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エムス電報事件

1870年7月、ビスマルクが情報操作によってドイツ・フランスの世論を刺激し、ナポレオン3世を戦争に踏み切らせ、普仏戦争の直接的契機となった事件。

 1868年のスペイン九月革命で王位が空位となったため、スペイン王位継承問題が起こった。プロイセンのビスマルクはホーエンツェレルン家につながるレオポルトを推薦し、スペインも一旦了承した。それに対してフランスのナポレオン3世は、ホーエンツォレルン家にフランスが挟撃されることを恐れて反発し、外交問題に発展した。ナポレオン3世はプロイセン王ヴィルヘルム1世に強く迫り、一旦はレオポルトの即位を撤回させた。当時、メキシコ出兵の失敗などで失政を重ねていたナポレオン3世は、国内の反プロイセン感情に迎合して失点を回復しようとし、さらに駐プロイセンのフランス大使ベネデッティをエムスに滞在中のヴィルヘルムのもとに遣ってプロイセンが再びスペイン王位継承に口出ししない約束を取り付けようとした。エムスはライン川右岸(西側)、フランクフルトの北方に位置する。

ビスマルクによる情報操作

 1870年7月13日に行われたヴィルヘルム1世とフランス大使の会談の内容は、ただちにベルリンのビスマルクに打電された。それは、単に会談の内容を報告するものに過ぎなかったが、ビスマルクはその内容を次のような簡潔なものに要約し、ドイツ諸邦の駐在公使に打電するとともに新聞を通じて公表した。
(引用)ホーエンツェレルン家の世子(レオポルト)が(スペイン王位を)辞退される旨、スペイン政府がフランス政府に対して公式に通達した後、フランス大使はエムスにおいてさらに国王陛下に対し、ホーエンツェレルン家の人間が再び(スペイン)国王候補となるようなことがあっても、今後絶対に同意を与えることはないと国王陛下が誓われる旨、パリに打電する権限を与えるようにと要求してきた。これに対して国王陛下は、フランス大使とさらに会うことを拒まれ、副官を通じて、大使にこれ以上何も伝えることはないとお伝えになった。<飯田洋介『ビスマルク』中公新書 2015 p.145>
 これが世に名高い「エムス電報」であり、ビスマルクにとってまさに起死回生の電報となった。本来の電報は単なる状況報告でしかなかったのだが、彼は「スペイン王位継承問題でフランスがプロイセン王に不当な要求を突き付けてきたという印象を際立たせることに成功」し、さらにこうしたフランス側の要求をプロイセン王はきっぱりと断り、「フランス大使とさらに会うことを拒」み、「何も伝えることはない」という個所を強調したことで、独仏双方の世論を強く刺激したのである。この「エムス電報」が公表された瞬間、本来この問題で勝者であったナポレオン3世が一転して窮地に追いこまれ、世論の支持を確保して自らの王朝を維持していくには、もはやプロイセンに対し強硬に打って出る以外には選択肢は無くなり、7月19日、宣戦布告を行い、普仏戦争の戦端が開かれることとなった。<以上、飯田洋介『同上書』 p.145-6 による>
ビスマルクの意図  エムス電報事件は「ビスマルクによる電文改竄」とか「ビスマルクの偽電報」などとも言われることがあるが、飯田氏の説明にもあるように、ビスマルクは単なる報告文を、プロイセン王がフランス大使による「恫喝」を毅然としてはねつけたというイメージにとれるよう、いわば誇大に発表したのであり、実際には「情報操作」というのが正しいようだ。事実で無いこをと偽造したわけではない。飯田氏の著作に最初の電文とビスマルクの作成した電文の両方が掲載されているので較べることができる。また、飯田氏も慎重に指摘しているように、ビスマルクが戦争になることを想定してこの操作をしたという証拠はない。つまり意図的にナポレオン3世を挑発しようとしたのかどうかは正確にはわからないが、この電報公表によってナポレオン3世がプロイセンに宣戦布告したことは事実であり、プロイセン側が開戦を予想して軍備を整えていたことも事実である。
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ノートの参照
第12章2節 キ.ドイツ帝国とビスマルク外交
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飯田洋介
『ビスマルク』
2015 中公新書