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エンヴェル=パシャ

オスマン帝国の軍人で1908年の青年トルコ革命を指導し、オスマン帝国を第一次世界大戦に参戦させた。

 1908年の青年トルコ革命を指導し、1914年には青年トルコ政権を樹立。第一次世界大戦ではオスマン帝国をドイツ側に参戦させた。敗戦後はケマル=パシャと対立して国外に逃れ、最後はパン=トルコ主義を掲げて中央アジアに入り、ソヴィエト政権に対する抵抗を続けていたバスマチ運動に投じ、1921年に戦死した。

『納得しなかった男』

 1881年生まれであるが誕生地や父母についてはさまざまな説があり定かでない。高い身分ではなかったらしいが、陸軍士官学校に進み、次席で卒業、統一進歩団(いわゆる青年トルコ)に加わり、1908年、サロニカ(現ギリシアの都市)で挙兵し、青年トルコ革命の指導者の一人として頭角を現してアブデュル=ハミト2世に憲法と議会の復活を認めさせた。一方でエンヴェルはスルタンの一族の女性ナジェを妻とし、社会的な地位も得た。エンヴェルら青年トルコはドイツにならった軍国化を進めようと、彼自身もベルリンに駐在武官として赴任した。
 スルタンのアブデュルハミト2世パン=イスラーム主義をとって専制色を再び強めると、1909年、エンヴェルはトルコに戻り、スルタンを退位させ、「専制政治は今日で終わった」という有名な演説を行った。エンヴェルはトルコ人、アラブ人、ブルガリア人、アルバニア人、ギリシア人、アルメニア人などの民族と宗教の違いを乗り越えてオスマン帝国のもとに統一するオスマン主義を掲げた。
 そのころ、「瀕死の病人」オスマン帝国に対する列強の侵略が激しくなり、1911年、イタリアがトリポリ・キレナイカ(リビア)に侵攻すると自ら現地に赴きイタリアと戦った(イタリア=トルコ戦争)。さらに翌年にはバルカン同盟の侵攻(第1次バルカン戦争)をイスタンブル直前でくいとめ、13年の第2次バルカン戦争ではブルガリアと戦って勝利を収め、名声を高めた。
 1914年に成立した青年トルコ政権では陸軍大臣を務め、ドイツとの接近を図り、第一次世界大戦が勃発すると反ロシアの立場からドイツ側に参戦した。その間、彼のオスマン主義は次第に維持できなくなり、大戦中には敵国ロシアへの協力を理由としたアルメニア大量殺害に責任を持つことになった。
 敗戦後は青年トルコ政権指導部とともに国外に脱出、エンヴェル自身は初めはソヴィエト政権と結びイギリスの勢力の排除を狙い、モスクワを経由して、バクーなどでイスラーム民族運動に近づいたが、次第にパン=トルコ主義(トゥラニズムとも言う)を掲げるようになり、ソヴィエト政権とも対立するようになった。さらに中央アジアに行き、ブハラを拠点にトルコ系民族運動を進めようとしたがうまくいかず、その頃ロシア革命に対するトルコ系民族の反革命運動として激しくなっていたバスマチ運動に加わり、東ブハラ(現在のタジキスタン)に入ったが、ソヴィエト軍との戦闘の中で1921年に戦死した。<山内昌之『納得しなかった男 エンヴェル=パシャ 中東から中央アジアへ』 1999 岩波書店 p.21~>
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山内昌之
『納得しなかった男 エンヴェル=パシャ 中東から中央アジアへ』
1999 岩波書店