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トゥパク=アマルの反乱

1780年、ペルーで起こったインディオのスペインに対する反乱。ラテンアメリカの独立運動の先駆けとなった。

 かつてインカ帝国が繁栄したアンデス山脈中心部のペルーは、スペイン人入植者がペルー副王に任命され、先住民であるインディオを統治していた。インディオはスペイン人の経営する鉱山や織物工場で強制的な労働に従事させられ、その搾取に対する不満が強まっていた。現在はボリビアに入っているポトシ銀山でも、16世紀以来、インディオを地域に分けて1年交替で強制労働させるミタ労働が行われており、インディオは強い不満を抱き続けていた。

インディオの反乱

 ペルー副王領ティンタ県のカシケ(集落長)であったメスティーソのコンドルカンキは、同県をミタ労働の対象から除外するようリマの副王に訴えた。ポトシへの距離が遠く、移動が負担であること、人口が減りミタ労働者の割り当てを満たす人数を集められない、という理由であった。しかしこの要望は無視された。1780年11月4日、コンドルカンキは自らトゥパク=アマルを名のり、代官(コレヒドール)を誘拐し、県内のインディに決起を呼びかけた。トゥパク=アマルはインカ帝国の滅亡の際の、最後の皇帝の名前であった。白馬にまたがったトゥパク=アマルは集まったインディオ、メスティーソ、クリオーリョのまで演説し、「アルカパラ税(売上税)、関税、ミタ労働の廃止」を宣言し、代官を絞首刑にした。そのあと、インディオを酷使していた織物工場を襲撃、反乱は全土に広がった。反乱は全国に広がり、リマとクスコを包囲する勢いをみせて、一時はインディオ国家の独立をめざしたが、ペルー副王の率いるスペイン軍が態勢を立て直し、反乱は鎮圧され、1781年5月18日、彼とともに100人ほどが処刑された。

反乱の記憶

 この反乱は、インディオによる最初で最大の反乱と言われ、鎮圧されてしまったものの、ラテンアメリカの独立の先駆的な動きであった。トゥパク=アマルはペルーにおける民族主義の象徴的な名前となり、永く記憶された。現代のペルーのフジモリ政権のとき、1996~97年に、トゥパク=アマル革命運動を名乗る左翼ゲリラ組織が、リマの日本大使館を占拠する事件を起こし、世界の注目を浴びた。
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