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塩の行進

1930年、ガンディーが指導した第2次非暴力・不服従運動での抗議行動。インド人による塩の生産の自由化を求めることで、イギリスの植民地支配に打撃を与えようとした。

 インドの反英闘争は、イギリスの弾圧と懐柔のために1920年代後半には停滞したが、1930年1月に再び盛り上がり、ガンディーによる第2次非暴力・不服従運動が行われた。このときガンディーが提唱した、イギリスの不当性をインド民衆に訴えるための行動が「塩の行進」であった。
 当時、インドではは植民地当局による専売制がしかれていたので、自由に作ることはできなかった。ガンディーは敢えてその法律を破り、かつてインドで自由に行われた海水から塩を作る作業を行うため、各地の海岸を訪れた。ガンディーの一行が進んでいくと、至るところで大群衆が集まった。1930年3月12日に始まったこのガンディーの指導した運動は「塩の行進」とか「塩のサティヤーグラハ」と呼ばれ、塩の製造とともに外国商品のボイコット、植民地法への不服従、ストライキを訴える行動であった。
 ガンディーの指導する「塩の行進」に参加した多くの人々に対し、イギリス当局は激しい暴力的弾圧を加え、5月4日にはガンディーを逮捕、続く数週間に10万人を逮捕した。しかし、運動はさらに激しくなっていったので、翌1931年にイギリスはようやく塩の製造の許可、政治犯の釈放などを表明したので、運動は中止された。インド総督は初めてガンディーを交渉相手として認め、ガンディーもロンドンでの第2回英印円卓会議に出席して、イギリス政府に対市インドの不可分な完全独立をはじめて直接に訴えた。

ガンディーの思想と行動

(引用)暑いインドでは、は想像以上の必需品である。しかも塩は自然の恵みであり、外国政府が高い税金をかけて専売に付すべきものではない。ガンディーの鋭い直感力は、国民の誰もが問の意味を了解できる塩税の拒否を選び出したのである。彼はひとたび国民の目を一つの法律の不正に向けることができれば、帝国主義のからくりを容易に理解させうるものと考えた。・・・3月12日未明、ガンディーは78人の精選された弟子たちを連れて、サーバルマティのアーシュラム(道場)を出発し、ボンベイ近くのダンディー海岸まで241マイルの行程にのぼったのである。一行のなかには、学者あり、ジャーナリストあり、織工あり、そして賎民もいた。年齢もガンディーの61歳から16歳の少年まで含まれていた。長い杖を手に持って隊列の先頭を行く半裸の指導者の姿は、ネルーの表現を借りれば、しっかりした足取りで、平和的な不屈のおもざしで歩いて行く人の姿であり、実に感動的な光景であった。ひと目ガンディーの姿を見んものと、幾千、幾万もの老若男女が、毎日毎日ガンディーの通過する沿道に集まって待ちかまえた。・・・行進は24日間つづき、4月6日早朝にダンディー海岸に着いたガンディーは、海水で沐浴して身を浄め、祈りを捧げ、海岸に散在する小さな塩のかたまりを拾い集めた。この簡単な所作を合図に、第2回非協力運動の幕が切って落とされたのである。<森本達雄『インド独立史』1973 中公新書 p.149-150>
 イギリス警官はこのガンディーとそのサティヤーグラハ運動の集団に対して、塩法に違反するとして棍棒で見境なく殴打して押さえようとした。それでも非暴力を貫くガンディーは、反撃することなくなおも塩を拾い続け、インドの民衆に強い支持を受けた。

