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アメリカ=イギリス戦争/米英戦争/1812年戦争

1812年~14年のアメリカ合衆国とイギリスの戦争。第2次独立戦争とも言われ、アメリカ合衆国の経済的自立がもたらされた。

 ナポレオン戦争中の1812年6月に起こったアメリカ合衆国イギリスの戦争。イギリスがアメリカとフランスの貿易を妨害したことなどに対するアメリカの反発から起こった。戦闘はアメリカ国内で行われたが勝敗はつかず、ヨーロッパでナポレオンが没落したことを受け、1814年に講和した。

第2次独立戦争

 この戦争はアメリカでは1812年戦争と言うことが多い。また、その歴史的意義から第2次アメリカ独立戦争とも言われている。独立後のアメリカ合衆国が最初に戦った国家間戦争であったが、国内には戦争目的が薄弱で無意味な戦争であるという非難が当初からあり、困難な戦争であった。また戦争はアメリカ国内が主な戦場となり、首都ワシントンもイギリス軍に占領されるなど不利な戦いが続き、戦争で直接的に得たものはなかったが、この戦争の結果、アメリカ合衆国の国家意識(ナショナリズム)が高まっただけでなく、アメリカの産業と経済が自立の時期を迎えたことは重要である。、

背景 中立政策の行き詰まり

 フランス革命さらにナポレオン戦争というヨーロッパの激動に対し、独立したてのアメリカ合衆国は初代大統領ワシントンの退任演説に見られるように、中立政策を原則とし、英仏双方との貿易の利益を守っていた。第3代大統領ジェファソンも基本的には中立政策を維持した。しかし、英仏の対立が先鋭化し、1806年にナポレオンが大陸封鎖令を出し、イギリスの港へのすべての商船の入港を禁止したため、アメリカ船もイギリスに入れなくなった。さらにイギリスも逆封鎖に乗りだしたので、アメリカ船舶はフランス及びフランス植民地への入港が出来なくなってしまった。こうしてアメリカの中立政策は困難となり、いずれかの国との貿易を再開するには、いずれかの国と敵対しなければならない状況となった。 → アメリカ外交の孤立主義
タカ派の登場 そのような中で、アメリカ国内にはイギリスに対する反発、フランスに対する反発の双方があったが、次第にイギリスに対する反発の方が強まっていった。その背景には、1783年の独立達成から約30年たち、独立戦争を知らない世代が増え、特に内陸部の開拓農民の中に、イギリス領のカナダへの進出やフロリダへの領土拡張を主張する主戦派(タカ派=ウォー・ホークス)が現れていた。また彼らは、西部開拓でインディアンの抵抗を受けていたが、インディアンの背後にはイギリスがいて、その支援を受けている事への反発があった。アメリカ議会の中にもタカ派が多数を占めるようになり、1808年に大統領となったマディソン(ジェファソンのもとで国務大臣を務めていた)も彼らをコントロールすることが出来なくなり、中立・平和政策は揺らいでいった。

アメリカの戦争の口実

 1812年6月、アメリカ議会はイギリスに対する宣戦布告を行い、米英戦争が開始された。そのとき、第4代大統領マディソン大統領が表明した戦争の理由は次のようなことであった。
  1. イギリスによる貿易の妨害 イギリスがナポレオンの大陸封鎖令に対抗してフランスに対する逆封鎖を行い、アメリカとヨーロッパ大陸及びフランスとの貿易を妨害したこと。
  2. イギリス海軍による強制徴用 イギリス海軍が、イギリス兵が脱走して紛れ込んでいるとしてアメリカの船舶を臨検し、その際アメリカ人船員まで強制徴用するという事件が続き海上の自由航行権を侵害していること。
  3. イギリスとインディアンとの同盟 イギリスは、インディアンと同盟を結び、武器その他の他の支援を行ってアメリカ人の西部開拓を妨害していること。

アメリカの狙い

 以上の戦争理由は、タカ派の主張にもとづくものであったが、それに対してはニューイングランド海岸の貿易商などは開戦に強く反対した。しかし、アメリカが戦争に踏み切ったのは、イギリスがナポレオン戦争で苦境に陥っている間に、合衆国北部のイギリス領カナダに進出し、さらに南部ではフロリダを併合、西部ではインディアンの抵抗を排除して開拓を進めるチャンスであるという、領土拡張への野望であった。
(引用)名分の上では、イギリスとの紛争は、イギリスによるアメリカ商業の略奪、アメリカ海員の奪取、および合衆国の西北部辺境の不穏なインディアンへの支持など、についてであった。しかし実際には、戦争は、フロリダを征服しようとする南部の政治家と、カナダを征服して、これを併合しようとする西部の政治家の決意から起こったようなものであった。いずれにしても、1812年6月、議会はイギリスに向かって戦いを宣した。そして、マディソンは、主として商業上の問題を掲げて戦争目的を表明し、フロリダやカナダについては少しも言及しなかった。<ビーアド/松本重治他訳『新版アメリカ合衆国史』1964 岩波書店 p.177>

