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フランスの歴史


フランス(1) ガリア、ガロ=ローマ、フランク王国

ガリアからガロ=ローマへ

ローマ時代にガリアと言われ、カエサルによって征服され属州となる。4世紀以降ゲルマン人の侵入を受け、その中のフランク人が優勢となりフランク王国を建設、ローマ=カトリックに改宗。カール大帝のもとで封建国家として発展。9世紀に三つに分裂、その中の西フランクがフランス王国のもとになる。10世紀にカペー朝が成立した。

 現在のフランスの地は、ローマ時代にはケルト人が居住し、ガリアと言われていた。前1世紀にカエサルがガリア遠征を行って征服し、その属州となってから、ローマ文化が浸透した。この時代をガロ=ローマ時代と言っており、現在でもローマ時代の水道や円形競技場は南フランスを中心に遺跡として残っており、また属州(プロヴィンキア)であったことはプロヴァンスという地名に残っている。

フランク王国

 4世紀ごろからライン川の東側にいたゲルマン人の各部族が大移動を開始、いくつかの部族がこの地に侵攻し、防ぎきれなくなったローマ帝国の支配は後退して、ほぼ西北部にフランク王国、東南部にブルグンド王国(後にブルゴーニュ地方となる)が支配、西南部にはイベリア半島の西ゴート王国が勢力を伸ばすという三分化された。そのうちフランク王国がメロヴィング朝クローヴィスカトリックに改宗してローマ教会と結び、ローマ人の官僚を登用して国家体制を整備し、ほぼ後のフランスの領域を支配、さらにイスラームのヨーロッパ侵入を宮宰のカール=マルテルトゥール・ポワティエ間の戦いで撃退し、その子ピピンカロリング朝を開いた。ピピンの子のカール大帝はその周辺に領土を広げ、800年にカールの戴冠によってローマ皇帝の称号を得、ローマ教会の保護者であり、西ヨーロッパの支配者としての地位を確立した。

西フランク王国

 フランク王国が843年のヴェルダン条約で三つに分裂した事によって生まれた西フランクが、フランス国家へと継承されることとなる。西フランク王国は870年のメルセン条約で中部フランクの西半分を領土に加えたが、そのころから第2次民族移動の時期に入り、ノルマン人(いわゆるヴァイキング)が西ヨーロッパ各地の海岸に侵攻してきた。911年にはロロの率いるノルマン人が北西の海岸に定住してさらにパリを脅かすようになると、国王シャルル3世はロロにたいし、キリスト教に改宗することを条件にノルマンディー公国の支配権を認めた。

カペー朝の成立

 987年にカロリング朝の王家が断絶し、パリ伯ユーグ=カペーが王位を各地の豪族に押されて王に選出され、カペー朝が創始された。このときから、「フランス」と称するようになる。カペー朝の王位は世襲されたが、王権は周辺の諸侯に押されて、強くはなかった。カペー家の他にノルマンディ公アンジュー伯ブルゴーニュ公などの有力諸侯が分権的な力を振っており、またローマ教皇もフランス王よりも強大な力を有していた。イギリス国王であるノルマン朝ウィリアムやプランタジネット朝ヘンリ2世はフランス国内にも領地をもち、形式的にはフランス王の臣下であるが、カペー家より力があるという状態が12世紀の十字軍時代の初めまで続いた。

フランス(2) カペー朝・ヴァロア朝

11世紀ごろから生産力高まり、十字軍時代に商業が復活する封建社会が変質。封建領主層が没落し、カペー朝の王権が強化される。フィリップ4世はローマ教皇と争い優位に立つ。14~15世紀の百年戦争で封建領主の没落が決定的になり、ヴァロワ朝の絶対王政が成立。

封建社会の変質

 しかし、三圃制農業の普及などによる生産力の向上は、十字軍運動を一つの契機として遠隔地貿易が盛んになるという変化をもたらした。フランス国内では、北イタリア諸都市と、フランドルの毛織物地帯を結びつけるシャンパーニュ地方に定期市が開かれ、その東に位置してセーヌ川の水運で結ばれたパリの経済も発展した。貨幣経済の発展は次第に封建社会の基盤である荘園制を変質させて行き、封建領主層は次第に力を失っていったが、反比例して王権は強化された。そのような変化を背景として、13~14世紀にはカペー朝の王権の強化がすすみ、フィリップ2世の時に基礎が築かれ、ルイ9世はアルビジョワ十字軍を起こして南フランスを征服し、フィリップ4世はついに、国内の教会領に課税しようとしてローマ教皇とも争い、アナーニ事件教皇のバビロン捕囚を行い、優位に立った。

百年戦争

 その後、ヴァロワ朝の成立とともにイギリスとの百年戦争が勃発、その間封建社会の矛盾も深くなり、黒死病の流行、ジャックリーの乱という農民反乱などが頻発した。そのために封建領主層は没落し、かわってヴァロワ朝のもとで絶対王政の基盤が築かれた。百年戦争を終結させたシャルル7世は王権の確立に努め、財政の整備・国王軍の創設などを行い、絶対王政への道を開いた

フランス(3) 主権国家・ブルボン朝の成立

フランソワ1世はヨーロッパの覇権をハプスブルク家カール5世と争う。16世紀に宗教改革の波がフランスにも及び、カルヴァン派が勢力を強め、宗教対立からユグノー戦争に突入。その宗教戦争を克服したブルボン朝のもとで主権国家フランスの絶対王政の全盛期となる。

主権国家の形成

 フランソワ1世は神聖ローマ皇帝カール5世との激しいイタリア戦争を繰り返し、その過程で主権国家としての体制を整備した、ヴァロワ朝最盛期の国王であるが、そのころ宗教改革の嵐がフランスにも波及した。フランスではカルヴァン派が多く、彼らはユグノーと言われた。ヴァロワ朝末期は深刻な宗教戦争であるユグノー戦争が起こった。その過程では旧教徒による新教徒に対するサンバルテルミの虐殺のような凄惨な事件も起こった。

