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セントヘレナ島

1814年、ナポレオンが最終的に流された大西洋の南部の小島。彼は1821年、同島で死去した。

 エルバ島を脱出したナポレオンは、フランスに戻り、急速に勢いを回復した。しかし、ナポレオン軍はワーテルローの戦いに敗れ、1814年7月3日、パリは開城、ナポレオンは再び敗れ去った。ナポレオンはアメリカに亡命するつもりであったがイギリス軍に捕らえられ、南半球の大西洋にある孤島セントヘレナ島に流されることとなり、2カ月の航海の後、同島についた。同行者はベルトラン元帥夫妻、モントロン将軍夫妻、グールゴー将軍、ラス=カーズ父子の他、医師と使用人であった。セントヘレナ総督ハドソン=ローの監視下に置かれ、島の東岸のロングウッドで5年間を過ごした後、1821年5月5日、ガンのため死去した。ラス=カーズには『セント・ヘレナの回想』(1822)がある。

Episode ナポレオンは捕虜か戦争犯罪人か

 1815年7月9日、ワーテルローの戦いの後、ナポレオンは、フランス暫定政府から24時間以内にフランスを去るように命じられた。7月15日、逃れることができないとみて、彼は自発的にイギリス船ベレロフォン号に乗船した。そこで彼は捕虜として抑留された。当時、ナポレオンの処遇については、プロシャは即時処刑を要求していたが、イギリスのウェリントンは復讐ではなく正義によって裁かれるべきだとしてそれを拒否し、フランスの裁判に委ねようとした。しかしフランスの復古王政政府はその責任を負う準備がないとして断り、ナポレオンをヨーロッパから遠い所に移して、各国が共同管理することを要求した。
 8月2日、イギリス、オーストリア、プロシャ及びロシア間の条約は、ナポレオンが同年3月25日の連合署名国(16ヵ国をふくむ)の捕虜とみなされることを宣言し、彼の身柄はイギリス政府に委ねられた。10月17日、ナポレオンはイギリス船ノーザンバーランド号でセントヘレナに護送された。イギリスもナポレオンをセントヘレナ島に島流しにする正当性に腐心した。戦争犯罪人として裁くには、当時は法的根拠が乏しいと考えられ、やむなく唯一の理由としたのが、彼がエルバ島から脱出したことを条約違反を犯したとすることだけだった。<藤田久一『戦争犯罪とは何か』1995 岩波新書 p.14-18>
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ノートの参照
第11章3節 オ.ナポレオンの大陸支配