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マリ=アントワネット

フランス王ルイ16世の王妃。オーストリアのマリア=テレジアの娘。宮廷での奢侈によって国民の反感を買い、フランス革命の最中の1793年に処刑された。

マリ=アントワネット
Marie Antoinette (1755-93)
 オーストリア・ハプスブルク家の神聖ローマ皇帝フランツ1世とマリア=テレジアのあいだに生まれた。ウィーンで王女時代を過ごし、1770年、15歳でフランスの皇太子ルイ(後のルイ16世)と結婚した。ヴェルサイユ宮殿での奢侈は並はずれており、宮廷では王妃とは呼ばれず「オーストリア女」と陰口を言われていた。また優柔不断な夫ルイ16世に代わり、しばしば政治や人事にも口出しをして煙たがられていた。フランス革命が勃発すると、母国オーストリアの兄レオポルト2世を頼り、反革命の陰謀を積極的に進めたが、1791年6月のヴァレンヌ逃亡事件で捕らえられ、パリに幽閉される。ルイ16世の処刑に続き、ジャコバン派独裁の下で、1793年10月16日にギロチンによって処刑された。

Episode ロココの王妃

 マリ=アントワネットといえば、贅沢の限りを尽くした軽薄な女、というイメージが強い。たしかに王妃という宮廷の最高位に位置した彼女が、庶民とはかけ離れた浪費生活を送ったことは間違いないことだろう。フランス革命が起こって彼女を絞首台に送るためには、この「ふしだらなオーストリア女」は国庫を顧みない浪費家としてだけでなく、「あらゆる悪、あらゆる不品行、あらゆる倒錯症の持主」に仕立て上げられた。ところが王政復古の時代になると、「ばけものじみていたこれまでの王妃の絵姿は、油もこってりとした極彩色で塗り込められ」、その「美徳が、憤懣やるかたない面持ちで弁護され、身を投げ打っておそれぬ彼女の勇気、心根のやさしさ、非のうちどころのない女丈夫ぶり」が描かれ、殉難の王妃とされることになる。ステファン=ツヴァイクの文章は、そのような毀誉褒貶から彼女を解放して、次のように言う。
(引用)マリー・アントワネットは王党派のたたえるような偉大な聖女でもなければ、革命が罵るような淫売でもなく、平凡な性格の持ち主であり、本来はあたりまえの女であって、とりたててかしこくもなければ、とりたてておろかでもなく、火でもなければ氷でもなく、・・・悲劇の対象にはなりそうもない女であった。<ステファン=ツヴァイク/藤本敦雄・森川俊夫訳『マリー・アントワネットⅠ』1935 全集13 みすず書房 p.1-3,p.151-172>
 しかし、「歴史という、この偉大な創造者」が彼女を、18世紀の宮廷文化であるロココ文化のただ中におき、めぐりあわせから革命の渦中に投げ込むことになった。ツヴァイクはマリー・アントワネットの贅沢な生活を「ロココの王妃」として描き、ロココ文化の繊細優美な特色の典型をそこに見いだしている。彼女の浪費癖を彼女の責任とするのは酷で、多くの貴族に取り囲まれた宮廷社会しか知らない彼女が、衣装や髪型や装身具などで彼女の歓心を買おうとする側近や、儲けようとする商人たちに利用されていたのだった。<ステファン=ツヴァイク/藤本敦雄・森川俊夫訳『マリー・アントワネットⅠ』1935 全集13 みすず書房 p.1-3,p.151-172 なお、ツヴァイクの『マリ=アントワネット』には、ほかに岩波文庫版、角川文庫版、河出文庫版がある。>
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書籍案内

ステファン=ツヴァイク
/中野京子訳
『マリー・アントワネット』
上 角川文庫Kindle版

ステファン=ツヴァイク
/中野京子訳
『マリー・アントワネット』
下 角川文庫Kindle版

池田理代子
『フランス革命の女たち』(新版)激動の時代を生きた11人の物語
2021 新潮社