ブルボン朝の成立

 1589年、アンリ3世が暗殺されたため、ブルボン家の新教徒アンリが即位してアンリ4世となり、ブルボン朝が成立した。しかし新教徒の王を認めない旧教徒は反発を強め、なおも内乱は続いた。そのような中、国家統一を優先したアンリ4世は1593年に自ら旧教に改宗し、さらに、ナントの王令を発して新教を認めて内乱を終結させた。こうしてフランスの宗教内乱を克服したブルボン朝のもとで、絶対王政が発展していくこととなる。
 17世紀~18世紀はじめ、ルイ13世の時の宰相リシュリュー、さらにルイ14世の幼少期の宰相マザランによって、中央集権化、官僚制や税制、軍政の整備が進められ、絶対王政が展開される基盤がつくられた。王権強化が進められることによって既得権を失っていった貴族たちは1649~53年にフロンドの乱を起こしたが、それが鎮圧されてルイ14世の絶対王政全盛期が出現する。
 この間、従来の貴族が武家貴族(帯剣貴族。騎士としての伝統を継承する貴族)と言われたのに対して、高等法院などの上級官僚に登用されて新たに貴族に加わった人びとを法服貴族と言うようになった。

フランス(4) ブルボン朝絶対王政

17世紀後半のルイ14世は、コルベールの重商主義で国富を増やし、オランダ・ドイツ諸侯領を侵略。さらにイギリスと激しい植民地戦争をつづける。やがて国家財政を破綻に向かわせ、旧体制の危機となる。

ルイ14世 絶対王政全盛期

 17世紀末から18世紀初頭のルイ14世の親政時代はフランス絶対王政の全盛期であった。財務長官コルベールによる重商主義政策によって産業の保護、インドやアメリカ大陸への植民地経営が進められた。またカトリック体制を強化するためにナントの王令の廃止したが、その結果、新教徒が国外に脱出し、産業の発展には阻害要因となった。
 ルイ14世の時代は南ネーデルラント継承戦争オランダ侵略戦争ファルツ戦争という侵略戦争を展開して、領土をライン流域まで拡大した。国際的にはイギリス・オランダ・オーストリア(ハプスブルク家)と対立して孤立したが、強大な絶対王政のもとで中央集権化を推し進め、豊かな国力を背景とした強力な軍隊を有して戦いを有利に進めた。北アメリカ大陸での植民地拡大も積極的に進め、カナダを王領地に編入し、ルイジアナを獲得した。インドにおいてもフランス東インド会社の拠点としてポンディシェリシャンデルナゴルが設けられ、イギリス東インド会社と激しく競い合った。またその繁栄を象徴するヴェルサイユ宮殿が造営され、宮中を中心に豪華なバロック様式が開花した。しかし18世紀に入り、スペイン継承戦争では自らの孫をスペイン国にすることはできたものの、植民地戦争でイギリスとの英仏植民地戦争では領土の拡張もできず、かげりが見え始めた。

ルイ15世 絶対王政の衰退

 次の18世紀のルイ15世もヨーロッパの主権国家間の争いに加わり、オーストリア継承戦争七年戦争を戦い、その間、イギリスとのアメリカ大陸でのジョージ王戦争フレンチ=インディアン戦争、インドでのカーナティック戦争プラッシーの戦い激しい植民地戦争を展開した。先代からのヨーロッパ大陸と植民地での第2次百年戦争は国家財政に大きな負担となり、絶対王政が揺らいでいく。宮中ではバロック様式に代わりロココ様式が流行したが、思想界では啓蒙思想が、モンテスキューヴォルテールルソーディドロらの百科全書などが活躍を始め、次のフランス革命を準備していく。

フランス(5) フランス革命とナポレオン

18世紀末~19世紀初頭、アンシャンレジームの矛盾の深化からフランス革命勃発へ。第一共和政からナポレオンの第一帝政へ。

ルイ16世 アンシャンレジームの矛盾が深化

 ルイ16世の治下では1775年からアメリカ独立戦争が始まり、当初は様子を見ていたが、結局フランスは参戦することとしたために、その財政負担は大きくなった。ルイ14世・15世と続いた対外戦争による負債はさらに増加し、それに加えて宮廷内では王妃マリ=アントワネットらの奢侈による出費がさらに財政を脅かしていた。ルイ16世は重農主義者のテュルゴー、さらに銀行家のネッケルに財政改革を行わせ、彼らは特権身分である第一身分(聖職者)や第二身分(貴族)に対する課税の必要を主張した。しかし、それらの改革案は貴族の反対に遭い、ルイ16世も改革に踏み切ることができなかった。その頃フランス社会は、少数の特権身分が土地の大部分を領有し、農民の多くは封建的な地代の負担や、地主への小作料の負担に苦しみ、折りからの天候不順による凶作もあって、都市民、農村のいずれも、アンシャン=レジーム(旧制度)に対する不満を強めていった。

フランス革命

 1789年、フランス・ブルボン朝のルイ16世は、財政難を回避するために三部会を開催した。しかし三部会の第三身分代表は、国民の代表機関として独自に国民議会を開催、憲法の制定まで解散しないことを誓った。ルイ16世がそれを認めず、武力で解散させようという動きを見せたことからパリ市民が反発、7月14日にバスティーユ牢獄襲撃を襲撃してフランス革命が勃発した。全国の農村でも暴動が起き、それをうけて8月4日夜、国民議会は封建的特権の廃止人権宣言を決議した。これがフランス革命の最初の成果であるが、この段階では革命は開明的な貴族層に主導され、立憲君主政をめざすものであった。国民議会は立憲君主政を柱とする1791年憲法を成立させた。ところがルイ16世はそれを受け容れず、国外逃亡を図ったため、国王に対する非難が高まる。さらに、外国の革命干渉軍が迫る中、1792年8月10日事件でパリのサンキュロットを主力とした革命派民衆がチュイルリー宮殿を襲撃して国王を幽閉、一気に立憲王政派は排除され、男子普通選挙による国民公会が成立した。

第一共和政 1792~1804年

 1792年9月21日、国民公会が王政の廃止を決議、フランス最初の共和政体制である第一共和政が成立、翌22日から「フランス共和国第1年」と称することになった。 国民公会では、上層ブルジョワジーの立場から穏健な共和政を維持することを主張するジロンド派と、小ブルジョワ、都市下層民の立場に立って革命の推進を図るロベスピエールらの山岳派が対立するなか、山岳派の主導で1793年憲法が制定された(実施はされず)。両派の対立は1793年の6月、サンキュロットが再び蜂起して議会からジロンド派を追放したことによって決着し、山岳派が公安委員会を抑えて革命を主導し、そのころからジャコバン派といわれるようになった。ジャコバン派独裁のもとで封建地代の無償廃止最高価格令徴兵制革命暦などの革命的諸政策がうちだされた。しかしジャコバン派内部に左右両派の分派が現れ、ロベスピエールはそれらを排除して独裁権力を握り、反対派を次々とギロチンにかけ、恐怖政治を展開した。また反面で農民層や小市民層が保守化し、革命の急進化を恐れようになったため、1794年7月のテルミドールのクーデタでロベスピエールとジャコバン派は失脚、共和政は大きく動揺した。
 翌年成立した1795年憲法によって、総裁政府が成立したが、左右からの揺さぶりが続き、イタリア遠征などで軍事的成功を収めたナポレオンが、ブリュメール18日のクーデタによって統領政府を成立させ、自ら第一統領となって実権を握った。
 ナポレオンのローマ教皇との和解であるコンコルダート、イギリスとの和平であるアミアンの和約、それにフランス銀行の設立とナポレオン法典(フランス民法典)の制定はいずれも皇帝になる前の事績である。

