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パン=トルコ主義

西アジアから中央アジアに及ぶトルコ民族の統合を求める運動。第一次世界大戦で青年トルコ政権のエンヴェル=パシャが主唱したが、現実的な動きにはならなかった。

 汎トルコ主義トゥラニズムともいう。オスマン帝国のトルコ人を中心に、カフカスや中央アジアなどロシア領内にまたがるトルコ系民族(トルコ系の言語を有する民族)の民族国家を作ろうという民族運動を意味している。

パン=イスラーム主義とオスマン主義

 トゥラニズムというのは、中央アジアにあったというトルコ人の伝説的な起源の土地トゥーランによる。20世紀のオスマン帝国で青年トルコの指導者として知られるエンヴェル=パシャは、スルタンのアブデュルハミト2世の掲げるパン=イスラーム主義(本質的なものではなく、スルタンの権力を飾るために用いられたに過ぎなかったが)に対して、オスマン国家を近代国家に脱皮させるための理念として、オスマン主義を主張した。それは、トルコ人だけではなくギリシア人、ブルガリア人、アラブ人、アルメニア人、ユダヤ人などの多民族国家としてのオスマン国家を新たに統合させる意図であったが、かえってトルコ人以外の民族の反発を受けた。

青年トルコのエンヴェル=パシャが牽引

 そのため、青年トルコ政権の中では、オスマン主義に対抗して、トルコ民族としての自覚を国家統合の軸にしようというトルコ民族主義が台頭し、有力となっていった。しかしそれは同時にオスマン帝国領内のアラブ人やアルメニア人との軋轢を生むこととなり、政権にとっても民族問題は困難な課題となっていった。
 そのような中で、1914年にクーデターで実権を握った軍人のエンヴェル=パシャは、オスマン主義を放棄し、オスマン国家の枠を超えたトルコ系民族の統一をめざす理念として、パン=トルコ主義に傾斜していった。これは特にロシア領内のトルコ系民族との連携を図ることを意味していたので、敵国ロシアに対する攻勢となるとエンヴェルは考えたのだった。
 エンヴェル=パシャは独断でドイツ側に立って第一次世界大戦への参戦に踏みきったが、その遠大な計画は実現することなく終わり、オスマン帝国は敗戦国となった。エンヴェルはオスマン帝国を離れて中央アジアに入り、パン=トルコ主義運動を実際に展開し、トルコ人国家の建設をめざして反ソヴィエト反乱を続けていたバスマチ運動に加わったが、その地で戦死し、パン=トルコ主義運動も実質的に終わりをつけた。
注意 現在は否定されている人種観 トゥーラ二ズムはその後も理念としては運動は継承されており、さらにトルコ系民族の概念をユーラシアに分布する中央アジア起源のアジア系民族=マジャール人、フィン人、モンゴル人、さらにツングース系の朝鮮人や日本人にも拡大して、その統一を主張するものとして一時期広く流布された。
 しかし、これはウラル=アルタイ語族の実在が信じられていた時代のイデオロギーであり,現在の言語学ではそれは否定されている。マジャール人・フィン人のウラル語族,日本人・朝鮮人などが中央アジア起源である説は過去のものであり、科学的根拠はなく、現在では取り上げられることはない。
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