印刷 | 通常画面に戻る |

レーニン

ロシアのボリシェヴィキの指導者。ロシア革命を指導し最初の社会主義国家を建設した革命家。

レーニン
Lenin 1870-1924
 第一次世界大戦とロシア革命の時期のロシアで、第2次ロシア革命の指導者となった人物。レーニンは筆名で「レナ川の人」の意味。本名はウラジミール=ウリヤーノフ。兄の影響で早くから社会主義運動に入った。ペテルブルクでマルクス主義グループに加わり、ナロードニキや合法的社会主義を批判して独自の革命理論を作っていった。1895年、ペテルブルクで労働者階級解放闘争同盟を組織、一時捕らえられてシベリアに流刑となり、現地で女性革命家クルプスカヤと結婚。1900年に亡命。
 1902年には『何をなすべきか?』を著し、少数の職業的革命家からなる中央集権的な革命政党が労働者を指導すべきであると主張した。1903年のロシア社会民主労働党第2回大会に参加し、その主張を展開しボリシェヴィキを指導した。第1次ロシア革命では当面のブルジョア民主主義革命の達成を目指した。

二月革命

 第一次世界大戦が起こると、帝国主義戦争に反対し、第2インターナショナルと対立した。1916年には『帝国主義論』を著し、資本主義社会の矛盾点を明らかにした。
 1917年、ロシア二月革命(三月革命)が起こり、ロマノフ朝のツァーリ専制政府が倒れ、ブルジョワ立憲主義者を中心に臨時政府が成立、一方でペトログラードなど各地で労働者・兵士のソヴィエトが成立し、ロシアは二重権力の状態となった。4月にレーニンは亡命先のスイスから”封印列車”でロシアに戻り、直接ボリシェヴィキを指導することとなった。

Episode 封印列車

 二月革命が勃発した時、レーニンは亡命地のスイスのチューリヒにいた。革命勃発の知らせを受け、ただちにロシアにもどることとしたが、大戦中でありロシア人がドイツ国内を通行することはできない。そこで極秘裏にドイツ当局と交渉し、一切ドイツ人と接触しない”封印列車”でドイツ領内を通行する条件で認めさせた。ドイツとしても、ロシアの革命が進み、戦争から離脱すれば西部戦線に全力を傾けることが出来るので、レーニンの通過を認めたものと思われる。レーニンは四月、キール港から海路ペトログラードにもどって四月テーゼを発表、ボリシェヴィキ派の指導者となるが、臨時政府はレーニンは敵国ドイツの協力でロシアにもどったのであり、ドイツのスパイの疑いがあると宣伝し、七月にはレーニンはフィンランドに逃れることとなる。

ペトログラード帰還

(引用)ソヴィエトを構成する人々は、ごくわずかの例外を除いて、この二月のできごとを西欧型ブルジョワ民主主義体制を確立するロシア・ブルジョワ革命として把えることに満足して、社会主義革命の方は不確定の将来のこととして後景に退かせていた。臨時政府との協調はこうした考えからすれば当然の帰結であり、この考えは最初にペトログラードに戻ってきた二人の指導的ボリシェヴィキ――カーメネフとスターリン――にも分かちもたれていた。
 四月はじめにおけるレーニンの劇的なペトログラード到着は、この不安定な妥協を粉砕した。レーニンは――当初、ボリシェヴィキの中でさえ、ほとんど孤立無援だったが――、ロシアにおける現下の動乱はブルジョワ革命であってそれ以上の何ものでもないとする想定を攻撃した。二月革命以後の状況の展開は、それがブルジョワ革命の範囲内にとどまってはいられないであろうというレーニンの見地を確証した。専制の倒壊のあとに続いたものは、権力の分岐(二重権力)というよりも、むしろ権力の完全な拡散であった。・・・・<E.H.カー/塩川伸明訳『ロシア革命』1979 岩波現代文庫 p.4>