第一帝政 1804~1814年

 軍事的成功と内政での実績をもとに、ナポレオンは1802年に終身統領となり、1804年に国民投票によって即位し、ナポレオン1世となった。これによって第一共和政は終わり、第一帝政となった。国家の安定と対外戦争での利益を求めるブルジョワジー、土地所有者となった中小農民のいずれも共和制よりもナポレオンの帝政を選んだ。1804年5月、ノートルダム大聖堂に戴冠式を挙行し、1814年4月まで皇帝支配の時期が続く。その間、ナポレオン戦争が全ヨーロッパの範囲で展開された。それはナポレオンの野心によって行われた戦争であったが、周辺の諸国の民衆にとっては自由と平等をもたらす解放戦争であり、絶対王政を維持していた君主にとってはその存在の根底的な危機であった。しかし、やがて民衆にとってもナポレオン帝国に組み込まれて自由が抑圧される結果となっていく。抑圧された征服地の民衆がナポレオンに対して最初に抵抗したのがスペインの反乱であった。そのゲリラ戦にナポレオンは苦しむことになり、そこからナポレオンのヨーロッパ支配が崩れていく。
 ナポレオンのフランスにとって、最大の敵はイギリスであった。イギリスはまだに産業革命を展開しており、議会政治のもとでブルジョアジーが自由な経済活動を行うことを基盤とした資本主義国として成長しつつあった。フランスは工業力ではイギリスに大きな後れをとっていた。ナポレオンはイギリス経済に打撃を与えようと大陸封鎖令を出したが、それはかえってイギリス工業製品がヨーロッパに入ってこなくなり、また穀物や原料をイギリスに輸出できないという点で大陸諸国にとって大きな痛手であった。そのため大陸封鎖令は効果がなく、ロシアのように公然と離反する国が現れた。それに対するロシア遠征は失敗に終わり、その敗北とともに急速にナポレオン帝国が崩壊することとなる。
 ナポレオンはエルバ島から一旦パリに戻り、皇帝に復帰するので百日天下(1815年3月~6月)もナポレオンの第一帝政に入るが、それは実質的には1914年4月で終わったといえる。フランスはルイ18世のブルボン朝が復活して「復古王政」の時期となり、ヨーロッパはウィーン体制という反動期に入る。

フランス(6) 復古王政・七月王政・第二共和政

19世紀前半のフランスは、ウィーン体制下の復古王政と七月王政が続く。この間、産業革命が進行した。1848年の二月革命により第二共和政となるが、ナポレオン3世が実権を握って第二帝政が成立した。

復古王政

 ナポレオン第1帝政に続くフランスの政体で、1814~1830年まで。ナポレオン1世第一帝政が1814年にその退位で終わった後(1815年に一時ナポレオン1世の帝政が百日天下として復活するが)、フランスで復活したブルボン朝ルイ18世シャルル10世の支配時代を「復古王政」という。革命前のアンシャン=レジームの復活を策したが、市民意識は定着していたので、所有権の不可侵や法の下の平等などの革命の成果は保障された。またルイ18世のもとでは、タレーラン正統主義を掲げてウィーン会議に参加し国際的立場を維持したが、ウィーン議定書では国土はフランス革命前に戻され、イギリス・ロシア・オーストリア・プロイセンの四国同盟によって監視されることとなった。それでも賠償金も払い終わった1818年には、五国同盟に加えられてヨーロッパの強国として復活した。1824年に即位した弟のシャルル10世は、より反動的な政治を行い、ブルジョワジーの反発が強まり、1830年の七月革命で倒される。

七月王政

 1830年の七月革命によって成立した立憲君主政の政体。1830年の七月革命によって成立した国王ルイ=フィリップのもとでの立憲君主政。1848年の二月革命まで続く。政治体制は1830年の憲法に基づく、立憲君主政。議会は制限選挙制によって有産者が多数を占め、上層ブルジョアジーが支配権力を握った。そこで、ルイ=フィリップを市民王、七月王政をブルジョア王政などという。この七月王政の18年間はフランスの産業革命時代となり、機械化が進み鉄道の建設が始まった。また1830年に始まるアルジェリア出兵による植民地化をさらに進め、またエジプト=トルコ戦争でのムハンマド=アリーへの支援など、東方問題への介入を強めた。一方、産業革命の進行に伴い、都市の中産階級と労働者階級も形成され、彼らは普通選挙などの改革を要求して選挙法改正運動を展開した。上層ブルジョアジー政権である国王ルイ=フィリップとギゾー内閣への批判を強め、政府の集会禁止に対して各地で改革宴会を開催し、気勢を上げるようになった。

第二共和政

 フランスの二月革命によって成立した1848年~1852年の共和政体。フランス革命時の第一共和政(1792年9月~1804年5月)に次ぐ共和政。正式には11月の共和国憲法制定からであろうが、一般的に2月の七月王政崩壊後の臨時政府も含めて第二共和政としている。 → 1848年革命
 当初はラマルティーヌなどのブルジョワ共和派とともに、ルイ=ブランら社会主義者も含む臨時政府のもとで改革が進められ、国立作業場の設置など、積極的な改革を進めたが、経済不安が続き、四月普通選挙の結果、社会主義勢力が後退することとなった。ブルジョワ勢力が主導権を握った臨時政府が国立作業場の廃止に踏み切ると、反発した労働者の蜂起を政府軍が鎮圧するという六月蜂起の事件がおこり、軍人のカヴェニャックが実権を握った。一方で王党派の勢力が増大するなど、動揺が続いた。11月に制定された第二共和政憲法は人民主権、三権分立、大統領制を採用し、男子普通選挙を定めたが、年末の大統領選挙で当選したルイ=ナポレオンは、1851年にクーデターを起こし、憲法を修正して、さらに国民投票を実施して翌52年1月にはナポレオン3世として即位して第二共和政は終わり、第二帝政へと移行する。 → 第二共和政の動揺

