裂し、立憲王政派のフイヤン派と、共和政をめざすジロンド派がうまれた。まだこの段階では立憲王政派が優勢であったため、9月に1791年憲法が成立、立憲君主政体を成立させて、憲法制定国民議会は役割を終えて解散、代わって10月に立法議会が成立することとなる。
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ノートの参照
第11章3節 イ.立憲君主政の成立