四月テーゼ

 レーニンはただちに「四月テーゼ」を発表し「すべての権力をソヴィエトへ」という指針を提起したが、当初はボリシェヴィキの中でも孤立し、主導権を握ったわけではなかった。6月に開催された第1回の全ロシア=ソヴィエト会議社会革命党(エスエル)メンシェヴィキが多数を占めていた。
(引用)・・・レーニンが彼の有名な「四月テーゼ」において、革命の性格の再定義に着手したとき、彼の診断は、するどい洞察であるだけでなく、予見的なものでもあった。彼は事態を説明して、革命は、権力をブルジョワジーに与えた第一段階から、労働者・貧農に権力をひきわたす第二段階へと移行しつつあるとした。臨時政府とソヴィエトとは、同盟者ではなく、別個の階級を代表する敵対者なのである。目指すべき目標は、議会制共和国ではなく「下から成長してくる全土の労働者・雇農・農民代表ソヴィエトの共和国」なのである。たしかに社会主義を直ちに導入することはできないが、第一段階として、ソヴィエトは「社会的生産と分配」を統制すべきである。波瀾にみちた1917年の夏の間中に、レーニンは徐々にこのプログラムへと党支持者を結束させていった。<E.H.カー/塩川伸明訳 同上 p.5-6>

七月暴動

 7月、レーニンの指導するボリシェヴィキは臨時政府の戦争継続に反対して大規模なデモを組織、臨時政府はエスエル右派のケレンスキーが首相となり、ボリシェヴィキを弾圧にのりだし、レーニンをドイツのスパイであるとして逮捕しようとした(七月暴動、または七月事件といわれる)。レーニンは難を避けてフィンランドに亡命した。フィンランド亡命中に、レーニンは『国家と革命』を書いて二月革命のブルジョワ革命をさらに一気にプロレタリア革命に発展させ、議会政治を否定してボリシェヴィキ独裁体制を樹立すべきであるという理論的見通しを示した。

十月革命

 レーニンは、臨時政府の弾圧を避けるために変装してペトログラードに戻りボリシェヴィキの武装蜂起を組織し、1917年11月7日、臨時政府を倒して十月革命(十一月革命)を成功させた。トロツキーらとともに第2回全ロシア=ソヴィエト会議を開催してその主導権を握り、ソヴィエト政権の樹立を宣言し、「平和についての布告」と土地についての布告」を提案し、承認された。同日、全ロシア=ソヴィエト会議は、従来の内閣に変わる臨時労農政府の執行機関として人民委員会議を設置し、レーニンをその議長に任命した。この人民委員会議長は他国でいえば大統領兼首相であり、国家元首に当たる存在であった。人民委員会議の外交委員(外務大臣に当たる)にはトロツキーが就任した。

ボリシェヴィキ独裁の実現

 レーニンが革命の過程でもっとも大胆な行動を起こしたのが、1918年1月の憲法制定議会の閉鎖であった。これはロシアで最初の普通選挙によって議員を選出し、憲法を制定することを目的としていたが、選挙の結果はボリシェヴィキは第1党になれず、議会を通じて革命的政策を実現することはできなかった。レーニンはそのような議会政治に決別すべく、ボリシェヴィキの武力を動員して議会を閉鎖し、ボリシェヴィキ独裁を実現させた。この路線がさらに強められ、ソヴィエト政権下ではボリシェヴィキ(3月に共産党に改名)以外の政党は禁止されて、議会政治も否定されることとなる。これがロシア革命の転換点であって、レーニンに対する評価も分かれるところであろう。

ブレスト=リトフスク条約での講和

 ドイツは停戦を受け入れ、ブレスト=リトフスクで講和交渉が始まり、ソヴィエト=ロシアはトロツキーが交渉に当たったが、1918年にドイツ革命運動を支援するためには戦争を継続すべきであるとしてトロツキーは交渉打ち切りを主張した。しかしレーニンは戦争継続は困難と判断して、トロツキーを解任して同年3月、ブレスト=リトフスク条約締結に踏み切った。それによってロシア領土は大幅に減少したが、戦争終結を実現した。

Episode レーニン暗殺未遂事件

 1918年8月30日(新暦)に、レーニン暗殺未遂事件が起こった。このときレーニンはモスクワの工場労働者に演説をしていた。レーニンにピストルを撃ったのはファニー=カプランという35歳の女性の社会革命党の左派(左翼エスエル)党員だった。一発の銃弾がレーニンの左の肩の骨を砕き、もう一発が左の胸の上を貫通して、右の胸骨の関節近くで止まった。もし左右どちらかへ1センチでもそれていたらこのときレーニンは死んでいたに違いない。カプランはその場で逮捕され、4日後チェカによって処刑された。<外川継男『ロシアとソ連邦』1991 講談社学術文庫 p.322>  左翼エスエルは、ソヴィエト政権に加わっていたが、ドイツとのブレスト=リトフスク条約での講和に反対して政権から離脱し、ボリシェヴィキに対するテロ攻勢をかけていたのだった。ボリシェヴィキはそれに対し、チェカを先頭に反対派の取り締まりを開始した。こうしてレーニンは旧勢力による反革命との内戦や外国の革命干渉軍との戦いだけでなく、革命派との路線対立でも血を流す戦いを強いられた。