フランス(7) 第二帝政から第三共和政へ

ナポレオン3世の第二帝政の時期、産業革命が進行、対外戦争・植民地獲得戦争を展開した。しかし1870年、普仏戦争に敗れ、パリ=コミューンを経て第三共和政となる。

第二帝政

 1852年から70年までの22年間のナポレオン3世による統治時代のフランスを第二帝政いう。ナポレオン3世は叔父であるナポレオン1世の権威を背景にした大衆的な支持を力に、議会を形骸化し、軍隊と官僚を駆使して独裁的な政治を行った。その政策は、産業革命の進行に伴う産業資本家の成長をはかり、自由貿易政策に転換したこと、同時に産業資本家の利益の拡大を図り、国民的人気を得るためにに盛んに対外的な膨張政策をとった。そのような政治のあり方をボナパルティズムともいう。
権威帝政から自由帝政へ 50年代に権威帝政といわれる独裁的な体制を作りあげたナポレオン3世は、自らが自由貿易主義者であったところから、1860年に皇帝大権で英仏通商条約を締結し、それまでの保護貿易体制を改め、関税を大幅に下げてイギリス工業製品の受け入れに踏み切った。その結果、企業の淘汰、資本の独占化がすすみ、技術革新・交通・通信の整備、銀行の成長、労働力の都市への移動などが進み、フランスの産業革命の完成期を迎えた。同時にそれは産業資本家の企業活動の自由の要求、労働者の権利要求、さらに社会全般の言論の自由などの要求が強まることを意味している。
 ナポレオン3世は60年代に議会の一定の権限拡大、労働団結権の承認、一定の言論の自由、政治犯の釈放などで答え、その時期を自ら「自由帝政」と称した。本来両立しない自由と帝政を併存させるためには「偉大な皇帝」による恩恵としての自由でなければならず、皇帝の権威を創り出すために行われたのが「積極的外交」であった。
人気取りの外交政策  「人気取り」のために膨張的な外交政策をとったが、それは常に危険な冒険を伴っていた。クリミア戦争にはじまり、アロー戦争インドシナ出兵では植民地や勢力圏の拡大に成功したが、メキシコ出兵は失敗に終わり、外交政策でのつまずきが始まった。

普仏戦争の敗北

 プロイセン王国のビスマルクの挑発を受けて始まった1870年の普仏戦争ではスダンの戦いでナポレオン3世自身が捕虜となったため退位に追い込まれ、第二帝政は終わりを告げた。71年1月、パリに迫ったプロイセン軍はヴェルサイユ宮殿でドイツ帝国のヴィルヘルム1世の戴冠式を挙行し、フランスは大きな屈辱を味わうこととなった。さらに臨時政府ティエールは賠償金を支払い、アルザス・ロレーヌ(厳密にはその一部)をドイツに割譲して戦争を終結した。ナポレオン時代の報復に成功した形のドイツのビスマルクは、これ以後フランスの再起を押さえ込むための外交をヨーロッパで展開していく。

第三共和政

 フランスの第二帝政に代わる政体で、一般に1870年9月から1940年までの約70年にわたる政体を第三共和政というをいう。1875年1月に第三共和政憲法が制定されているため、第三共和政の開始時期については、1870年とするものと、1875年とするものとがあって混乱しているので注意すること。 → 第三共和政の項を参照
臨時政府とパリ=コミューン  1870年9月から71年2月までは国防臨時政府が、71年2月からはティエールを首班とする臨時政府が対外的のもフランスを代表したが、国内には王政復古や帝政の復活を目指す勢力も根強く、安定しなかった。また、臨時政府がプロイセンに対する降服したことに対して、パリの市民・労働者が反発して徹底抗戦を掲げ、3月にパリから臨時政府軍を追いだして国家権力であるパリ=コミューンが樹立した。パリ=コミューンは労働者が権力を握った最初の社会主義政権であったが、ブルジョワ勢力に支持されたティエールの臨時政府軍によって5月に鎮圧された。ティエールは共和政を掲げて8月に大統領となったが、議会内の保守派・王党派によって失脚させられ、王党派のマクマオンが大統領となった。ようやく1875年に議会は第三共和政憲法を可決し、フランスの政体は共和政であることが確定した。
 第三共和政の時代のフランスは、資本主義が急速に成長し、帝国主義段階を迎えていく時期に当たるが、ブルジョワ共和政政府に対して労働者の増大を背景にした社会主義者や労働組合運動などの左派の活動と、ブルボン王家の復活やボナパルティズムを支持する小農民などの勢力も政府を揺るがし、この左右両派からの攻勢によって政情は不安定であった。

フランス(8) 帝国主義

1875年、第三共和政憲法が制定されたが、左右両派からの攻勢が続いて不安定であった。この間資本主義の発展が続き、帝国主義の段階に入り、列強間の対立抗争が激化、第一次世界大戦に突入する。

共和政の危機

 第三共和政の下で、普仏戦争敗北からの国力の回復、国際社会への復帰を目指し、1880年代までに大資本と結んだ共和派による政治がほぼ確立した。しかし、普仏戦争で失ったアルザス・ロレーヌ地方の奪回など、対独強硬論を唱える右派と軍部の台頭、一方の労働組合主義(サンディカリズム)の台頭、フランス社会党の進出という労働運動、社会主義勢力の成長もあって、共和政は左右双方からの攻撃を受けて常に動揺した。
 また政党政治も未成熟で、小党が乱立して安定せず、議員の汚職事件などの腐敗もあって権威を失い、19世紀末には大きな危機に陥った。そのような中で共和政を否定して軍部独裁政権の樹立をめざすクーデター事件である1889年のブーランジェ事件、パナマ運河会社の再建をめぐる汚職事件である1892年のパナマ事件などが続いた。1894年に始まるドレフュス事件は最大の共和政の危機であったが、軍部と右派の陰謀を国民的な世論で抑え、共和政体を維持することに成功した。

