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十月革命/十一月革命

1917年、三月革命での二重権力状態を解消しボリシェヴィキ独裁を実現した革命。

 1917年11月はロシア暦では10月にあたるので、十月革命というが現在では新暦で十一月革命ということも多い。1905年の第1次ロシア革命にたいして、1917年のロシア暦二月革命(三月革命)とこの革命をあわせて第2次ロシア革命というが、この十月革命だけをロシア革命と言うこともある。または、その革命の中心勢力であった党派の名称から、ボリシェヴィキ革命と言うこともある。いずれにせよ、世界で最初の社会主義政権を成立させた革命であり、20世紀を通じてもっとも重要な変革の一つであったと言える。

七月暴動

 1917年7月に社会革命党(エスエル)右派のケレンスキー臨時政府の首相となり、第一次世界大戦参戦を継続し、ドイツにたいする攻勢を強めると、国内の労働者のは反発してストライキを決行した。7月4日にはボリシェヴィキが指導して、首都ペトログラードで50万人のデモが行われると、臨時政府はデモ隊に発砲して弾圧し、レーニンをドイツのスパイとして告発した。レーニンはやむなくフィンランドに逃れた。しかし、ドイツに対する軍事攻勢は失敗し、九月になると臨時政府の総司令官コルニーロフ将軍が戦争の継続を主張して反乱を起こし、革命は危機に陥った。この間、レーニンは亡命地のフィンランドで『国家と革命』を書いて、議会政治を否定しボリシェヴィキ独裁政権を樹立するための理論化を図った。

ボリシェヴィキの台頭

 レーニンは変装して密かにペトログラードにもどり、ボリシェヴィキ組織を再建、ジノヴィエフ、カーメネフ、トロツキーなどが幹部となって赤衛軍を組織し革命防衛に努め、コルニーロフの反乱を撃破した。国民一般も戦争を継続しようとするケレンスキー内閣に対する不満が強まり、ボリシェヴィキ支持が増大した。

ボリシェヴィキの武装蜂起

 そのような状況を見たレーニンは武装蜂起を決意、トロツキーを議長とする軍事革命委員会を組織した。ロシア暦10月24日(11月6日)、臨時政府がボリシェヴィキ派の新聞発行を禁止すると蜂起が始まり、ボリシェヴィキは赤衛軍を主力に臨時政府の拠点ペトログラードの冬宮を襲撃、抵抗の隙を与えず閣僚を逮捕した。しかしケレンスキーは女装して逃走した。こうして臨時政府は無血の内に瓦解した。翌25日、全ロシア=ソヴィエト会議の第2回大会が開催され、26日には「平和についての布告」と「土地についての布告」を発表し、レーニンを議長とする人民委員会議(内閣にあたる)を選び新政府を発足させた。このブルジョア共和政体制から、ソヴィエト政権への移行が十月革命(十一月革命)であり、世界最初の社会主義国家の実現を目指した社会主義革命が開始された。
 革命政権は10月28日の法令で身分制度を廃止して、すべての国民はロシア共和国の市民となった。その後、古い司法制度を廃止し、地方裁判官の裁判官を直接選挙で選出すること、銀行の国有化、結婚の自由、男女同権などの一連の改革が立て続けに実施された。
 同時に革命政府は、反革命との戦いに直面し、年末にはチェカ(非常委員会)と呼ばれる反革命運動の取締機関を設置し、反革命に対するテロを開始した。1918年8月にはレーニン暗殺未遂事件(犯人は社会革命党の女性党員とされた)が起き、反革命運動取り締まりはさらに厳しくなった。このチェカは1922年にゲーペーウー(国家保安部)に改組され、ソ連時代を通じて秘密警察として政府批判を取り締まることとなる。
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ノートの参照
第15章1節 エ.ロシア革命