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バスマチ運動

1918~24年、トルキスタン地方で起こった反ソヴィエトの民族闘争。

 ロシア革命で成立したボリシェヴィキのソヴィエト政権に反発して、旧ロシア領であった中央アジアの、ほぼ西トルキスタンにあたる地域のムスリム(イスラーム教徒)たちが1918年に起こした反乱。第一次世界大戦で敗れたオスマン帝国の青年トルコ革命の指導者エンヴェル=パシャパン=トルコ主義をかかげてこの地に移り、運動に参加した。ソヴィエト政権は中央から赤軍を派遣し、反乱の鎮定にあたった。1924年頃まではほぼ鎮定され、中央アジアには5つのソヴィエト社会主義共和国が成立した。旧ブハラ=ハン国のアミールなど旧支配層と結びついた反革命運動と見られていたが、最近ではトルキスタンの民族独立運動としての再評価が進んでいる。実態は、匪賊(あるいは山賊)ともいわれる非定住民集団であったため、組織的な抵抗に限界があった。

バスマチの意味

(引用)バスマチとは、襲撃者や急襲者を意味するテュルク系の言葉である。帝政ロシアの行政官たちは、ロシア軍の前哨を襲撃した政治色の多彩なムスリムの匪賊集団をバスマチと呼んだものだが、革命後にソビエト政権に反攻したムスリムの抵抗もバスマチ運動と名付けられた。かれらは、ブハラや東ブハラ(タジキスタン)やフェルガナを根拠地に活動していた。当人たちは、しばしば「コルバシュ」(隊長)とか、「イギット」(若者・勇者)とか、「ムジャーヒド」(戦士)と称したものである。異教徒との戦いにおいて死ねば「シャヒード」(殉教者)となったのである。<山内昌之『納得しなかった男 エンヴェル=パシャ 中東から中央アジアへ』1999 岩波書店 p.418>

ムスリムの反ソヴィエト運動の要因

 バスマチの誕生は、生まれたばかりのトルキスタン自治政府(コーカンド自治体)が1918年2月に現地のソヴィエト系赤衛隊とアルメニア人武装組織の攻撃で壊滅した悲劇に触発された点が大きい。タシケントのソヴィエト政権は、十月革命後に現れたムスリム住民の自治政府を「ブルジョワ民族主義の反革命」と考えていた。・・・ソビエトとムスリムとの対立は、優勢なヨーロッパ人の暴力的勝利で終わりを告げた。ソビエトにとり不手際だったのは、戦闘後におこなわれたアルメニア人部隊の略奪や破壊行為によって、多数のムスリムが虐殺されたことだろう。・・・この惨事は、結果として、アルメニア人はもとよりソビエト体制に対するトルコ=ムスリム住民の反感をつのらせ、フェルガナ一帯にムスリム・パルチザンの武装抵抗運動を広げる大きな要因となった。これがバスマチの濫觴にほかならない。<同 p.421>
アルメニア人がソビエト政権とともにトルコ=ムスリム住民の虐殺に加わった背景には、1915年のオスマン帝国軍によるアルメニア人の虐殺(それに責任があるのがエンヴェル=パシャであった)に対する報復という事情がある。
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ノートの参照
第15章1節 カ.ネップとソ連の成立
書籍案内

山内昌之
『納得しなかった男 エンヴェル=パシャ 中東から中央アジアへ』
1999 岩波書店