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カースト制度

一般にインド社会に固有な身分制度をいい、ヴァルナとジャーティからなる。

 インドに特有の社会制度で、人間はヴァルナという4つの基本の種姓に分けられる。4つの基本ヴァルナとは
 バラモン:バラモン教の司祭階級。宗教的な支配者階級。
 クシャトリヤ:武士または貴族とされる、政治的、軍事的支配階級。
 ヴァイシャ:農耕牧畜、手工業に当たる生産者、庶民階級。以上三カーストが上位カースト。
 シュードラ:本来は隷属民とされた被支配者階級。下位カースト。
である。この4ヴァルナは、前1500年頃に始まるアーリヤ人がインドに移住する過程で、征服民が上位の3ヴァルナを構成し、先住民のドラヴィダ人が下位ヴァルナとなったことから始まったが、長い経過を経て、10~12世紀ごろに世襲の職業集団であるジャーティにわかれ、人々はそのいずれかに属し、通婚の禁止などの他、生活の細部にわたって規制が加えられていた。  このヴァルナ制とジャーティから成る身分制度は、インドに来たポルトガル人が血統を意味するポルトガル語の「カスト」から「カースト制度」と言ったことによってヨーロッパに知られ、一般化した。なお、カーストはあくまで「身分」であり、経済的・政治的階層関係と重なっていないことも多い。経済的には貧しいバラモンや、一方で豊かなシュードラも存在する。

カーストの語源

 「カースト」と言う言葉はインドの言葉ではなく、ポルトガル語のcasta(血統の意味)からきた。ポルトガル人が16世紀にインドに来るようになってから、インドの身分社会=ヴァルナ制をそのように名付けたことに始まる。日本ではそれを継承して「カースト」は4種姓(バラモン・クシャトリヤ・バイシャ・シュードラ)を意味することが多いが、厳密にカーストに当たるものは職業的世襲制度としてのジャーティである。

カースト制度の成立

 インドに固有のカースト制度という身分制度は、前1000年ごろ鉄器文明段階に入ったアーリヤ人がインダス川流域(パンジャーブ)から東方のガンジス川流域に移住し、先住民を征服する過程で肌の色が白く(いわゆるインド=ヨーロッパ語族)、肌の色の異なった被征服民を差別したところから始まったものと考えられている。征服と被征服の関係に加えて、原始的な遊牧社会から農耕社会に移行し、さらに生産力が向上して手工業や商業が発達して都市国家が形成されるとともに形成された経済的格差(貧富の差)の拡大と固定化などが背景と考えられる。宗教的には、アーリヤ人の宗教(バラモン教から後にヒンドゥー教に発展する)の世界観と深く結びついていることが重要である。

カースト制の原型

 カースト制度の原型は『リグ=ヴェーダ』にさかのぼる。『リグ=ヴェーダ』の「プルシャ賛歌」では、神々が原人プルシャを犠牲として祭祀を行ったとき、プルシャの身体の各部分から月、太陽、神々、天地、方位、畜類とともに四種の人間、つまりプルシャの口からはバラモン(祭官)、腕からラージャニヤ(クシャトリヤ、王族)、腿(もも)からヴァイシャ(庶民)、足からシュードラ(奴隷)がそれぞれ生まれたという。プルシャ賛歌はカースト制度の上下の身分関係とともに社会での役割分担を表現していると考えられ、インドの独立の父と言われるガンディーも本来のカースト制度を相互協力による有機的な社会の原理とみなしたが、身分制度の容認、擁護ともとられ批判を受けることとなる。<山下博司『ヒンドゥー教とインド社会』山川出版社・世界史リブレット5>
 → ヴァルナ制 ジャーティ 

カースト集団

 本来のインドの言葉ではジャーティ(「生まれ」や「家柄」の意味)という。カーストはポルトガル人が4種姓(ヴァルナ)をヨーロッパに伝えたときに用いた言葉であるが、やはり「血統」という意味があるので、現在では混用されており、インドでもジャーティをカースト、あるいはカースト集団等と言うようになっている。
 カースト集団(ジャーティ)はほぼ同一の職種にある人々が、同じカースト内のみの通婚によって維持された。異カースト間の通婚は違法とされたが、全くなかったわけではなかった。男性が上位で女性が下位のカーストである場合は結婚は認められたが、その逆は認められなかった。また職業においても世襲が原則であったが、その仕事の口は限界があるので、自分のカーストの仕事だけでは食べていけない場合がある。そのような場合は窮迫時の特例として下位のカーストの仕事をすることは許された。