非暴力・不服従の実際

 「非暴力・不服従」は理念としては理解できても、現実の暴力に対してはたしてどこまで無抵抗でいられるのだろうか。すさまじいイギリス官憲の暴力に対し、ガンディーの非暴力ははたして徹底できたのだろうか。「塩の行進」での非暴力の実際がどのようなものであったか、その現場を伝えるニュース記事があるので引用しておく。ガンディーが逮捕された後の1930年5月21日、ダルサーナの塩倉庫をめざして行進してきたデモ隊と警官の衝突を目撃した唯一人の外国人記者『ニューフリーマン』紙のウェッブ・ミラーの記事である。
(引用)沈黙のうちにゆっくりとした速度で、人びとは塩倉庫までの八百メートルほどのデモ行進を始めた。数人が、塩倉庫の周囲に張りめぐらされた有刺鉄線の柵にかけるためのロープを持っている。担架の運搬係を命じられた二十人ほどは、不器用な手書きの赤十字マークを、ピンで胸に止めている。彼らが手にしている担架は、毛布で作られている。ガンディーの次男マニラル・ガンディーが、デモ参加者の先頭グループの中にいる。人びとは製塩所に近づくと、革命のスローガン「インキラーブ・ジンダバード(革命万歳)」のシュプレヒコールを始めた。
 塩倉庫の周囲には水をたたえた堀割がめぐらされ、カーキ色の半ズボンと茶色のターバンを身につけた地元スーラトの警察官が四百人ほど警護に当たっていた。六人のイギリス人の役人が、彼らを指揮している。警官は、「ラーティー」と呼ばれる、先端に鉄のたがをはめ込んだ1.5メートルもあるこん棒を手にしていた。柵の内部には、二十五人のインド人のライフル兵が整列していていた。
 柵から百メートルほどのところまでくると、ガンディーの支持者たちは無言のまま足を止めた。集団のなかから選ばれた精鋭部隊が前へ進み出て、堀割のなかを水につかりながら歩き、有刺鉄線の柵に近づいた。その周りをスーラト警察の警官たちが取り囲み、こん棒を振り上げて構えた。警官たちは、五人以上の人間が一つの場所に集まることを禁じた、そのころ制定されたばかりの規則に基づいて、デモ参加者に解散を命じた。部隊は黙ってその命令を無視し、ゆっくりと前進を続けた。私は、柵から百メートルほど離れたところで止まったデモ隊の本隊のなかにいた。
 突然、指揮官が命令を発すると、大勢のインド人警官が前進を続けるデモ参加者たちに襲いかかり、鉄の金具が付いたラーティで彼らの頭をむちゃくちゃに殴りつけた。だが参加者はだれ一人として、振り降ろされるターティーをかわそうと腕を上げることさえしなかった。殴られた者は、ボウリングのピンのように倒れていった。私が立っていた場所からも、こん棒が無防備な頭蓋骨を打ち砕く音が聞こえた。待機してそのようすを見守っていた人びとは、こん棒が降り降ろされるたびに息を呑み、自分が殴られているかのようなうめき声を上げた。
 殴られた者は意識を失って倒れるか、頭蓋骨が砕けたり肩が折れたりした痛みでのたうちまわった。わずか2、3分のうちに、その場は倒れた人びとで埋め尽くされた。白い衣服に、赤い血がにじみ出して広がった。残った者は列を乱さずに、黙ってひるむことなく行進を続け、彼らも次つぎと殴られていった。第一陣がすべて殴り倒されると、担架係が駆け寄り、臨時の病院として準備されていた草ぶきの小屋へ負傷者を運び去った。警官は、担架係には手を出さなかった。・・・
 以下、第二陣のデモ隊に対しても同じような暴力が振るわれ、約320人が負傷、その中には頭蓋骨を砕かれて意識不明になった者、腹や睾丸を蹴られて身もだえする者がいた。ガンディー派のわずかな医者が懸命に治療したが、そのうち二名が死んだ。日影でも46度に上がる暑さのために、その日のデモ行進は終わった。<ジョン・ケアリー編『歴史の目撃者』1997 朝日新聞社 p.311-315>
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書籍案内
インド独立史 表紙
森本達雄
『インド独立史』
1978 中公新書

ジョン・ケアリー編
/仙名紀訳
『歴史の目撃者』
1997 朝日新聞社