フランスの帝国主義

 他方、この時期はフランスの工業力も発展し、フランスも帝国主義の段階に入り、20世紀初めにかけてアフリカ分割に加わってアフリカ横断政策をとり、イギリスと対立してファショダ事件を起こした。またアルジェリアチュニジアにつづいてモロッコ進出を図り、ドイツと対立してモロッコ事件が起きた。またすでに東南アジアでは1884年には清仏戦争で苦戦しながらベトナムに対する清の宗主権を排除し、フランス領インドシナ連邦の殖民地を拡大した。また日清戦争後、ロシア・ドイツとともに三国干渉を行って日本に遼東半島を還付させ、清の弱体化につけ込み、1898年の中国分割では広州湾租借し、鉄道敷設権などを得た。

帝国主義列強の勢力均衡策

 フランスは、普仏戦争の敗北以来、外交的には常にドイツを仮想敵国としていた。1870~80年代にはドイツ帝国のビルマルク外交によって孤立を余儀なくされたが、90年代にドイツの世界政策との対立がが明確になると、イギリス・ロシアとの提携を深めていった。イギリスとはファショダ事件で衝突を回避した後、1904年に英仏協商を成立させ、フランスのモロッコでの、イギリスのエジプトでの権益を相互に承認した。ロシアは早く1890年にドイツが再保障条約の延長を拒否したことを受けてフランスに接近、両者は1894年までの間に露仏同盟を締結した。これによってフランス・イギリス・ロシアは三国協商を形成することになり、ドイツ・オーストリア・イタリアの三国同盟の脅威に対抗することとなった。このような列強間の秘密軍事同盟によって勢力均衡を図るのが当時の「外交戦略」の基本姿勢であったが、結局、平和を維持することはできなかった。

フランス(9) 第一次世界大戦

第一次世界大戦ではドイツに攻め込まれたが塹壕戦で耐え、連合国としての勝利を勝ち取る。1919年ヴェルサイユ条約で領土拡張。ドイツに対する過酷な姿勢を取る。20年代には国際協調路線を取る。

第一次世界大戦への参戦

 1914年6月、バルカンでサライエヴォ事件が起き、情勢が緊迫し、「七月の危機」が高まる最中、フランスの大統領ポワンカレは7月20日~23日にペテルスブルクを訪問、露仏同盟を最終的に強化した。その7月23日にオーストリアがセルビアに対して最後通牒を発し、25日のセルビアが回答、28日にオーストリアが宣戦布告して第一次世界大戦が開始された。翌日、ロシアはセルビアを支援してオーストリアに宣戦し、ドイツは三国同盟を守ってオーストリア側で参戦、フランスはイギリスとともに三国協商の規定に従ってロシアを支援し、参戦した。こうして第一次世界大戦が勃発した。
 フランスは、開戦当初はドイツ軍の速攻によって攻め込まれたが、マルヌの戦いで食い止めてからは塹壕戦に突入して戦線が停滞した。総力戦に突入し、消耗が続いたが、アメリカ合衆国の参戦によって協商側がようやく勝利した。

ヴェルサイユ体制

 勝利国となったフランスはパリ講和会議において、クレマンソーが対独強硬姿勢を主張、それが容れられる形でヴェルサイユ条約は、敗戦国ドイツに対する苛酷な要求を含んでいた。フランスはまずアルザス・ロレーヌを回復し、巨額の賠償金を認めさせ、さらにラインラントの非武装、ドイツの軍備制限など将来にわたる安全保障を実現しようとした。しかしこの過酷な要求はドイツ内部における反ヴェルサイユ体制という感情を生み、結果として安全保障とはならずナチス=ドイツを台頭させ、フランスは大きな犠牲をはらうこととなった。

国際協調

 フランスは国際連盟の常任理事国として、大戦後の国際平和に大国としての役割を担うこととなった。しかし、対独強硬姿勢は改めず、1923年にはベルギーとともにルール占領を強行し、ドイツに賠償金の支払いを迫った。ドイツ賠償問題は最大の課題であり、なおも緊張が続いたが、ドイツのシュトレーゼマン政権が履行政策(賠償金支払いを実行すること)に転じたため歩み寄りが実現し、1925年にロカルノ条約を締結し、フランスはドイツとの国境地帯での地域的集団安全保障体制を実現した。賠償問題もアメリカ資本の支援がドーズ案、ヤング案で実現して解決の方向性が見いだされ、国際協調の時代が実現した。この間、ジュネーヴ海軍軍縮会議に参加し、フランス外相ブリアンはアメリカのケロッグと協力して不戦条約の締結に成功したが、これらの国際協調の動きは、翌1929年の世界恐慌で崩れ去ってしまう。

フランス(10) ファシズムの台頭と人民戦線

第一次世界大戦後も第三共和政の政情不安が続くとともに、30年代以降世界恐慌とファシズムの脅威にさらされ、1936年に人民戦線ブルム内閣が成立した。しかし、ブルム内閣は不況対策に失敗、スペイン戦争の対応をめぐる内部対立から38年4月に退陣した。

世界恐慌の影響

 フランスは重工業の発展はアメリカ・ドイツに比べて進んでいなかったので、世界恐慌の影響は比較的遅かった。それでも農業不況が先行する形で30年代には深刻な不況に落ち込んでいった。列強がそれぞれ平価を切り下げ、植民地や勢力圏を囲い込むブロック経済体制を取るようになると、フランスは金本位制を維持するオランダ、ベルギー、スイスと金ブロック(フラン=ブロック)を構成してイギリス・アメリカと対抗しようとし、また植民地であるアルジェリア・インドシナなどの経営に力を入れるようになった。

ファシズムの台頭

 すでに隣国イタリアではムッソリーニのファシスタ党が権力を握っていたが、1933年にはドイツでヒトラー政権が成立、フランスはファシズム勢力に直接脅かされる情勢となった。特にドイツは公然とヴェルサイユ体制打破を掲げ、再軍備を強行してフランス侵攻を準備する形成となった。また国内でも第三共和政下の政党政治が汚職や経済の無策から混乱し、労働組合のストライキが多発、不安を抱くブルジョワジーの中に共産主義に対する恐怖と議会政治に対する失望が広がり、その隙間にファシズム勢力が台頭してきた。