戦時共産主義

 それに対して反革命勢力は各地に反革命政権を樹立して内戦を仕掛け、さらに資本主義(帝国主義)国のイギリス、フランス、アメリカ、日本などの対ソ干渉戦争を仕掛けてきたため、「戦時共産主義」の体制を強め、農民生活を犠牲にしながら革命政権の維持を図った。国内の反革命や、社会革命党左派のボリシェヴィキに対するテロなどを取り締まるためにチェカが活動した。この戦時共産主義は1918年から1921年まで継続され、その間、農民には大きな犠牲を強いることとなった。

コミンテルンの創設

 レーニンは資本主義国家権力を倒し、社会主義革命を成功させるには、ロシアだけでは不可能だと考えていた。現実に外国の干渉軍によって危機に陥っているロシア革命を守るためにも、外国でも労働者の革命蜂起が必要であると見ていた。そのためには、かつての第二インターナショナルのような社会民主主義路線ではなく、革命路線の国際組織がどうしても必要だと判断し、1919年3月、コミンテルン(共産主義インターナショナル、通称第三インターナショナル)を創設した。このレーニンの目指した国際革命は彼の理念からは必然的なことであったが、現実は違っていた。
レーニンの誤算 1920年4月、ポーランド軍がロシアに侵攻してソヴィエト=ポーランド戦争が始まったとき、ちょうど第2回コミンテルン大会の最中だった。そこでは国際プロレタリアートが世界革命に立ち上がる展望が話し合われていた。そのような中、レーニンはポーランドとの戦争で赤軍にワルシャワへの進撃を命じた。レーニンは赤軍がワルシャワに入れば、ポーランドの労働者はそれに呼応して立ち上がるだろうと期待したのだった。ところが、ワルシャワを前にして赤軍は大敗北を喫した。ポーランドの労働者は祖国防衛という民族主義理念の方に動かされ、赤軍に動員されたロシア農民は、内戦や干渉戦争で見せた戦闘意欲をこの戦いでは発揮しなかった。多くの赤軍兵士は「革命を輸出して」国際革命のために戦うという大義に従うレベルにはなかったのだった。その後も、ドイツ革命、ハンガリー革命がいずれも失敗し、レーニンの国際革命は実現せず、コミンテルンはロシア共産党に従属する各国支部という性格のみが強まっていった。

ネップへの転換

 1921年3月のクロンシュタット反乱は、戦時共産主義に対して反発した農民出身の水兵たちが、「ボリシェヴィキのいないロシア」を掲げて起こした反乱だった。かつてロシア革命の推進部隊で会った兵士がボリシェヴィキ政権に反旗を翻したことは、レーニンにとっても大きな衝撃だった。反革命戦争、干渉戦争に勝利したものの、国内から革命を否定する動きが高まることを恐れたレーニンは、大きな路線転換を決断し、新経済政策(ネップ)を打ち出した。これは一定程度の資本主義経済への復帰を認めるもので、それによって経済体制を立て直おし、「一歩後退、二歩前進」を目指そうというものであった。この現実的な路線転換は、ネップマンといわれた新たな富裕層を生み出すなど、社会主義建設には廻り道を余儀なくするものであったが、工業力の復活、農業生産力の回復という当面の課題を克服することに成功し、同時に西欧諸国のボリシェヴィキ政権に対する警戒心を緩和することとなり、関係回復への動きをもたらした。まず同じく国際的に孤立していたドイツとの間でラパロ条約による国交回復が図られた。