カースト制の否定

 前5世紀ごろの仏教やジャイナ教などカースト制を否定する宗教が生まれる。都市国家から統一国家の形成期になると、カースト的な社会は統一的支配の障害になる面があり、仏教が統一国家の理念として保護されるようになったが、民衆生活の中ではカースト制は生き続けた。

カースト制度の定着

 紀元後4世紀に成立したグプタ朝時代はヒンドゥー教が成立した時代であるが、まだ宮廷では仏教やジャイナ教も大きな力を持っていた。しかし、仏教とジャイナ教は貴族や商人など上層社会に信者が多く、民衆間には伝統的な村落の行事などと結びついたヒンドゥー教の影響が次第に強まり、それに伴ってカースト制度(厳密にはジャーティ制度)も社会に定着していった。
 北インドにイスラーム教の勢力が及び、13世紀にデリー=スルタン朝のイスラーム政権が成立する課程で、イスラーム教は民衆の信仰であるヒンドゥー教に対しては比較的寛容であり、ジズヤ(人頭税)の支払いを条件にその信仰が認められ、次のムガル帝国も当初は同様な宗教政策を採った。その間、ヒンドゥー教でも純粋に神への帰依を説くバクティ運動がまず南インドに広がり、つづいて北インドにも及んで行くなかでカースト制度はインド社会に深く結びついていった。

カーストへの批判

 15世紀末から16世紀初めに現れたカビールは、イスラーム教のスーフィズムとヒンドゥー教のバクティ信仰の融合を図りながら、カースト制度や不可触民に対する差別を非難し、人々の平等を説き、その思想はパンジャーブ地方のナーナクに受け継がれ、シク教を創始した。
 17世紀に始まるインドのイギリス植民地化の課程で、カースト制はインドのヒンドゥー教とイスラーム教の対立や多言語社会などと共に、その停滞性の現れとされ、インド植民地化の要因とされるようになった。しかし、イギリスはインド植民地支配において、ヒンドゥー教徒とイスラーム教徒の対立を理由としただけでなく、カースト間およびカーストとアウト=カースト(不可触民)の対立を利用する、いわゆる分割統治を行った。近代に入り、反植民地闘争と共にカースト制度反対の動きも始まり、現在のインド憲法ではカースト制の差別は否定されている。しかし、依然としてインド社会ではカースト制の影響は根強く残っている。

Episode ガンディーとカースト制度

 ガンディーの生まれはモード=ヴァニヤと呼ばれる商人カーストであった。1888年、彼が18歳でイギリス留学を決意したとき、カーストの集会に呼ばれ、カーストの掟に反するとして海外留学を禁止された。「君はカーストの掟を破る気か」とカーストの長老に問いつめられたガンディーは、「わたしはこの問題にカーストは干渉すべきではない、と思います」と述べ、長老を激怒させた。長老は「ここなる少年は、本日よりカーストから追放された者として取り扱うものとする。彼に援助の手を差し伸べた者、見送りに波止場に行った者は、全員1ルピー4アンナの罰金に処す」と宣言した。ガンディーはそれに屈せず、留学を実行して弁護士資格を取り、インドに戻ってくるのであるが、そのときもガンディーのカースト再加入を認める人々と、除籍を続けるべきであると主張する人々の二派に分かれたままであった。<ガンディー『ガンジー自伝』中公文庫 蝋山芳郎訳 p.65,110>
 当時もまだカーストから追放されることは青年にとって大きな痛手であった。やがてガンディーはカースト制度に対する批判、特に不可触民に対する差別を激しく非難するようになる。しかしガンディーは生涯を通じカースト制度その者と結びついていたヒンドゥー教の熱心な信者であり、その運動の理念はヒンドゥー教に依拠していた。若い頃、イギリスの近代社会を目の当たりにしたガンディーは西欧文明社会が必ずしも優れていて正しいものであるとは見ず、むしろインドのヒンドゥー教に根ざした伝統に真理を求めたのだった。
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ノートの参照
第2章1節 ウ.アーリヤ人の進入とガンジス川流域への移動
書籍案内

山下博司『ヒンドゥー教とインド社会』山川出版社・世界史リブレット5

ガンジー
『ガンジー自伝』
中公文庫