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三・一独立運動

日本の植民地支配下の朝鮮で、1919年3月に起こった民族独立運動。

 日本の朝鮮植民地支配は1910年の韓国併合によって完成し、以後は朝鮮総督府による武断政治が行われていた。その植民地支配に対する朝鮮で起きた最大の独立運動が、三・一独立運動であった。それは、第一次世界大戦の末期に起こった第2次ロシア革命によって世界最初の労働者政権が成立したこと、また大戦によってドイツ帝国、ハプスブルク帝国などがたおれ、民族自決の気運が一挙に高まってきたこと、という流れの中で起こったもので、アジアにおいては前年の日本の米騒動、同年に起こった中国の五・四運動と連動した帝国主義に対する民衆と被抑圧民族の蜂起であった。

三・一独立運動

 1919年3月1日、ウィルソンの「民族自決」の原則に期待し、日本の植民地支配を世界に訴え、独立宣言を発表してパリ講和会議に請願しようとした孫秉煕ら33名が日本の官憲に逮捕された。彼らを支持した学生や民衆が数千名、京城のパゴダ公園に集まって独立宣言を読み上げ、「朝鮮独立万歳」を叫んだ。日本の朝鮮総督府は軍隊と警察で弾圧したが、動きは全土に拡がり5月まで断続的に繰り返され数千人の死者、5万人近い逮捕者が出た。日本には単なる騒擾事件としてのみ伝えられて万歳事件といわれ、独立運動としての詳細は報道されず、日本国民もほとんど知ることはなかった。
 しかし政府と植民地統治当局である総督府は植民地統治姿勢を転換せざるを得ないことを知覚し、武断政治を文化政治に転換させるという対応をした。また同年に上海で李承晩らが大韓民国臨時政府を結成し、朝鮮の独立運動は海外を拠点に続けられることになった。
三・一独立運動の意義 この出来事は「事件」と矮小化して捉えることはできない。次のような歴史的な意義を見いだすことができる。
  • 偶発的な騒擾事件ではなく、継続的・計画的に勧められた独立運動の中で起こった。
  • 一部の都市だけではなく農村にも広がり、市民や学生だけではなく労働者や農民も含んだ広範な民族運動であった。
  • 第一次世界大戦期の民族自決を求める高まりの中で起こった、世界的な反帝国主義の民衆蜂起であった。

