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プロイセン改革/プロイセン国制改革

ナポレオン軍に敗れたプロイセン王国での上からの近代化改革。

1807年から20年代初頭までの、プロイセン王国における国制の近代化を目指す改革。シュタインとハルデンベルクによって指導され、農奴解放などの近代化政策と、教育改革・軍政改革などの「上からの改革」が進められ、プロイセンの一定の近代化を実現したが、ウィーン体制下の保守勢力の抵抗もあって不十分な面も残った。

背景

:ナポレオンとの戦争に敗れて締結したティルジット条約はプロイセン王国にとって「ティルジットの屈辱」と言われ、敗戦の原因として国内の封建的な体制を改め、フランスに倣った国民国家をドイツに実現することが急務とされた。

改革の内容

:あいついで首相を務めたシュタイン(在任1807~08年)とハルデンベルク(在任1810年~22年)によって、農民解放令による身分制改革、内閣制の確立などの行政機構改革、都市自治の拡充などの地方行政改革、営業の自由・国内関税の廃止・税制見直しなどの経済性改革などが進められた。並行して、シャインホルストとグナイゼナウによる傭兵制から国民皆兵制への軍政改革、フンボルトによる教育改革などの一連の改革が推進された。

成果と限界

:これらの改革によって、プロイセンは近代的な国民国家としての枠組みと資本主義経済成立の前提としての自由経済体制が、一応できあがり、19世紀後半のドイツ統一への準備ができたということができる。しかしこの改革は、「はじめにナポレオンありき」と言われたとおり、外的要因によって「上からの改革」として打ち出されたものであった。その結果、貴族・ユンカー階級は解体されず、身分制社会の枠組みは温存され、議会制度も憲法も生み出されなかった。

「ドイツ国民」の創出

:「シュタイン・ハルデンベルク改革」を中心とした一連の「プロイセン改革」は、ドイツの統一を実現するまでにはいたらなかったが、ドイツの国民意識を喚起することとなった。この改革のさなかにベルリンで行われた哲学者フィヒテの『ドイツ国民に告ぐ』という連続講演は、ドイツ人の愛国心を呼び起こし、統一への道筋をつけることとなった。
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ノートの参照
第11章3節 オ.ナポレオンの大陸支配