印刷 | 通常画面に戻る |

武断政治(朝鮮)

1910年からの日本の朝鮮支配で、現役軍人が朝鮮総督として統治したこと。1919年の三・一運動を機に文化政治に転換した。

 軍人による統治を意味し、1910年に始まる日本の朝鮮植民地支配において、朝鮮総督府による統治がそれにあたる。1919年に三・一独立運動が展開されて翌年に文化政治に転換するまで続いた。
 総督府の長官の朝鮮総督は、天皇に直属し(つまり本国の内閣からは独立して)韓国の政治・軍事すべてを掌握し、陸海軍の大将が任命されることになっていた。その統治は、憲兵隊司令官(明石元三郎)が警務総長を兼務し、普通警察と一体化となって治安維持の他に戸籍事務や農作物の作付強制など民衆の生活をも掌握するもので、いわゆる「武断政治」であった。このような統治方針は、1919年に三・一独立運動が起きて「文化政治」と言われるソフトな統治に改められるまで続いた。
 なお、中国史では唐末から宋代の軍人である節度使による統治なども武断政治と言われている。

朝鮮総督の交代

 三・一独立運動は、日本の統治者に強い衝撃をあたえ、暴力だけによって朝鮮を支配することの不可能を自覚させた。1918年の米騒動で寺内正毅内閣が倒れ、代わって成立していた原敬内閣は朝鮮統治の混乱収拾と安定を図るため、朝鮮総督長谷川好道を更迭し、あらたに海軍大将斎藤実を任命した。斎藤実は1919年8月に就任し、27年12月に山梨半造(陸軍大将)に譲ったが、山梨が朝鮮米をめぐる賄賂事件で辞任したため29年8月に再任され、31年6月までその地位にあった。ほぼ斎藤実朝鮮総督の任期であった1920年代を、「文化政治」の時期という。<姜在彦『朝鮮近代史』1986 平凡社選書 p.201->
 斎藤実とそのもとで政務総監となった水野錬太郎は、着任早々、ソウル駅で爆弾の洗礼を受けている。二人は無事だったが、30数名が重軽傷を負った。爆弾を投じたのは老儒姜宇奎は、20年11月に死刑となったが、その公判で朝鮮総督斎藤実こそ裁かれるべきであると主張し、裁判官以下、皆驚いたという。
印 刷
印刷画面へ