運動の経緯

 1910年の韓国併合後も、それ以前の朝鮮人の反日義兵闘争や愛国啓蒙運動は姿を変えて継承され、各地に秘密組織として軍事拠点をひそかに設けていた。また、天道会やキリスト教教会、仏教会の三つの宗教団体も日本の植民地支配に抵抗する信念を持ち続けていた。さらに日本への留学生や海外に移住した朝鮮人も、民族自決という世界の動向に刺激され、密かに独立の希望を強めていた。
東京の留学生決起 1919年1月からパリ講和会議が開催されることを知ったアメリカや上海在住の朝鮮人の中から、朝鮮の民族自決を訴える代表派遣の声が起こり、国内でも天道会・キリスト教教会など宗教団体が呼応し、秘密裏に工作が進んだ。運動を国内で点火させる役割を果たしたのは、東京留学生の決起であった。1919年2月8日、東京西神田小川町の朝鮮YMCA会館に集まった約600人の学生(早稲田、慶応、青山学院、東京高師などの朝鮮人留学生)は朝鮮青年独立団の名のもとに独立宣言書などを採択し、日本政府・各国大使館・朝鮮総督府などに送付した。留学生たちは独立宣言ののち示威を始めようとして警察と衝突、約60人が検挙され、10数名が負傷した。その後多くの学生が国内の運動に参加するために帰国した。
高宗の急死 ちょうどそのころ、1月21日に高宗が急死し、国内では日本による毒殺説がひろまった。高宗はハーグ密使事件を機に伊藤博文の脅迫により王位を皇太子に譲り、日本の監視下にあったからだった。3月3日に予定された国葬にむけて、国内の独立運動計画も活発になった。国内でその運動の中心となったのは天道会・キリスト教教会・仏教会の宗教団体だった。
3月1日 宗教団体・学生らの団体代表は密かに連絡を取り合って独立宣言を作成、総責任者を呉世昌とし、3月1日午後2時、ソウルのパゴダ公園で決起することを決めた。当日、代表29名は流血を避けて泰和館で独立宣言は読み上げた。
(引用)パゴダ公園に集まった数千人の群衆は、康基徳、金元璧、韓偉健らの先導のもとに独立を宣言し、各学校生徒に市民も合流して三隊に分かれ、夜の十一時頃まで独立万歳を高唱しながらソウル市内を示威行進した。三・一運動が自然発生的な運動でないことは、ソウルと時を同じくして3月1日に、宣川、平壌をはじめ、元山、鎮南浦などでも、キリスト教系学校生徒を中心に決起していることからわかる。ソウルではさらに、国葬参加者が地方に帰郷する3月5日にソウル駅前に集合して第二回目の示威を行ったが、金元璧、康基徳をはじめ男子学生71名、女子学生4名が逮捕された。<姜在彦『朝鮮近代史』1986 平凡社選書 p.188->
全国的波及 三・一運動はその当初から平和的示威運動にとどまることはできなかった。3月3日には天道教の主導した黄海道遂安の群衆示威行動は死者9名、4日には平安南道成川で憲兵分隊長が重傷後死亡したのにたいする報復として死者25名を出すなど、死者・負傷者が続出、憲兵隊側にも死者が出ている。また10日以降は、南部朝鮮にも波及した。また朝鮮半島にとどまらず、中国東北部の間島地方でも3月13日から活発に起こっている。
原内閣の対応 日本では寺内正毅に代わって首相となった原敬が、3月11日に長谷川好道朝鮮総督に対し、「今回の事件は内外に対し極めて軽微なる問題となすを必要とす。然れ共、実際に於て厳重なる措置を取りて再び発生せざる事を期せよ。但外国人は最も本件に付注目し居れば残酷苛察の批評を招かざる事十分の注意ありたし」(原敬日記)と訓電している。朝鮮人と外国人に向ける顔を使い分けている。その上で原敬は陸相田中義一と協議して4月4日の閣議において、日本本国から通常編成より多い6個大隊と憲兵300~400を増派することを決定した。
水原郡堤岩里事件 日本軍警による流血の弾圧にたいして運動もしだいに暴力化、4月1日~10日までが最高潮に達した。この間、全国的に死者170名、負傷者346名が出ている。その間に最も悲惨な事件がおこった。4月15日、京畿道水原郡堤岩里で、有田大尉の指揮する日本の軍警はかねて暴徒を教唆しているのはキリスト教教会であるとめぼしをつけ、住民を教会堂に集め「騒擾」の責任者を割り出そうと訊問したところ一人が脱出しようとした。捉えようとして抵抗したのでその男を切り捨てたところ、この虐殺現場を見ていた住民が反撃に出たので一斉に銃撃し、さらに教会堂を焼き払い、村全体が廃墟と化した。朝鮮総督は発砲・砲火を日本軍警と認めたものの指揮官は刑事処罰されず行政処分に留めた。

三・一運動の規模

 三・一独立運動の規模については、朝鮮側と日本官憲側で数字が異なっている。朴殷植『朝鮮独立運動の血史』(東洋文庫)では3月~5月に集会参加者延べ約202万、死傷者が7509名、負傷者が15961名としている。日本警察の集計では、3~4月11日であるが参加人数約49万、死者357名、負傷者802名となっている。日本側の数字は「極めて軽微なる問題」とするための控えめな数字であろう。三・一運動期間中、6月30日までに逮捕され起訴された総数は26865人、第一審判決で最高15年から最低3月未満までの受刑者が22275名であった。

参考 柳宗悦の涙

 日本国内では、三・一独立運動は「万歳事件」と言われ、一部の「反日」的な暴徒が「独立万歳」を叫びながら示威行為を行ったので弾圧されたと報じられたに過ぎなかった。また論調の多くは、民度の低い朝鮮人が、外国人宣教師などに煽動され、日本の十分な植民地統治を覆すために起こした暴動であり、断固鎮圧せよというものであった。しかし、民本主義を唱えた吉野作造、経済記者であった石橋湛山らの少数は、日本の植民地政策の失敗と捉えて朝鮮人に同情を寄せる論調もあった。また民間芸術を提唱し、朝鮮・台湾・沖縄の美術の価値を高く評価していた柳宗悦(やなぎむねよし 1889~1961)は、三・一独立運動に大きな衝撃を受け、5月20~24日の読売新聞に「朝鮮人を想う」という小論を発表した。その冒頭近くで、次のように言っている。
(引用)私は今度の出来事について少なからず心を引かされている。特に日本の識者が如何なる態度で、如何なる考えを述べるかを注意深く見守っていた。しかしその結果朝鮮についての経験あり知識ある人々の思想がほとんど何らの賢さもなく深みもなくまた温かみもないの知って、私は朝鮮人のためにしばしば涙ぐんだ。・・・  特に他人の心に触れ逢おうとする微妙な契機に対して、知よりも情こそ深い理解の道であろう。隣人との交りはただ愛が結ぶのである。軍政や圧迫が人と人とを結ぶと誰が思い得るであろう。知でもなく刃でもなくただ一つの情にこそ不思議な力がある。平和を愛する者はたえず微笑むであろう。怒号が何時何処で平和をもたらした場合があろうか。<柳宗悦『朝鮮とその芸術』所収 朝鮮人を想う Kindle版 位置No.213>