戦争の経過

議会の宣戦布告 アメリカ国内で反英感情と主戦派が台頭するなか、アメリカ議会は1812年6月18日、イギリスに宣戦した(合衆国憲法で宣戦布告権は議会が持っている)。実はその2日前、イギリスはアメリカの要求を容れて貿易制限を撤廃することを通告していたが、当時の通信事情からその知らせが説いたのは宣戦布告後だった。(つまり、宣戦布告が2日遅れれば、開戦の口実が失われるところだった。)
イギリス軍のワシントン占領 アメリカ海軍が五大湖のエリー湖の海戦で勝ち、五大湖地方に進出した。さらにイギリス軍を攻撃するとともにインディアンがイギリス軍と同盟しているとして、南部のクリーク族などインディアンに対しても攻撃を行った。しかし、カナダを拠点とするイギリス軍の反撃を受け、イギリス軍は後退するアメリカ軍を追って、一時首都ワシントンを占領して大統領府を焼き討ちするなど、アメリカ軍は危機に陥った。その後は一進一退を重ね、戦線は停滞した。アメリカ北東部のニューイングランドの諸州では戦争に反対する動きが強まった。
講和成立後のジャクソンの勝利 ようやく、1814年にヨーロッパでナポレオン軍が敗れたことを受けて、同年12月のクリスマスイブにベルギーのガンで講和条約締結となった。ところが、講和成立の知らせが本国に届く前の1815年1月、ジャクソン将軍指揮のアメリカ軍がミシシッピ河口のニューオリンズに駐屯したイギリス軍を攻撃して大勝していた。そのため、厳密には勝敗がつかず痛み分けとなっていたにもかかわらず、アメリカ国民は戦争に勝利したと思い込み、合衆国の危機を救ったジャクソン将軍の名声が高まった。彼はその後、大統領選に出馬し当選、1829年からアメリカ合衆国第7代大統領を務める。

インディアンに対する征服戦争

 この戦争中、アメリカ合衆国側はイギリスがインディアンを味方にして、連合して攻撃しているとして、大々的な征討作戦を展開している。1813年秋からジャクソン将軍の率いるアメリカ軍はクリーク族インディアン征討に向かい、多数の戦士を殺害し、翌年夏に講和条約を結び、約2300万エーカー(約9.2万平方km)におよぶ広大な土地を割譲させた。この土地は後に綿花栽培の中心地帯となる。)アメリカはインディアンに対する戦争でも勝利を占め、白人支配地を大きく拡大することとなった。

戦争の本質

 アメリカ=イギリス戦争の開戦に対して特に東海岸の都市で貿易に従事する人々を始め、国内では無意味な戦争だとして反対する声も強く、国民も冷ややかで「マディソン氏の戦争」としか言わなかった。戦争の口実はイギリスによる貿易の妨害であるが、当時、タカ派(ウォー・ホークス)と言われた主戦派のもくろみは合衆国の領土の拡張であり、インディアンから土地を奪うことであった。

戦争の影響

 無意味な戦争として始まったが、結果的に保護貿易政策が採られたためアメリカ産業の生産力が高まり、イギリス経済に依存しない産業力を身につけることとなって、アメリカの産業革命の端緒となった。また、首都を焼かれたことでの復讐心から愛国心が強まり、第2次独立戦争とも位置づけられるようになって、大陸諸国に対して独自の道を歩む国家としての意識が生まれた。それが1823年のモンロー教書につながっていく。 → アメリカの外交政策
アメリカ国歌の誕生 なお、現在、アメリカ国歌として広く歌われている「星条旗」の歌詞は、米英戦争の際に、イギリス軍の進撃をくい止めたボルティモア近郊のマックヘンリー城砦の戦いで、砦上にはためいた星条旗に感激したフランシス=スコット=キーという人が作詞したもので、そのころ宴会でよく歌われていた曲にのせて歌われるようになったものである。 → アメリカ合衆国

Episode パールハーバーと9.11

 話は飛ぶが、2001年9.11同時多発テロの時、ブッシュ大統領は、1941年12月7日のパールハーバーと同じショックを受けた、そして今度はハワイではなく、本土が初めて攻撃されたといって激怒した。しかしこれは厳密に言えばアメリカ合衆国が独立後、直接本土を攻撃された二度目のことだったといえる。その最初がこのアメリカ=イギリス戦争(1812年戦争)でのイギリス軍によるワシントン攻撃であった。アメリカ合衆国はこの三度の攻撃(どちらかといえば先にしかけたのはアメリカ側と言えなくもないが)をバネにして、それぞれ愛国心と闘争心を駆り立てナショナリズムを高揚させた。

Episode ホワイトハウスの誕生

 アメリカ合衆国の首都ワシントンは、米英戦争の最中の1814年8月、イギリス軍の攻撃を受け、灰燼と帰した。そのとき、最初の大統領官邸も焼け落ちてしまった。戦後、マディソン大統領はその再建を命じ、1817年に完成した。この時、外壁がすべて白で塗装されたため、この建物は「ホワイトハウス」と言われるようになり、それがアメリカ大統領の執務兼居住として、大統領府(行政府)を意味する言葉として定着した。
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ノートの参照
第12章3節 ア.領土の拡大