人民戦線

 それまでフランス社会党フランス共産党は同じ社会主義政党でありながら、前者は議会制民主主義に則り暴力革命を否定し、反ソ連の立場に立ち、後者はコミンテルンのフランス支部として革命を目指し、社会党など社会民主主義をブルジョワ的な階級敵と見ていたので、激しい非難合戦を展開していた。そのため傘下の労働運動も二つに分裂、対立していた。30年代に入り、ファシズムの台頭という新たな情勢に対し、次第に両者の対立を克服して統一戦線をつくる必要があるという意識が強まり、1933年2月の政府の汚職事件を口実とした右翼の騒擾事件を契機に左翼の幅広い共同行動が始まった。共産党のトレーズは、ブルジョワ政党である急進社会党(ドレフュス事件の説きにクレマンソーが結成した、急進的な共和主義政党。基盤は中間的な市民層で、戦間期に政権を担当した。)に対しても働きかけ、1975年7月14日には三党の共催による「パンと平和と自由」を求める大集会を全国で開催した。この動きを見たソ連のスターリンは35年5月仏ソ相互援助条約の締結に応じ、さらに7月25日、コミンテルン第7回大会反ファシズム人民戦線戦術をとることを各国共産党に指示した。
 1936年1月に、社会党・共産党・急進社会党などの人民戦線綱領が作られ、総選挙の結果、人民戦線派が勝利して、1936年6月に社会党のレオン=ブルムが首相となって組閣し、フランス人民戦線が成立した。

ブルム内閣の挫折

 そのころ、人民戦線の成立で勢いついた労働組合は、工場占拠などの激しいストライキを展開していた。ブルム内閣は人民戦線綱領に基づき、週40時間労働制や有給休暇制度の創設など労働者の待遇改善を実現、労働者の要求に応えた。当初の数ヶ月は改革が進んだが、次第に資本家・ブルジョワ勢力は国際競争力の低下を恐れて不安を強めていった。ついにその意を受けた閣内の急進社会党閣僚が、金兌換を停止するとともに、フランの金平価を28%切り下げ、金の輸出禁止に踏み切った。そのため労働者の収入は低下し、今度は労働者の不満が高まった。このような経済政策での閣内不一致でブルム内閣が動揺していたところに、スペイン内戦支援問題が起こった。
 スペイン共和国ではこの年1月にすでに人民戦線政府が成立していたが、同時に軍部の反乱が勃発、内戦が始まっていた。7月、モロッコからドイツとイタリアの軍事支援を受けたフランコ将軍が本土に侵攻してくると、共和国政府はイギリス、フランスなどに支援を要請した。ブルムと共産党はただちに支援を決定したが、スペインでの革命の波及とソ連の影響力の強まることに不安を抱く急進社会党や社会党右派が強く反対し、この問題でも閣内不一致に陥った。またイギリスも不干渉で同調するようフランスに要請したため、ブルムは結局スペイン支援をあきらめる。この二つの問題で立ち往生したブルム内閣は、37年6月総辞職、その後も形式的な人民戦線内閣のもとで混乱が続き、ブルムが復帰したが、それも38年4月に退陣し、人民戦線は終焉した。

フランス(11) 第二次世界大戦

ダラディエ内閣はヒトラードイツに対する宥和政策をとったが、その膨張を抑えることができず、1939年に第二次世界大戦が開始されるとドイツに国土の大半を占領され、ヴィシーに対独協力内閣が成立。国内のレジスタンスとともにド=ゴールの亡命政権が抵抗を指導、1944年8月にパリを解放した。

宥和政策

 ヒトラーは仏ソ相互援助条約をロカルノ条約違反であると非難し、ドイツの脱退を宣言した。スペイン内戦ではイギリス・フランスの不干渉政策を尻目にムッソリーニのイタリアとともに積極的にフランコ反乱軍を支援、ゲルニカ空爆などを含む直接介入を行い、共和国軍とそれを支援するソ連軍、国際義勇兵との間で、一種の世界戦争の「予行演習」を行い、1939年までにほぼ共和国を圧倒し、フランコ独裁政権の成立をもたらした。
 自信を深めたヒトラーは次いでチェコスロバキアのズデーテン地方の割譲を要求、それを受けて38年に開催されたミュンヘン会談では、フランスの急進社会党ダラディエ内閣はイギリスのネヴィル=チェンバレンとともにヒトラーに対する宥和政策をとってズデーテン地方の割譲を承認、反ファシズムの旗印を取り下げた。しかし、ヒトラーの領土的野心を抑えることはできなかった。

第二次世界大戦

 1939年9月、ヒトラーがポーランドに侵攻して第二次世界大戦が開始されると、ポーランドとの攻守同盟を結んでいたフランスはドイツに対して宣戦布告した。しかし、ヒトラーがポーランド軍を次々と撃破し、ワルシャワに迫るという情勢になったも、フランス軍はポーランドに支援軍を送ることもせず、西部戦線でドイツに攻勢をかけてポーランドを救うこともしなかった。この段階に至ってもなお、ヒトラーはポーランドを奪えば侵略をやめ、停戦に応じるであろうという甘い予測、宥和政策の継続があったのであろうが、このことはフランス国民にとっても「奇妙な戦争」、つまり宣戦布告したにもかかわらず戦争をしないという、状態であった。
 しかしこの観測が誤りであったことはポーランドをソ連と分割し終えたヒトラーが、1940年に矛先を西部戦線に向けたことでただちに明らかになった。1940年5月、ドイツの侵攻が始まると、わずか1ヶ月でパリ陥落、6月22日に休戦協定を結んでフランスは降伏した。フランスは占領地区、併合地区、自由地区の三つに分割され、7月10日にペタンを国家主席とするヴィシー政府が成立した。ヴィシー政府は大統領制と議会を廃止し、ここに第三共和政は終りを告げた。

ヴィシー政府とレジスタンス

 ヴィシー政府はイギリスを除いて各国に承認されたが、ドイツに協力することによってフランスの存続を図ろうとした。ペタンは84歳の元帥で第一次世界大戦の英雄であったが保守以外にこれといった政治理念はなく、人民戦線に反対した人々やファシスト、反共主義者、カトリック教徒など雑多な集まりに過ぎなかった。政策も建前は国民革命を表明したが、カトリックの宗教教育を復活させるなど復古的なものにとどまった。それよりもまず「ユダヤ人狩り」を行うなどナチス=ドイツに迎合する面が強く、また占領区の男性はドイツの労働力の不足を補うものとして動員された。
 占領と同時にフランス各地でナチスドイツに対するレジスタンス(抵抗運動)が始まり、自然に組織化されていった。最も組織的にレジスタンスを展開したのはフランス共産党で、ドイツ軍人などに対するテロや後方攪乱を盛んに行った。また国外に亡命した軍人の中でド=ゴール自由フランス政府を1940年6月、ロンドンで組織、BBC放送を通じてフランス国内のレジスタンスを呼びかけた。1943年6月3日には「フランス国民解放委員会」が亡命政府として成立、レジスタンスを組織的に指導するとともに、戦後の枠組みの構築を開始した。