文治政治への転換

 三・一独立運動は、日本の統治者に強い衝撃を与えた。米騒動で倒れた寺内内閣に代わった原敬内閣は、三・一独立運動による混乱の収拾と、植民地支配の安定を図るため、朝鮮総督長谷川好道を更迭し斎藤実を任命した。斎藤実と政務総監水野錬太郎が連れ立ってソウルに降り立ったとたん、爆弾を投げつけられ、二人は無事だったが三十数名が負傷した。清水錬太郎は1923年の関東大震災の時、内務大臣として朝鮮人や社会主義者の虐殺を誘発させた張本人であり、爆弾を投じたのは老儒者姜宇奎だった。姜宇奎はその場で逮捕され、20年に断頭台に送られたが、法廷で斎藤実こそ裁かれるべきであると主張し、愛国志士とされた。
 赴任時にこのような洗礼を受けた朝鮮総督斎藤実は、いわゆる武断政治を改め、文化政治によって1920年代の朝鮮植民地支配を行った。

参考 吉野作造の三・一運動論

 吉野作造は三・一運動直後の1919年4月号の『中央公論』で「対外的良心の発揮」と題した論文を発表し、朝鮮での暴動を日本の植民地政策の失敗によるものであると論じ、日本は真摯に受け止め、反省しなければならないと述べた。日本の論調のほとんどが朝鮮人の排日運動として非難し、あるいは第三国の煽動によるものだと誤解し、日本がここまで恩恵を施しているのに朝鮮人がそれを喜ばないのは不遜だ、といったものであったのに対し、吉野は「対外的良心の著しい麻痺」であると捉えて、少数派ではあったが、日本の植民地政策の誤りを指摘した。へんてこな嫌韓論がまかり通っている現在においても耳を傾ける意味がある。
(引用)朝鮮の暴動(三・一独立運動)は、言うまでもなく昭代の大不祥事である。これが真因いかん、又根本的解決の方策いかんに就いては、別に多少の意見はある。ただこれらの天を明らかにするの前提として、予輩のここに絶叫せざる点は、国民の対外的良心の著しく麻痺して居る事である。今度の暴動が起こってから、いわゆる識者階級のこれに関する評論はいろいろの新聞雑誌等に現れた。しかれどもその殆んどすべてが、他を責むるに急にして、自ら反省するの余裕が無い。あれだけの暴動があってもなお少しも覚醒の色を示さないのは、いかに良心の麻痺の深甚なるかを想像すべきである。かくては、帝国の将来にとって至重至要なるこの問題の解決も、とうてい期せらるる見込はない。<吉野作造『中国・朝鮮論』所収 「三・一運動論」 東洋文庫 p.141>
 吉野作造は次の二点に注意する必要があるとしている。
  • 日本の朝鮮統治が朝鮮人の心理にどのような影響を与えたかをきわめずには問題の解決はない。長い歴史と独特の文明を有する朝鮮人として関わったか。「自らを不当に高く値踏みし、他をば不当に低く値踏みするの弊は、殊に民族の間に甚だしい。」
  • 暴動の起因が第三者の煽動にあるとみているのでは、根本的解決はできない。当時の一部の論調には、暴動は外国人キリスト教宣教師が日本の朝鮮統治を妨害しようとして煽動したのだ、という見方があった。たしかに教会は独立運動の拠点の一つであったが、外国人宣教師が煽動した事実はない。日本人は何かにつけ事件の黒幕を詮索するのが好きだが、それによって本質を見誤る危険は避けなければならない。
吉野作造の解決案 吉野作造は続けて1919年6月5日、黎明会(民本主義を宣揚する団体)で「朝鮮統治の改革に関する最小限度の要求」と題して講演し、「朝鮮問題」の解決策として次の4点を提案した。<吉野作造『中国・朝鮮論』所収 「三・一運動論」 東洋文庫 p.152-192>
  1. 朝鮮の人に向かって、差別的待遇を撤廃すること。
  2. 武人政治(具体的には憲兵政治)を廃止すること。
  3. 同化政策を放棄すること。
  4. 言論の自由を与えること。
 これらの具体的な提案は、日本の朝鮮統治策に一定の影響を与え、いわゆる「文化政治」として現実化する。しかし朝鮮人の最も強い要求である独立、あるいはその前段としての自治については、吉野作造はしかるべき機関を設置して検討をする、と言うことに留めた。また、文化政治の実際は、不十分なものにとどまるとともに吉野の意図とは異なって、日本への同化をよりすすめる結果となった。