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光緒新政

義和団事変後、20世紀初頭に西太后らによって行われた清朝最末期の上からの改革。一定の近代化を図り清朝の延命を図ったが成果を上げることなく1911年の辛亥革命で倒れた。

 義和団事件(北清事変)で北京を義和団に占領され、清朝政府はそれに押されて諸外国に対して宣戦布告をしたものの、8ヵ国連合軍が北京に侵攻したために光緒帝西太后は西安に避難した。まだ義和団事件が続く中、1901年1月に清朝の実権を握る西太后は、光緒帝の名において、清朝政府の改革を行い態勢を立て直すことを宣言した。その後、8ヵ国列強との間で同年9月に北京議定書を締結、外国への従属の度合いを深めながら、清朝の改革運動である「光緒新政」がおこなわれることとなった。

西太后主導の最後の改革

 清朝の実権は西太后と保守派の漢人官僚がにぎっており、皇帝光緒帝は幽閉中であったので、「光緒新政」とは光緒帝が行った新政という意味ではなく、光緒年間に行われた改革、と言う意味である。またその内容も、かつて彼女が葬り去った康有為らの戊戌の変法の内容を焼き直した「上からの」手直しに過ぎずなかったために清朝の再起にはつながらず、その「最後の改革」となって終わった。

光緒新政の要点

 1901年1月、西太后は「外国の長所をとり中国の短所を去って富強を図る」として、高官たちに意見具申を求めた。これを出発点として、清朝は「生き延びるための新政」を開始した。新政を推進したのは直隷総督袁世凱、両江総督劉坤一、湖広総督張之洞らだった。その主な内容は、
  1. 新軍建設を中心とする軍隊の近代化(当初36個師団を予定。清末までに14師団が編成された。)
  2. 商部(商工業省)の新設、商会や会社の設立奨励、商法の制定などからなる実業振興。
  3. 各県に小学校、府に中学、省に大学、また師範学校、各種実業学校の設立、学制の公布、学部(文部省)の設置などの教育改革。
  4. 科挙の廃止1905年9月2日)。それに代わり大量の留学生の外国、特に日本への派遣による新型官僚の育成など。
 「清朝の列強への従属が決定的になった時期にようやく行われたこの新政は、さまざまな変化を中国社会にもたらし、それが清朝の墓穴を掘ることになった。」<小島晋治・丸山松幸『中国近現代史』1986 岩波新書 p.57>

憲法大綱の発布

 その実務に当たったのは袁世凱などの官人官僚であるが、あくまで清朝の支配を延命させるための改革にとどまった。折から1905年に起こった日露戦争では清朝の発祥の地である満州で日本とロシアの激しい戦闘が行われたが、清はいずれにも与しなかった。日露戦争の年に清では最後の科挙が行われ、翌年には科挙の廃止を決定した。また日本や欧米に使節団を派遣し、憲法制定の準備を行い、1908年に憲法大綱を発布、9年後に議会を開設することを約束した。また近代をアピールする為もあって、纏足禁止令を出した。しかし、清朝政府は帝国主義列強の外圧と、内部からの孫文らの革命運動に対処できず、1908年に光緒帝と西太后が相次いで死去、わずか2歳の宣統帝(溥儀)が即位した。

辛亥革命

 この間、孫文は清朝打倒、共和政樹立を主張して組織した中国同盟会を中心に、各地で武装蜂起を企てたが、いずれも鎮圧され、孫文自身は海外に拠点を移し、華僑の組織化と資金援助と国際的な支援を訴えていた。
 1911年に、清朝政府が四国借款団からの借款をもとに鉄道国有化政策を打ち出したことに民族資本が反発、さらに 新軍が加わって四川暴動から武昌蜂起に発展、反清朝の決起は全国におよんでついに辛亥革命が勃発、孫文も急きょ帰国して革命を指導し、翌1912年1月1日、孫文を臨時大総統とする中華民国が成立した。清朝の実力者で北洋軍閥を率いた袁世凱は宣統帝に迫って同1912年2月12日退位させ、これによって清朝も終わりを告げた。これは清朝の滅亡だけでなく、始皇帝以来2千年にわたった、中国の王朝支配、皇帝支配が終わったことを意味していた。
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