解放と臨時政府の成立

 1944年6月6日、連合軍がノルマンディー上陸作戦を敢行、8月25日にパリが解放された。9月9日にド=ゴールがパリに帰還し、臨時政府首相として国家再建に当たることとなったが、まず対独協力者に対する裁判が行われ、ペタン以下が死刑判決を受けた。ペタンは後に無期禁固に減刑されたが、元外相のラヴァルらヴィシー政府幹部は処刑され、他に正規の裁判なしに約5000人が報復として殺害されたという。臨時政府は経済再建と憲法制定に取り組んだが、ド=ゴールは最大の勢力となった共産党と対立したため辞任した。1946年1月に新憲法が施行されて第四共和政が成立、第三共和政の政権不安定を反省して内閣の権限強化が図られたが、なおも小党分立が続いて不安定であった。

フランス(12) 戦後のフランスと第四共和政

第二次世界大戦でドイツが敗北し、フランスは解放される。総選挙を実施しド=ゴールを首相とする社共を含む連立政権が成立、1946年10月第四共和政が成立。しかし社共と対立したド=ゴールが辞職、その後政情不安が続く中、インドシナ、アルジェリアの植民地独立戦争が激化し、1958年にド=ゴールが首相復帰、憲法を改正して第五共和政となる。

 1944年8月25日、パリはドイツ軍から解放され、ド=ゴール将軍が入城、臨時政府を組織した。翌46年総選挙が実施(フランスで始めて婦人参政権を行使)され、共産党人民共和派(MRP、キリスト教系保守中道政党で反共を掲げる)、社会党が大きく議席を伸ばし、両党を含む連立内閣が成立しド=ゴールが首相となった。同年10月には憲法が改正され、第四共和政が発足した。

第四共和政

 第二次世界大戦後の1946年10月に成立したフランスの政体で、1958年まで続いた。第四共和制憲法のポイントは次のようにまとめられる。
  • 議会 立法権は第一院の国民議会のみが持ち、第二院の共和国評議会は諮問機関とされた。
  • 大統領 国民議会と共和国評議会の両院合同会議で選出され、任期7年であるが、その権限は第三共和政よりも小さく、対外的に国を代表するほか、実質的な権限は無かった。
  • 内閣 第三共和制下での政治の不安定を反省し、内閣の権限は強化され、総理大臣(首相)は大統領によって指名されるが議会の絶対過半数の信任が必要で、閣僚を任免する権限が認められた。

不安定な政体

 しかし、ド=ゴールは1947年1月、軍事予算をめぐって共産党と社会党が多数を占める議会と対立して辞任し、以後内閣は不安定な状態が続く。その後も、内閣は連立せざるを得ず、戦中のレジスタンスでの協力意識が薄れるにつれ、閣僚間の対立が始まり、常に不安定であった。そのため戦後復興の課題が一向に解決されず、国民の不満は高まっていった。
 この間、1950年には外相のシューマンの提唱でヨーロッパ石炭鉄鋼共同体(ECSC)が結成され、ヨーロッパの統合への動きではフランスは主導的な役割を担った。
 しかし、内政での不安定に加え、フランス植民地の遺産であるインドシナとアルジェリアで、戦後の民族意識の高まりとともに独立運動が開始された。インドシナ戦争アルジェリア戦争に対しては、国内の共産党、社会党などの独立容認の意見と、軍部や保守派など海外領土維持の主張がするどく対立し混乱が続いた。

植民地の喪失

 インドシナ戦争ではディエンビエンフーの戦いに敗れ、ジュネーヴ会議の結果、ジュネーヴ休戦協定を締結、ベトナム共和国の独立を承認し、フランス領インドシナ連邦は解体した。アルジェリアでは民族解放戦線(FLN)が1954年に武装蜂起し、アルジェリア戦争が始まり、第四共和政政府は独立承認に傾いたが、植民地の入植者と軍が反発、58年に本国政府に対して反乱を起こした。 → アルジェリア問題

フランス(13) 第五共和政とド=ゴールの時代

1958年、ド=ゴールは首相として第五共和制憲法を成立させ、自ら権限を強化した大統領に選出された。その後10年にわたって権力を握り、アメリカに追随しない独自外交と経済復興に成果をもたらした。しかし長期政権化は、社会のひずみを強くし、1968年に学生ら青年層の反発が強まり、翌69年に辞任に追い込まれた。

ド=ゴールの再登場 第五共和政

 このような内外の困難に対応できない第四共和政政府に対し、国民は議会の議論より強いリーダーシップを望むようになった。そのため、1958年に政権は崩壊、保守派の支持するド=ゴールが首相に復活、さらに大統領権限を強化した第五共和政憲法を制定して、第五共和政に移行した。
 第五共和政の規定による大統領選挙でド=ゴールが大統領に当選すると、一転して保守派を抑えてアルジェリアの独立を承認して問題を解決し、国民の圧倒的な支持を背景に69年までド=ゴール時代が続く。

ド=ゴールの外交

 フランス経済はマーシャル=プランによって復興することが出来たが、ド=ゴール時代にはアメリカへの依存を脱却し、次第に独自色を強めていく。特に外交政策では、ド=ゴールはアメリカ及びイギリスに対抗して、独自のド=ゴール外交を展開し、「フランスの栄光」の再現を目指した。その姿勢は、核実験の強行・NATO軍事機構脱退・イギリスのヨーロッパ経済共同体(EEC)への加盟反対・中華人民共和国の承認などに明確に現れている。

五月危機

 ド=ゴール政権はその後、10年あまり続いたが、初期の圧倒的な国民の支持も長期政権に対する批判が次第に出てきて、1968年の世界的な学生運動の盛り上がりの中でフランスでも起こった五月危機によってその権威が揺らぎ、翌年ついに辞任した。

フランス(14) コアビタシオンと揺れるヨーロッパ統合

80~90年代、左派のミッテラン、右派のシラク大統領の時代には、第五共和制憲法の規定の下、大統領と首相が異なる政党に属する保革共存という事態が続いた。ヨーロッパ統合についても反対派が台頭、黄信号が点っている。

