印刷 | 通常画面に戻る |

ラーム=モーハン=ローイ

18世紀前半のインドの社会と文化の改革を説いた民族独立運動の先駆者。

「近代インドの父」あるいは「インド=ルネサンスの父」と言われている。1772年、ベンガルのバラモン階級の裕福なザミンダール(地主)の家に生まれ、当時の宮廷用語であるペルシア語を学ぶためにイスラーム文化の中心地パトナに遣られ、そこでイスラーム教のスーフィズム思想に触れ、「宇宙を支配する唯一の見えざる神」への信仰を知った。それによってカーストの存在などのヒンドゥー社会の現実に疑問を抱くようになったが、その後にベナレスで『ヴェーダ』や『ウパニシャッド』などインド古来のヴェーダーンタ哲学を学ぶうちに、ヒンドゥー教の根底にも同じ一神教があるのに、現状が儀式や因習、迷信に過ぎなくなっていると考えるようになった。さらにキリスト教や西洋哲学にも学びながら、すべての宗教は「宇宙の創造者であり保持者である永遠不変の存在者」をそれぞれの形式で礼拝するものであるという信念に到達した。その理念に基づいて1828年にブラーフマ協会(ブラーフマ=サマージ)を設立した。これは19世紀インドのヒンドゥー教改革運動の一つとして重要な影響力を持つようになった。

サティ禁止令

 彼は新聞の発行などを通じてカースト制度や幼児婚、特にサティ(寡婦殉死)のような習俗の廃止を主張し、ヒンドゥー教正統派やイギリス当局に働きかけ、1829年にベンガル総督に禁止令を出させることに成功した。かれは1830年、バラモンとして初めて海を渡ってイギリスに渡り、議会でインドの現状について発言し、独立を訴えたが、33年にイギリスのブリストルで客死した。<森本達雄『インド独立史』1973 中公新書 p.64-65>

Episode 義姉のサティに直面したモーハン=ローイ

 サティ(寡婦の殉死)によって夫婦は天界に生まれかわり、夫の祖先の罪が消滅すると信じられていたため、いやがる寡婦を親族がよってたかって説得したり、麻薬を飲ませ、むりやり火中に追いやることが行われていた。このサティの蛮習の廃止に立ち上がったモーハン=ローイも、青年時代に兄の死後サティを志願した義姉を説得したが聞き入れられなかったという苦い経験をした。義姉は自らサティを望んだけれど、いざ火に触れたとき身をわななかせ逃れようとした。しかし親族や僧侶が竹の棒を持って無理やり彼女を火中に追いやり焼き殺してしまった。その間中、彼女の叫喚をかき消すために、太鼓やシンバルが打ち鳴らされた・・・。モーハン=ローイはこの悪習の根絶を誓い、20年にわたる請願運動によって、1829年にベンガル総督にサティ禁止令を出させることに成功した。しかし、近年までごく稀にだが、サティが行われていたという。<森本達雄『ヒンドゥー教』2003 中公新書 p.196-199>
印 刷
印刷画面へ
ノートの参照
第14章3節 オ.インドでの民族運動の形成
書籍案内

森本達雄
『ヒンドゥー教
-インドの聖と俗』
2003 中公新書