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光緒新政

1901年からの西太后らによって行われた清朝最末期の上からの改革。成果を上げることなく辛亥革命となった。

 義和団事変後の清朝政府が光緒年間の1901年から行った、最後の改革運動。実権を握っていた西太后が行ったもの(光緒帝は幽閉中。「光緒新政」とは光緒帝が行った新政という意味ではなく、光緒年間に行われた改革、と言う意味)であるが、かつて彼女が葬り去った康有為らの戊戌の変法の内容を焼き直したものにすぎなかった。
 1901年1月、西太后は「外国の長所をとり中国の短所を去って富強を図る」として、高官たちに意見具申を求めた。これを出発点として、清朝は「生き延びるための新政」を開始した。新政を推進したのは直隷総督袁世凱、両江総督劉坤一、湖広総督張之洞らだった。その主な内容は、
  1. 新軍建設を中心とする軍隊の近代化(当初36個師団を予定。清末までに14師団が編成された。)
  2. 商部(商工業省)の新設、商会や会社の設立奨励、商法の制定などからなる実業振興。
  3. 各県に小学校、府に中学、省に大学、また師範学校、各種実業学校の設立、学制の公布、学部(文部省)の設置などの教育改革。
  4. 科挙の廃止(1905年)、大量の留学生の外国、特に日本への派遣による新型官僚の育成など。
 「清朝の列強への従属が決定的になった時期にようやく行われたこの新政は、さまざまな変化を中国社会にもたらし、それが清朝の墓穴を掘ることになった。」小島晋治・丸山松幸『中国近現代史』1986 岩波新書 p.57>

清朝の末路

 その実務に当たったのは袁世凱などの官人官僚であるが、あくまで清朝の支配を延命させるための改革にとどまった。折から起こった日露戦争では清朝の発祥の地である満州で日本とロシアの激しい戦闘が行われたが、清はいずれにも与しなかった。日露戦争の年に清では最後の科挙が行われ、翌年には科挙の廃止を決定した。また日本や欧米に使節団を派遣し、憲法制定の準備を行い、1908年に憲法大綱を発布、9年後に議会を開設することを約束した。また近代をアピールする為もあって、纏足禁止令を出した。しかし、清朝政府は帝国主義列強の外圧と、内部からの孫文らの革命運動に対処できず、1908年光緒帝と西太后が相次いで死去、3歳で宣統帝(溥儀)が即位したが、1911年に辛亥革命(第一革命)が起こり、翌年退位して清朝も終わり、最後の皇帝となった。
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ノートの参照
第14章3節 エ.辛亥革命