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四月普通選挙

1848年4月、第二共和政下での憲法制定議会選挙が、男性普通選挙として実施され、ブルジョワ共和派が多数を占め、社会主義派が敗北し政権から離脱した。

 1848年、二月革命で七月王政が倒されて成立したフランス第二共和政のもとで、3月5日に21歳以上の男子全員による憲法制定議会選挙が布告された。それまでの選挙権は納税額200万フラン、被選挙権は同じく500万フランという制限が無くなって、普通選挙となったため、有権者は一挙に900万に増えた。 これはフランス革命期の1792年9月の男子普通選挙の実施以来、久しく途絶えていたことであり、次いで11月に制定された第二共和政憲法でも男子普通選挙が規定された。
 この男性普通選挙での被選挙権は25歳以上とされ、居住期間の制限はなく、複数の選挙区から立候補できた。また投票は記名ではなく、複数候補者が記入されたいくつかの候補者リストから選ぶというものであった。また投票日の1848年4月23日は復活祭の日曜日で、午前中のミサの後に司祭や村長を先頭に列をなして投票所に向かい、同じ候補者に投じるという光景がよく見られたという。<谷川稔他『世界の歴史』22 中央公論新社 p.97>

四月普通選挙の実施結果

 臨時政府のもとで憲法制定議会が招集されることになり、1848年4月23日に男子普通選挙が実施された。選挙結果は、900の議席中ブルジョワ共和派(ナショナル派)が約500を占め、王党派も約300を獲得した。ルイ=ブランが期待した社会主義派(ブランキなど)は惨敗し、第二共和政はブルジョワ共和派が権力を握ることとなった。ブルジョワ共和派、王党派が進出した背景には、農民が保守化し、社会主義の進出を警戒したためと考えられる。二月革命を推進したルイ=ブランらの社会主義政策は後退せざるを得なくなった。それを受けた臨時政府のブルジョワ勢力が国立作業場を閉鎖したため、1848年6月、労働者の六月暴動が起きる。
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