印刷 | 通常画面に戻る |

二重権力

第2次ロシア革命の三月革命後の臨時政府とソヴィエト政権が並立した状態。7月にケレンスキーが首相となり改称される。

 1917年の二月革命(三月革命)で、国会(ドゥーマ)で選任された臨時政府の中心は大土地所有者や大工業主、それまで野党議員であった自由主義者などであった。首相兼内務大臣は立憲民主党(カデット)のリヴォーフ公爵、外務大臣が同じくカデットのミリュコーフであり、司法大臣として入閣したエスエルのケレンスキーのみが比較的労働者大衆に近い存在であった。臨時政府は議会制を基礎としたブルジョア共和政を目指したので、イギリス・フランスとの協力を失うことを恐れ、戦争を継続する道を選んだ。
 それにたいして、ソヴィエトは、労働者・兵士の代表から組織され、即時平和と生活苦の解消をまず目指そうとした。ただし、この段階ではソヴィエトの中はボリシェヴィキだけではなく、メンシェヴィキやエスエル左派などの勢力が多数を占めていた。ボリシェヴィキの指導者たち、レーニンは亡命中、カーメネフやスターリンはシベリア流刑地にあった。
 こうして2月から二重権力の情況が進む中、4月にはレーニンが亡命先のスイスから帰国し、四月テーゼで「すべての権力をソヴィエトへ」という指針をボリシェヴィキに示し、その結束を図った。臨時政府は寄せ集めの政権であったため閣僚間の対立などから分解し、7月にケレンスキーが首相となった。ソヴィエトで多数を占めていたエスエルとメンシェヴィキもケレンスキー政権を支持し、閣僚を送ったので、二重権力は解消された。
 ケレンスキー政権は第一次世界大戦の継続を決定するとともにボリシェヴィキ弾圧に乗り出し、七月暴動を機にレーニン逮捕に踏み切ったが、レーニンはフィンランドに逃れた。こうして緊張の高まった臨時政府とボリシェヴィキの対立は、十月革命(十一月革命)で臨時政府が倒されて終わりを告げる。
印 刷
印刷画面へ
ノートの参照
第15章1節 エ.ロシア革命