ソ連邦の成立

 1922年12月にソヴィエト社会主義共和国連邦(ソ連邦、ソ連)が成立した。1917年の十月革命によって成立した新しい国家は、1922年の「ソヴィエト連邦」の成立までは一般に「ソヴィエト=ロシア(あるいはソヴィエト共和国)」という。
 ソヴィエト社会主義共和国連邦を構成したのは、1922年にはロシア、ベラルーシ、ウクライナ、ザカフカースの4国であった。ロシア共和国は、ソ連邦の全面積の4分の3、全人口の半分、資源の8割方を占める最大の連邦構成国であった。首都のモスクワ、大都市レニングラード(現サンクトペテルブルク)を含む、旧ロシア帝国以来のスラヴ人を主体とした国家であったが、共和国内の北カフカス地方や中央アジア、シベリアには、多くの自治国と自治区を含んでいた。

レーニンの死

1924年に死去。その死後、共産党の主導権はトロツキーとスターリンが争い、スターリンが継承した。

レーニンは1921年から重病の床にあり、事実上の引退を余儀なくされていた。1922年には後継書記長としてスターリンが選出されていたが、共産党の主導権をめぐって、トロツキーの対立が激しくなった。1924年、レーニンはついに脳梗塞で死去したが、そのいずれが「革命の父」レーニンの意志を継承するにふさわしいか、という争いが表面化した。実は、1922年の12月に、レーニン自身がその二人をどう見ていたか、遺書に明確に示されていた。このときは遺書は公開されず、結局スターリンが権力闘争に勝利し、その後のスターリン体制が続くことになるが、その間も一貫してレーニンの遺書は秘密にされ続けた。それが、1956年のフルシチョフによるスターリン批判の後にようやく公開された。その一部には次のようなことが書かれていた。

レーニンの遺書

(引用)わたしは、この観点から見た安定性の問題で基本的なのは、スターリンやトロツキーのような中央委員であると考えている。彼らの相互関係が、わたしの考えでは、分裂の危険の大部分をつくりだしている。この分裂は避けることのできるものであるだろうし、それを避けるには、わたしの意見では、中央委員の人数を五〇人あるいは一〇〇人にまでふやすことが、とくに役だつにちがいない。
 同志スターリンは、党書記長となったのち無限の権力を自分の手に集中したが、わたしには、彼がつねに十分慎重にこの権力を行使できるかどうかについては、確信がない。他方、同志トロツキーは、交通人民委員部の問題をめぐつての彼の中央委員会にたいする闘争がすでに証明したように、卓越した才能という点でぬきんでているだけではない。個人としては、彼はおそらく現在の中央委員会のなかでもっとも有能な人物であるが、しかしまた、あまりに自分を過信し、物事の純粋に行政的な側面に過度に熱中しやすい。
 現在の中央委員会のこの二人の卓越した指導者のこのような二つの資質は、ふとしたことで分裂をもたらすことになりかねない。そして、もしわが党がそれを妨げる措置をとらないならば、分裂が不意におとずれることになるかもしれない。……」
また別な箇所では「スターリンはあまりにも粗暴である。そして、この欠点は、われわれ共産主義者の仲間うちや、交際のなかでは、十分がまんできるものではあるが、書記長の職務にあってはがまんできないものになる。だから、スターリンをこの地位から更迭し、ただ一つの長所によってほかのあらゆる点で同志スターリンとは異なるべつの人物、すなわち、もっと辛抱強く、もっと誠実で、もっとていねいで、同志にたいしもっと親切で、彼ほど気まぐれでない、等々の人物をこの地位に任命する方法を熟考することを、わたしは同志諸君に提案するのである。<松田道雄編『ドキュメント現代史1 ロシア革命』平凡社>

レーニン死後

 1924年のレーニンの死後、その後継をめぐってトロツキースターリンの間の激しい闘争が始まる。なお、その死後の1924年に革命指導者の名を冠してペトログラードレニングラードに変更した。
印 刷
印刷画面へ
ノートの参照
第14章1節 オ.ロシア
第15章1節 エ.ロシア革命
第15章2節 オ.ソ連の社会主義建設
書籍案内

E.H.カー/塩川伸明訳
『ロシア革命』
1979 岩波現代文庫
松田道雄編
『ドキュメント現代史〈1〉ロシア革命』
1972年 平凡社
オーエン・セラー
/松田銑訳
『ペトログラード行封印列車』
1981年 文藝春秋社

レーニンの封印列車の裏で展開されたスパイ合戦を描いたフィクション。レーニンも本名ウリャノフとして登場する。