 面積 54.7万平方km  人口 6200万 首都パリ
 フランス国旗として有名な三色旗はフランス革命の中で1794年にラファイエットが考案し、革命のシンボルとして用いられるようになった。国民公会が正式な国旗として定め、ナポレオン時代に定着した。王政復古期に一時使われなかったが、七月革命の時に国旗として復帰し、現在はフランス国旗と言えばこの三色旗を意味する。自由・平等・博愛を意味するというのは、こじつけ的なところがあるらしい。

現代のフランス

 第一次世界大戦、第二次世界大戦という二度にわたる隣国ドイツの侵略を受けながら、戦後は経済の復興に成功し、第四共和政(1946~1958)を経て、現在は第五共和政(1958~)という政体をとっている。戦後は、国際連合の安保理の常任理事国としてその主要メンバーとなり、冷戦下の米ソ二大勢力に対抗すべく、ヨーロッパ統合の先頭にたち、国際政治にも大きな発言力を有してきた。インドシナやアルジェリア、アフリカのフランス領など、かつては植民地大国であったが、いずれもその独立を抑えることはできず、1960年代前半までで独立を容認した。現在は、増大した移民を抱え、経済の停滞からは右派が台頭し、またヨーロッパ統合に対しても懐疑的な声が国内に強まり、大きく変容している。

左派ミッテラン政権の登場

 ド=ゴール退陣後の大統領選挙は、ド=ゴール主義を継承するか、脱却するかが問われることとなり、ポンピドゥー(1969~74)はド=ゴール主義を継承し、ジスカールデスタン(1974~81)は脱ド=ゴールをかかげた。しかしいずれも保守派政権であり、その経済政策は,ドイツや日本に後れをとって低迷したため、国民は変化を求めるようになったていった。そのような時期の1981年の大統領選挙では、フランス社会党を率いたミッテランが、それまで対立していたフランス共産党との協力関係を築くことに成功し、当選を果たした。これは、1948年の社会党・共産党・MRPによる三党内閣(ド=ゴール臨時政府)以来、33年ぶりの左派政権であった。
 第五共和政第4代大統領となったミッテランは、公共投資の増加、国有化の推進による雇用の拡大、最低賃金の引き上げや社会保障の拡充による購買力の向上をめざすという、社会民主主義政策を実行した。これは、イギリスのサッチャーやアメリカのレーガンなどの新自由主義がとった「小さな政府」とまったく異なる対照的な政治として注目された。しかし、目先の景気の回復には結びつかず、1986年総選挙では社会党は敗北した。

コアビタシオン

 1986年の総選挙敗れても、大統領は議院内閣制ではないので、ミッテランは大統領にとどまった。しかし議会では多数派となった保守派から首相を選ばざるを得なくなり、シラクを指名した。こうしてフランス第五共和政憲法の規定により、大統領が左派、首相が右派という、保革共存の政体が成立、これをコアビタシオンといった。コアビタシオンの下では、ほぼ、外交は大統領、内政は首相という棲み分けを行い、バランスがとられることとなった。しかし、大統領と首相が基本的政治姿勢で対立することがしばしば起き、シラクも間もなく辞任した。ミッテランは個人的な人気が高く、大統領選挙で再び勝利して大統領を二期目も務めたが、首相はやはり保守派のバランデュールを指名せざるを得ず、コアビタシオンが続いた。ミッテランの長期政権が国民の支持を失い、1995年にシラクが大統領となったが、1997年には首相には社会党のジョスパンが指名され、コアビタシオンが続いた。

サルコジ大統領

 1995年から2期12年を務めたシラクに代わり、2007年にサルコジ大統領が大統領に選出された。サルコジはシラクの後継者として指名され、議会多数派の保守中道連合の支持を受けているが、2007年大統領選挙では社会党の女性候補との間で決選投票でようやく選出されるという辛勝であった。2005年秋の学生と外国人労働者の騒擾事件を厳しく弾圧したときの内務大臣で暴動を起こした若者を「社会のクズ」と呼んで非難されたが、かえってその強硬路線がフランスの栄光を望む保守層の人気を集めた。しかしサルコジ自身はハンガリー系の移民の子で、少年時代に両親が離婚、中学生の時は留年を経験するという屈辱からはい上がり、弁護士資格を取って政治家になった苦労人であったことから人気が高かった。
 現在のフランスでは、2005年5月の国民投票で批准できなかったEU憲法条約の再批准問題とともに、依然として高い失業率と経済格差が続いており、増え続ける移民問題もかかえている。サルコジ大統領は従来のフランスのアメリカとは一線を画していた外交路線を親米路線に転換する傾向があり、また内政ではフランス伝統の平等主義をすて、新自由主義的な競争原理、市場原理の導入を強めた。2009年3月にはドゴール大統領の時のNATO脱退以来、43年ぶりにNATO軍事部門への完全復帰を表明した。
 2012年4月の大統領選挙でサルコジは、社会党のオランドが決選投票の末に敗北し、フランスはミッテラン時代以来の革新政権に戻った。オランド政権は低人気が続いているが、2014年にはサルコジを大統領選挙の時の収賄容疑で逮捕し、人気挽回を図ったのではないかと注目されている。

フランスの地域語の復活

 かつてフランスは地域語が堂々と使われる多言語国家であったが、フランス革命で革命理念をフランス語で広めるため、1794年には「地域語・方言の抹殺」を目標に、フランス語言語教育が行われた。公立学校でフランス語教育が義務化され、19世紀末に初等教育が無償化され急速に普及し、学校で地域語を話すとお仕置きされるていた。第二次世界大戦の51年に政策の転換が図られ、地域語を学校で教えられるようになり、81年のミッテラン政権でその流れが進めれた。保守派の抵抗もあって92年の憲法改正では「共和国の言語はフランス語である」と明記された。しかしヨーロッパ統合のなかで、ヨーロッパの多言語主義がとられるようになって、フランスでも地域語の復権がはかられ、2008年7月の憲法改正で地域語は「フランスの遺産」と明記されることとなった。代表的な地域語にはアルザス語、オクシタン語(南部地域)、ブルトン語(ブルターニュ)、コルシカ語、バスク語などがある。<朝日新聞 2008年12月26日記事>
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5章1節 カ.分裂するフランク王国
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アンドレ・モロワ
『フランス史』上
新潮文庫
アンドレ・モロワ『フランス史』下 新潮文庫

柴田三千雄
『フランス史10講』
2006 岩波新書